やっぱり布団で寝るのは最高です。皆さんいかがお過ごしでしょうか。人の家の床で寝てしまい、体中痛かった三日坊主でございます。しばらく更新が滞っておりますと、気になって仕方が無いのは困ったものです。ブログなど書いていない頃は別に気にならない事でも、書き始めて日常化してしまいますと、あれこれ気になってしまいます。久しぶりにパソコンを立ち上げて、確認をとるとなぜかほっとします。同時にアクセス激減にがっかりしたりもします。が、元々少しずれた感覚の持ち主ですので、多くの人に共感してもらう事にはあまり興味もありませんし、実際元々個人的なネタばかり書いてきましたので、読んで頂ける方に読んで頂けて、共感されたり、反感されれば、それでいい、アクセス数は気にしないぞ、そう思うのであります。
さてさて本日のネタは何にいたしましょうか、時事ネタをあれこれつつくのも飽きてきましたので、このブログ的には本筋に戻りまして、個人的な趣味に基づいたネタで書きたいと思います。ブログを書き始めた当初から、音楽ネタであればいつかは書きたいと思っていたバンドの一つ、キング・クリムゾン。彼らのアルバムについて書こうと思います。彼らのアルバムはどれも名作ばかりで、各々それこそ十五年近く繰り返し繰り返し聴いてきました。あえて形容するなら、死ぬほど聴いた数少ないバンドの中の一つです。もちろん聴きすぎて死ぬ事は原理的に有り得ませんので比喩ですが。
自分にとって音楽と言うものが、ある意味抜き差しならない、中途半端は許せない、そういう価値観を植え付けられた偉大なミュージシャン達の中の一つが、このキングクリムゾンというわけです。
とは言っても、彼らのアルバム、自分はレッド以降たいして聴いていません。もちろんリアルタイムではありませんが、ファーストからレッドまでは順々に聴いていき、好きの度合いの差はありますが、いずれも思い入れがあり、高いテンションで聴いていました。しかし自分はレッドのラスト、スターレスを聴いた後で、同じテンションを維持するのは不可能でした。あれで自分のキング・クリムゾンに対する思いが、燃やし尽くされ、完全にこれ以上無いだろうという、最も頂点に達した所で、華々しく砕け散ってしまった。
ですからキング・クリムゾンのすべてを愛している方からすれば、前期ファンでしかありませんので、怒られそうですが、その前期のキング・クリムゾンというのは、自分にとって、単純に音楽と言う一言では片付ける事の出来ない濃密な体験でした。
その中で、今日は異様なテンションと破壊力で魅了されたキング・クリムゾンの前期アルバムの中でも、まったく聴き手に媚びず自分達のやりたい事をある種エゴイスティックに追求した一枚、太陽と戦慄、Larks' Tongues in Aspic について書こうと思っております。
太陽と戦慄(紙ジャケット仕様)/キング・クリムゾン

¥2,275
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ファーストやレッド、それ以外にも書きたいアルバムはありますが、今日は自分の音楽に対する価値基準を根底から根こそぎ覆す決定的な体験になったこのアルバムについて書きたいと思います。それまでの彼らのアルバムこれ以降もそうですがいつも驚かされる、自分の価値観をぶち壊される、音楽の可能性を強烈に感じさせてくれるアルバムばかりですが、このアルバムはその中でも頭一つ飛び抜けており、音楽というものが自分にとって単なる娯楽という言葉で片付ける事の出来ないものとなる決定的な止めとなったアルバムでした。彼らのアルバムどれか一枚他人に進めるとすれば、まったく初心者用ではありませんが、自分はあえてこのアルバムを進めます。
