皆さん、お正月はいかがお過ごしでしょうか。旅行されている方、帰省されている方、寝正月を過ごしている方、仕事の方、いろいろいらっしゃると思いますが、自分はうだうだと腐りきっただらけた生活をしております。それにしてもいやあ酷かったですね、ダイナマイト。あのつまんなさ何ですかあれ、酷すぎました。あの意味の解らないマッチメイク。スポーツ中継の劣化は最近酷い状況ですが、あれは酷すぎます。もはや絶望的なものを感じます。ダウンタウンやお笑いウルトラクイズのようなくだらないアホらしいお笑いの方が見ていてスッキリしましたし良かったと思います。久しぶりに凧揚げもやりましたが、あれはかなり面白いですね。はまりそうです。
さて新年一発めのネタは、環境問題、このネタで行きたいと思います。地球温暖化は本当に起こっているのか?こんな事を言うと、お前頭おかしいのか、何考えてんだ地球の一大事って時に、右翼か、タカ派か。最近そういう風潮あるような気がしませんか?みんな地球温暖化には科学的な根拠があると思っているのでしょうが、果たしてその科学的な根拠ちゃんとわかって言っているのでしょうか?その根拠は推測や予測であって、あくまでも事実ではないんじゃないでしょうか?一週間先の天気さえ正確にわからないのに、10年、20年、いや50年、100年先の予測が本当に出来ると思えるでしょうか?
恐怖の存在 (上)/マイクル・クライトン

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恐怖の存在 (下)/マイクル・クライトン

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そういう問題に鋭く切り込んだ作品、マイケル・クライトンさんの、恐怖の存在、ステート・オブ・フィア、を読みました。この作品フィクションの小説ですが、地球温暖化とはどういう問題なのか、そこにある恐怖の実体はいったいなんなのか、自分はこの問題に対してだけではなく、ある程度どんな問題でも、マスコミが騒いだからと言ってそう簡単に流される方ではないと思っていましたが、自分の温暖化問題に対する視座が、どれだけそういうものに影響されているのかがわかり、冷静な視座を持つ事は大切だと改めて思いました。
この本を読んだからと言って、地球温暖化がないとは自分も思いませんし、マイケル・クライトンさんもそういう事を言っているのではないと思います。彼の事を右翼呼ばわりする、リベラルな環境問題に関心のある方々は、どうこの本を読めばそういう風に読めるのか不思議ですが、温暖化は起こっているかもしれないし、そうじゃないかもしれない、現実にある温暖化が起こっているとされる科学的な根拠は100%事実であるわけではなく、仮説にすぎないんじゃないかと言っているだけなんだと思います。仮説であるにもかかわらず既成事実化されてしまっていて、反対意見を言えない空気はよくないんじゃないかと。もちろん環境問題にコミットする事は大切な事であるのは間違いないのですが、環境問題にも複雑な権益が絡まっているという事も事実ですので、そういう事を見極める冷静な態度が必要なんだ、と言っているだけだと思います。こういう事を言うと、感情的になって自動車産業や石油産業、経済界の回し者、無責任な環境破壊者、右翼、ネオコン、そういう呼び方で蔑み、相手の話を頭から否定し、話し合いに応じようとしない態度は、残念ながら環境問題に関心のある方々に多いように見受けられます。環境問題だけではありませんが、左翼的な旗印の下に活動をされている方々には情緒的に、そして思考停止的に、異論を排除する方々が多く見られるような気がしますし、最近では保守的な方々や、右的な方々もそういった左翼的な振る舞いをされている方々に似て来ているような気がします。問題の根本はどういう事で、どうすればそれを解決する事が出来るのか、またそれを知る為の研究の背後にあるものは何で、どういうヒモ付きの資金によってその研究がなされているかを正確に知り、見極める事が大切なんだと思います。この本を読んで真っ先に感じたのは、人類は何もわかっていないという事がわかっているにすぎないんだ、という事が頭に浮かびました。
この小説は環境テロリスト、環境問題に熱心な団体が、資金を集める為、世間の注目を集める為に、深刻な環境破壊が起こっていると、環境問題に熱心な方々だけではなく、一般的な人々にも環境破壊の迫り来る恐怖を知らしめ動員をはかるため、自作自演で環境テロを引き起こすという、極端な団体と、それに立ち向かう人々の対決を描いた冒険活劇ですので、話の展開自体は別に素晴らしい感動があるわけでもありませんし、展開も先がある程度読めてしまいます。単純な冒険活劇としてみればスリルと興奮もありますからそれなりに面白いのですが、面白さの肝になる部分は、素朴に環境破壊が進んでいる事はわかっているけれど、自分に出来る事は身近な所で考える事しか出来ないしな、という一般的な環境問題に対する認識しか持たない人が読めば、自分がいかにハッキリとわかっていない事を、メディアや政治によって恐怖を煽られているのかがわかります。この本に書かれている環境問題に対する認識は正しい事もあるでしょうが、間違っている事もあるでしょう、しかしこういう恐怖を演出する事によって、本当に得をするのは誰なのかを冷静に考えるいい材料になると思います。
この物語に出てくる環境問題に熱心な方々は、徹底的にアホに描かれているのですが、読んでいるとこういう人いるよなと思ってしまう所が、笑える所でもあり、また笑えない現実でもあります。左翼的な方々でこの本をクソミソにけなす方々がいるのは、きっとご自分の姿が余りにもリアルにそしてバカっぽく描かれているので、感情的に腹立たしくなってしまうのかもと思ったりします。冷静な議論と、研究者がパトロンの御機嫌をとらずに研究が出来る、資金の流れと、制度が必要だとあらためて感じました。
また環境テロリストの方々が一般人の環境問題に対する無関心さを嘆く所も、読んでいて自分は無関心な一般人に分類されるのだなと耳が痛くなりもしました。自分は寒いのが嫌いですので、冬になると、ちょっとくらいなら地球温暖化も悪くないかもと、不謹慎ですが考えてしまったりします。そういう無関心な身勝手さが、環境問題に向き合っている方をより切実に、そして必死にさせてしまうのだろうと思います。そういう意味では環境問題に対してヒステリックに振る舞う方々を生み出している責任の一端は、人々の無責任にもあるのだと思います。
物語の中でもふれられますが、環境問題を本気で解決しようと思えば、南北問題、貧困をどうするのかという事を考えないわけにはいかないはずですが、現実の世界でもそこの所はなかなか難しいような気がします。我々先進国が大量消費生活を満喫しながら、環境問題を声高に叫び、莫大な金を注ぎ込む暇があれば、生きて行くこと自体困難な環境に身を置かねばならない人々の事を、無視していていいのかという問題があります。そこに金を使ってもリターンが少ないからなのでしょうし、環境問題ほどは、飯の種になる方々がいないのかもしれませんが、あくまでも仮定である話に力を注ぐ前に、今現実にある危機に目を向けるべきなのではないかと。我々先進国は安全な環境に身を置き、格差などと騒ぎ、様々な不安や不満を煽られ、その不安や不満を現実にあると思い、大量消費に費やしています。本当の貧困に苦しんでいる方々が抱えている問題に比べたら全然たいした事ありません。そういう方々が苦しんでいるのは別に関係ないからどうでもいい、もっと自分達がいい思いをしたい、もっと長生きしたい、もっと裕福になりたい、果たしてそれで本当にいいのでしょうか。
京都議定書を批准した時点では、中国やインドのような国は例外扱いでしたが、今や中国もインドも大国です。一人当たりの温室効果ガスの排出量は多くはありませんが、何しろ人口も多いですし、経済成長真最中ですので、年々排出量も増えていくでしょう、いつまでも