ひりひりするような緊張感、混沌にテクニックとアイデアを駆使して向き合い、コンフリクトが奇跡的なテンションを生み出し、その貴重な一瞬を捉えて封じ込めたようなアルバム、決して妥協の無い、聴き手や商業的なものに媚びる事無く、圧倒的なクリエイティビティによって有無を言わせない説得力。そこには心地よさや、安らぎや、癒しなどと言うまやかしは一切無く、人は所詮孤独であり、この世のものは何一つわかっちゃいないという混沌を、目をそらす事無く見据え、一音一音を固い岩盤に刻み付けていくような力強さと、論理的なアーキテクチャー、表現する事への渇望や衝動、そういう決して相容れる事の出来ない、一瞬を見逃すとバラバラに砕け散ってしまう、砂の上、否水面に描いた文字のような、有り得ない一瞬がつまっています。それで独りよがりになっていない音楽としてのクオリティの高さも奇跡的と言えるでしょう。クオリティが高い完成度でありながら、その実験的な精神にはまだまだ可能性を感じさせてくれる、完璧な未完成とでも言うべきでしょうか、上手い表し方が見つかりませんがそんな感じです。人はこれでいいと言う事や、これ以上は無理という状態に物理的になっていると錯覚しがちですが、多くの場合、物理的制約より、精神的諦めがその事を決定づけます。本当に物理的稼働限界や物理的時間の制約に拘束される場合というのは、実は非常に稀です。特に日常生活を送っている場合、そういうものに縛られているという諦めがまず先に限界を決定します。精神的諦めをある程度コントロール出来るようになれば、人の限界パフォーマンスは以外と伸びます。
自分は実のところこのアルバムを最初に聴いた時、正直もうついていけないかもしれない、と吹き飛ばされそうになりました。しかし聴けば聴くほどその懐の深さ、音楽というものが生み出す事の出来る、可能性の深さ、そういうものを知りそして感じ、その事がクソ音楽に対する絶望をより強いものに変え、このような体験を渇望する現在の音楽への向き合い方にもなりました。彼らを聴かなければおそらく、マイルス・デイビスやジョン・コルトレーンのようなジャズを聴く事も、理解する事も無かったと思います。理解しているのか疑問はありますが、格好良さと素晴らしさは何となくわかるようになりました。彼らを聴いていなければ、自分が今聴いている音楽の幅ももっと狭かったかもしれません。
アルバムの聴き所となるのは、一曲目のLarks' Tongues in Aspic Pt1とラストのLarks' Tongues in Aspic Pt2 合計で二十分を超す、ギリギリの緊張感が生み出すインプロヴィゼーション、ロバート・フリップを中心として、その都度コンフリクトが起こり、形を変え続けるキング・クリムゾン、融和出来ない人間のぶつかり合いが奏でる、多様性、妥協の無い職人技がある一瞬、同じ目的を共有し、最高度の音楽を奏で、濃い塊となって音楽の殻を突き破り、時代性や時間の経過という障壁を突破し、偉大な実験精神、プログレッシブな曲作りは現在までいや未来に至ろうとも、新しく生まれるミュージシャン達の革新を軽々と退け続けるのではないかと思わせられる懐の深さ、聴き手の鼓膜に突き刺さり、心の琴線を揺さぶる、そんなキング・クリムゾン体験を濃縮させたような二十分です。名曲という意味で言えば彼らのアルバムにはいくつもありますが、濃密な体験系の曲の中では、ナンバーワンの出来ではないかと思います。彼らのアルバムの一曲目と言うと、ファーストの 21st Century Schizoid Manや、レッドのRedのように圧倒的破壊力のあるものや、アイランズのFormentera Ladyのような美しさを前面に押し出した破壊力(と言いますか再生力と言った方がいいのかな)に比べると地味な感じはするかもしれませんが、その硬派な作りは、ある意味それらに負けないインパクトがあります。
そして二、三、四曲目のボーカルものの名曲、メロディの素晴らしさは書くまでもありませんが、展開やアレンジの完璧な未完成、プログレッシブであり一歩間違えるとバラバラになってしまいそうなアレンジを、美しく洗練されたメロディが紡ぎ、名曲に仕立て上げる職人技。彼らのアルバムにはこうした完璧に近いメロディが生み出す名曲というのは珍しくも何ともありませんが、このアルバムではよりプログレッシブな側面を全面に押し出しているにもかかわらず、その完璧さを失う事も無く、より今まで以上の可能性を感じる事が出来ます。
そして五曲目である The Talking Drum 彼らの真骨頂であるインプロ、アイランズの Sailor's Taleと双璧をなすと言える位、大好きな緊張感溢れる興奮。クソバンドやクソミュージシャンを見ると、この二曲を千回ずつ、正座して黙想して聴けと説教したくなります。それくらい中途半端な歌ものや、へたクソな演奏を聴く事が苦痛や苦役だとわからせてくれる、シンプルでスリリングで、エキサイティングな興奮があります。
この四曲をサンドする形の全六曲がこのアルバムです。これを聴いてしまうと、クソ音楽は聴けなくなるでしょう。現実に向き合っていない、多様性とぶつかりあいながら模索していない音楽はクソです。マスターベションを見せられている行為と変わりません。ナルシズムをさらけ出すクソ音楽に溢れている昨今、音楽というのは本当に実りのないものばかりになってしまいました。商業音楽は勝手にやっていてくれれば構わないのですが、男性でも、女性でも、バンドでもソロでも、ロック的なノリを出しているミュージシャンや、クリエイティビティな事をしているつもりになっているバカミュージシャンの殆どが、マスターベーション野郎やナルシスト野郎ばかりなのには絶望すら感じます。
最近は音楽だけでなく、映画や小説までそうなっています。携帯電話の発達によってそうなっているというのですが、であればこれは不可逆な流れでしょう。そうすると自分のような人間は益々楽しめるものが少なくなっていく寂しい時代になってしまうのでしょうか。何ともやりきれなくなってきます。まあ愚痴はこの辺にして。
自分は以前も書きましたが、バンドの真似事を若い頃やっていました。自分がこのキング・クリムゾンの一員だったらと、よく想像して当時はぞっとしたりしました。ちょっとでもミスすると舌打ちが聞こえて来そうな、緊迫したギリギリの緊張感の中で演奏しているように聴こえますので、メンバー個人個人のプレッシャーは想像以上だと思います。自分だったら胃に穴があいてしまいそうだとよく感じたりしました。今、多様性というものが失われて均一化した社会にこの国はなっています。不愉快なものは排除し、無かった事にし、わかりあえない他人とは距離をとり、互いに干渉しあわずにそれぞれの島宇宙の中で暮らす、その島宇宙、丸山真男さん的に言えば蛸壺化という感じでしょうが、それぞれの蛸壺の中に引きこもり、その中の価値観で鍔迫り合いをしています。外部とのコミュニケーションはより希薄になり、そのわからなさは許容されず、断固決然的になったり、恐怖心が煽られたり。特定の生け贄にみんなで群がり吊るし上げ引きづり下ろす。よくあるパターンです。セクショナリズムによる軋轢は昔からあるものだとは思いますが、情報化社会や大量消費社会はその事をよりブーストさせ、メディアやお上はそれを煽り、そこに乗る、マッチポンプ的な振る舞いが見られます。学校は公教育が劣化していると叫ばれ、私立が幅をきかせ、同じ型にはめていこうと断固決然的に騒いでいます。子供も多様性を更に失っていくでしょう。
多様性を容認出来なくなるとどのような事が起こるのか、国民が単純化してしまいますと、簡単にある方向に全員が振れやすくなります。前大戦が泥沼化していった原因の一つに、教育が普及したが故に、多様性を失ってしまった事が原因の一つとしてあります。多様性が無いという事はコンフリクトも起こらず、したがって単純化された一義的な思考で舵取りをしていくようになります。何か困難が起こると、全員で頑張るとか、努力するとか、最善を尽くすというような事は語られても、どうすれば最善になるのかという論理的な思考のぶつかり合いも起こらないので、誰もが同じような対処法しか考えつかず、山本七平さんではありませんが、空気に支配され、気が付いたら誰も責任を取らない状態に陥ります。全員が同じ思考であればそうなるのも仕方が無いのかもしれません。
同じような家庭に育つ、同じような境遇の子供達を集めて、まったく同じような大人を作り出す、多様性が無くそれを許せない社会というのは、真っ暗闇です。官僚や政治家が腐っているのは、多様性が無いからです。それが無いとあらゆる局面に対応する行動の種類が限られてしまいます。単純化した種族に未来はありません。そういう社会を目指す事はろくでもないと知らなければ、人間は同じ過ちを何度でも繰り返すでしょう。
胃が痛くなりそうだからという理由で他人との軋轢を回避していたのでは、キング・クリムゾンのようなクリエイティビティは生まれません。自分に否定的な意見を許容出来ないようでは、所詮、ナルシストのマスターベーションを互いに見せあい褒めあっているに過ぎないのです。理解出来ない連中がいるからといって、蛸壺の中で引きこもっていたのでは、蛸壺の中での価値観でしか物事を判断出来ません。それをちょっと上から見た時にどう見えるのか、会社で出世する事は偉いかもしれませんが、会社以外の蛸壺では、そんなものはまったく何の役にも立ちません。単純化した島宇宙的価値観というのは外部からすれば何の意味もないものだったりします。意味が無いという事を知ってコミットするのと、知らずにするのでは物理的な結果は変わらないかもしれませんが、精神的に落ち込む事も少ないでしょう。この世に絶対的な価値など本当は誰にもわからない、しかし多様性の中から生み出された価値というのは、相対的に普遍性が高いという事も事実として知るべきでしょう。
最近六カ国協議ではアメリカが路線変更をしたため、この国は振り落とされそうになっていますが、メディアではまったくその事を伝えません。拉致問題と核の解決が、国交正常化の為のセットになってしまっている我が国では、拉致を叫ぶ事の情緒的な必要性ばかりが取り上げられ、メディアも政治家もそこに乗っかっています。交渉というのはきれい事や感情で片がつく問題ではありません。外交は正しさが是正される場所ではないのです。日本に経済制裁されたって、それ以外の国と上手くいけば、北朝鮮としては別に何の問題も無いでしょう。この国はアメリカの決定にはなんだかんだで従うしかリソースがありません。北朝鮮は脅威として存在した方が誰にとって都合がいいか考えましょう。現状の政策をこのまま継続してもそう簡単に拉致被害者は帰って来ません。それを最優先にするのであれば、交渉してバーター取引に持ち込むしかないのです。核も廃棄しろ、拉致被害者もかえせ、経済制裁も断固継続の姿勢のままでは、帰ってくる可能性は論理的に考えればあるわけありません。きれい事で言えば、そりゃ北朝鮮けしからんというのはわかります。喚いてスッキリするのが目的なのか、解決するのが目的なのか、もう少し合理的に考えればわかりそうなものですが。ポピュリズムに迎合する事しか出来ない政治やメディアではそんな事言えないし出来ないのかもしれませんが、政治家の目的は選挙で勝つ事であり、メディアの目的は視聴率だという事を忘れてはいけません。
最も本当に拉致が解決して、核も廃棄させる事ができて、経済制裁解除となり、国交正常化が結ばれてしまえば、脅威の根拠も無くなってしまいますから、誰にとって都合の良い状態なのか、我々はよく考えるべきなのではないでしょうか。
この手の話になりますと、長くなりそうですので、また後日改めますが、他人との違いに苦悩し、傷つく事は、必ずしもマイナスな事ばかりではありません。一時嫌な思いはしますがその事が人を成長させたりもします。多様性は傷つく恐れもありますがそれが無い社会はもっと酷い結果になるでしょう。不愉快だからと言って、無かった事には出来ません。向き合う姿勢が重要なのではないでしょうか。携帯電話やくだらないテレビ番組、本来無くても困らないものに人は縛られ、テクノロジーなしの生活は考えられないくらい我々は首までどっぷり浸かっています。しかし人の時間は限られています。実りの無い、本来必要のないものに多くの時間を割けば、本当に大切な事に使える時間は相対的に減っていくのは当然の帰結かもしれません。本当に大切なコミュニケーションを見極めていく事が重要なのではないでしょうか。キング・クリムゾン、太陽と戦慄についてつらつらと書いてみました。
さてさて本日のネタは何にいたしましょうか、時事ネタをあれこれつつくのも飽きてきましたので、このブログ的には本筋に戻りまして、個人的な趣味に基づいたネタで書きたいと思います。ブログを書き始めた当初から、音楽ネタであればいつかは書きたいと思っていたバンドの一つ、キング・クリムゾン。彼らのアルバムについて書こうと思います。彼らのアルバムはどれも名作ばかりで、各々それこそ十五年近く繰り返し繰り返し聴いてきました。あえて形容するなら、死ぬほど聴いた数少ないバンドの中の一つです。もちろん聴きすぎて死ぬ事は原理的に有り得ませんので比喩ですが。
自分にとって音楽と言うものが、ある意味抜き差しならない、中途半端は許せない、そういう価値観を植え付けられた偉大なミュージシャン達の中の一つが、このキングクリムゾンというわけです。
とは言っても、彼らのアルバム、自分はレッド以降たいして聴いていません。もちろんリアルタイムではありませんが、ファーストからレッドまでは順々に聴いていき、好きの度合いの差はありますが、いずれも思い入れがあり、高いテンションで聴いていました。しかし自分はレッドのラスト、スターレスを聴いた後で、同じテンションを維持するのは不可能でした。あれで自分のキング・クリムゾンに対する思いが、燃やし尽くされ、完全にこれ以上無いだろうという、最も頂点に達した所で、華々しく砕け散ってしまった。
ですからキング・クリムゾンのすべてを愛している方からすれば、前期ファンでしかありませんので、怒られそうですが、その前期のキング・クリムゾンというのは、自分にとって、単純に音楽と言う一言では片付ける事の出来ない濃密な体験でした。
その中で、今日は異様なテンションと破壊力で魅了されたキング・クリムゾンの前期アルバムの中でも、まったく聴き手に媚びず自分達のやりたい事をある種エゴイスティックに追求した一枚、太陽と戦慄、Larks' Tongues in Aspic について書こうと思っております。
太陽と戦慄(紙ジャケット仕様)/キング・クリムゾン

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ファーストやレッド、それ以外にも書きたいアルバムはありますが、今日は自分の音楽に対する価値基準を根底から根こそぎ覆す決定的な体験になったこのアルバムについて書きたいと思います。それまでの彼らのアルバムこれ以降もそうですがいつも驚かされる、自分の価値観をぶち壊される、音楽の可能性を強烈に感じさせてくれるアルバムばかりですが、このアルバムはその中でも頭一つ飛び抜けており、音楽というものが自分にとって単なる娯楽という言葉で片付ける事の出来ないものとなる決定的な止めとなったアルバムでした。彼らのアルバムどれか一枚他人に進めるとすれば、まったく初心者用ではありませんが、自分はあえてこのアルバムを進めます。
ひりひりするような緊張感、混沌にテクニックとアイデアを駆使して向き合い、コンフリクトが奇跡的なテンションを生み出し、その貴重な一瞬を捉えて封じ込めたようなアルバム、決して妥協の無い、聴き手や商業的なものに媚びる事無く、圧倒的なクリエイティビティによって有無を言わせない説得力。そこには心地よさや、安らぎや、癒しなどと言うまやかしは一切無く、人は所詮孤独であり、この世のものは何一つわかっちゃいないという混沌を、目をそらす事無く見据え、一音一音を固い岩盤に刻み付けていくような力強さと、論理的なアーキテクチャー、表現する事への渇望や衝動、そういう決して相容れる事の出来ない、一瞬を見逃すとバラバラに砕け散ってしまう、砂の上、否水面に描いた文字のような、有り得ない一瞬がつまっています。それで独りよがりになっていない音楽としてのクオリティの高さも奇跡的と言えるでしょう。クオリティが高い完成度でありながら、その実験的な精神にはまだまだ可能性を感じさせてくれる、完璧な未完成とでも言うべきでしょうか、上手い表し方が見つかりませんがそんな感じです。人はこれでいいと言う事や、これ以上は無理という状態に物理的になっていると錯覚しがちですが、多くの場合、物理的制約より、精神的諦めがその事を決定づけます。本当に物理的稼働限界や物理的時間の制約に拘束される場合というのは、実は非常に稀です。特に日常生活を送っている場合、そういうものに縛られているという諦めがまず先に限界を決定します。精神的諦めをある程度コントロール出来るようになれば、人の限界パフォーマンスは以外と伸びます。
自分は実のところこのアルバムを最初に聴いた時、正直もうついていけないかもしれない、と吹き飛ばされそうになりました。しかし聴けば聴くほどその懐の深さ、音楽というものが生み出す事の出来る、可能性の深さ、そういうものを知りそして感じ、その事がクソ音楽に対する絶望をより強いものに変え、このような体験を渇望する現在の音楽への向き合い方にもなりました。彼らを聴かなければおそらく、マイルス・デイビスやジョン・コルトレーンのようなジャズを聴く事も、理解する事も無かったと思います。理解しているのか疑問はありますが、格好良さと素晴らしさは何となくわかるようになりました。彼らを聴いていなければ、自分が今聴いている音楽の幅ももっと狭かったかもしれません。
アルバムの聴き所となるのは、一曲目のLarks' Tongues in Aspic Pt1とラストのLarks' Tongues in Aspic Pt2 合計で二十分を超す、ギリギリの緊張感が生み出すインプロヴィゼーション、ロバート・フリップを中心として、その都度コンフリクトが起こり、形を変え続けるキング・クリムゾン、融和出来ない人間のぶつかり合いが奏でる、多様性、妥協の無い職人技がある一瞬、同じ目的を共有し、最高度の音楽を奏で、濃い塊となって音楽の殻を突き破り、時代性や時間の経過という障壁を突破し、偉大な実験精神、プログレッシブな曲作りは現在までいや未来に至ろうとも、新しく生まれるミュージシャン達の革新を軽々と退け続けるのではないかと思わせられる懐の深さ、聴き手の鼓膜に突き刺さり、心の琴線を揺さぶる、そんなキング・クリムゾン体験を濃縮させたような二十分です。名曲という意味で言えば彼らのアルバムにはいくつもありますが、濃密な体験系の曲の中では、ナンバーワンの出来ではないかと思います。彼らのアルバムの一曲目と言うと、ファーストの 21st Century Schizoid Manや、レッドのRedのように圧倒的破壊力のあるものや、アイランズのFormentera Ladyのような美しさを前面に押し出した破壊力(と言いますか再生力と言った方がいいのかな)に比べると地味な感じはするかもしれませんが、その硬派な作りは、ある意味それらに負けないインパクトがあります。
そして二、三、四曲目のボーカルものの名曲、メロディの素晴らしさは書くまでもありませんが、展開やアレンジの完璧な未完成、プログレッシブであり一歩間違えるとバラバラになってしまいそうなアレンジを、美しく洗練されたメロディが紡ぎ、名曲に仕立て上げる職人技。彼らのアルバムにはこうした完璧に近いメロディが生み出す名曲というのは珍しくも何ともありませんが、このアルバムではよりプログレッシブな側面を全面に押し出しているにもかかわらず、その完璧さを失う事も無く、より今まで以上の可能性を感じる事が出来ます。
そして五曲目である The Talking Drum 彼らの真骨頂であるインプロ、アイランズの Sailor's Taleと双璧をなすと言える位、大好きな緊張感溢れる興奮。クソバンドやクソミュージシャンを見ると、この二曲を千回ずつ、正座して黙想して聴けと説教したくなります。それくらい中途半端な歌ものや、へたクソな演奏を聴く事が苦痛や苦役だとわからせてくれる、シンプルでスリリングで、エキサイティングな興奮があります。
この四曲をサンドする形の全六曲がこのアルバムです。これを聴いてしまうと、クソ音楽は聴けなくなるでしょう。現実に向き合っていない、多様性とぶつかりあいながら模索していない音楽はクソです。マスターベションを見せられている行為と変わりません。ナルシズムをさらけ出すクソ音楽に溢れている昨今、音楽というのは本当に実りのないものばかりになってしまいました。商業音楽は勝手にやっていてくれれば構わないのですが、男性でも、女性でも、バンドでもソロでも、ロック的なノリを出しているミュージシャンや、クリエイティビティな事をしているつもりになっているバカミュージシャンの殆どが、マスターベーション野郎やナルシスト野郎ばかりなのには絶望すら感じます。
最近は音楽だけでなく、映画や小説までそうなっています。携帯電話の発達によってそうなっているというのですが、であればこれは不可逆な流れでしょう。そうすると自分のような人間は益々楽しめるものが少なくなっていく寂しい時代になってしまうのでしょうか。何ともやりきれなくなってきます。まあ愚痴はこの辺にして。
自分は以前も書きましたが、バンドの真似事を若い頃やっていました。自分がこのキング・クリムゾンの一員だったらと、よく想像して当時はぞっとしたりしました。ちょっとでもミスすると舌打ちが聞こえて来そうな、緊迫したギリギリの緊張感の中で演奏しているように聴こえますので、メンバー個人個人のプレッシャーは想像以上だと思います。自分だったら胃に穴があいてしまいそうだとよく感じたりしました。今、多様性というものが失われて均一化した社会にこの国はなっています。不愉快なものは排除し、無かった事にし、わかりあえない他人とは距離をとり、互いに干渉しあわずにそれぞれの島宇宙の中で暮らす、その島宇宙、丸山真男さん的に言えば蛸壺化という感じでしょうが、それぞれの蛸壺の中に引きこもり、その中の価値観で鍔迫り合いをしています。外部とのコミュニケーションはより希薄になり、そのわからなさは許容されず、断固決然的になったり、恐怖心が煽られたり。特定の生け贄にみんなで群がり吊るし上げ引きづり下ろす。よくあるパターンです。セクショナリズムによる軋轢は昔からあるものだとは思いますが、情報化社会や大量消費社会はその事をよりブーストさせ、メディアやお上はそれを煽り、そこに乗る、マッチポンプ的な振る舞いが見られます。学校は公教育が劣化していると叫ばれ、私立が幅をきかせ、同じ型にはめていこうと断固決然的に騒いでいます。子供も多様性を更に失っていくでしょう。
多様性を容認出来なくなるとどのような事が起こるのか、国民が単純化してしまいますと、簡単にある方向に全員が振れやすくなります。前大戦が泥沼化していった原因の一つに、教育が普及したが故に、多様性を失ってしまった事が原因の一つとしてあります。多様性が無いという事はコンフリクトも起こらず、したがって単純化された一義的な思考で舵取りをしていくようになります。何か困難が起こると、全員で頑張るとか、努力するとか、最善を尽くすというような事は語られても、どうすれば最善になるのかという論理的な思考のぶつかり合いも起こらないので、誰もが同じような対処法しか考えつかず、山本七平さんではありませんが、空気に支配され、気が付いたら誰も責任を取らない状態に陥ります。全員が同じ思考であればそうなるのも仕方が無いのかもしれません。
同じような家庭に育つ、同じような境遇の子供達を集めて、まったく同じような大人を作り出す、多様性が無くそれを許せない社会というのは、真っ暗闇です。官僚や政治家が腐っているのは、多様性が無いからです。それが無いとあらゆる局面に対応する行動の種類が限られてしまいます。単純化した種族に未来はありません。そういう社会を目指す事はろくでもないと知らなければ、人間は同じ過ちを何度でも繰り返すでしょう。
胃が痛くなりそうだからという理由で他人との軋轢を回避していたのでは、キング・クリムゾンのようなクリエイティビティは生まれません。自分に否定的な意見を許容出来ないようでは、所詮、ナルシストのマスターベーションを互いに見せあい褒めあっているに過ぎないのです。理解出来ない連中がいるからといって、蛸壺の中で引きこもっていたのでは、蛸壺の中での価値観でしか物事を判断出来ません。それをちょっと上から見た時にどう見えるのか、会社で出世する事は偉いかもしれませんが、会社以外の蛸壺では、そんなものはまったく何の役にも立ちません。単純化した島宇宙的価値観というのは外部からすれば何の意味もないものだったりします。意味が無いという事を知ってコミットするのと、知らずにするのでは物理的な結果は変わらないかもしれませんが、精神的に落ち込む事も少ないでしょう。この世に絶対的な価値など本当は誰にもわからない、しかし多様性の中から生み出された価値というのは、相対的に普遍性が高いという事も事実として知るべきでしょう。
最近六カ国協議ではアメリカが路線変更をしたため、この国は振り落とされそうになっていますが、メディアではまったくその事を伝えません。拉致問題と核の解決が、国交正常化の為のセットになってしまっている我が国では、拉致を叫ぶ事の情緒的な必要性ばかりが取り上げられ、メディアも政治家もそこに乗っかっています。交渉というのはきれい事や感情で片がつく問題ではありません。外交は正しさが是正される場所ではないのです。日本に経済制裁されたって、それ以外の国と上手くいけば、北朝鮮としては別に何の問題も無いでしょう。この国はアメリカの決定にはなんだかんだで従うしかリソースがありません。北朝鮮は脅威として存在した方が誰にとって都合がいいか考えましょう。現状の政策をこのまま継続してもそう簡単に拉致被害者は帰って来ません。それを最優先にするのであれば、交渉してバーター取引に持ち込むしかないのです。核も廃棄しろ、拉致被害者もかえせ、経済制裁も断固継続の姿勢のままでは、帰ってくる可能性は論理的に考えればあるわけありません。きれい事で言えば、そりゃ北朝鮮けしからんというのはわかります。喚いてスッキリするのが目的なのか、解決するのが目的なのか、もう少し合理的に考えればわかりそうなものですが。ポピュリズムに迎合する事しか出来ない政治やメディアではそんな事言えないし出来ないのかもしれませんが、政治家の目的は選挙で勝つ事であり、メディアの目的は視聴率だという事を忘れてはいけません。
最も本当に拉致が解決して、核も廃棄させる事ができて、経済制裁解除となり、国交正常化が結ばれてしまえば、脅威の根拠も無くなってしまいますから、誰にとって都合の良い状態なのか、我々はよく考えるべきなのではないでしょうか。
この手の話になりますと、長くなりそうですので、また後日改めますが、他人との違いに苦悩し、傷つく事は、必ずしもマイナスな事ばかりではありません。一時嫌な思いはしますがその事が人を成長させたりもします。多様性は傷つく恐れもありますがそれが無い社会はもっと酷い結果になるでしょう。不愉快だからと言って、無かった事には出来ません。向き合う姿勢が重要なのではないでしょうか。携帯電話やくだらないテレビ番組、本来無くても困らないものに人は縛られ、テクノロジーなしの生活は考えられないくらい我々は首までどっぷり浸かっています。しかし人の時間は限られています。実りの無い、本来必要のないものに多くの時間を割けば、本当に大切な事に使える時間は相対的に減っていくのは当然の帰結かもしれません。本当に大切なコミュニケーションを見極めていく事が重要なのではないでしょうか。キング・クリムゾン、太陽と戦慄についてつらつらと書いてみました。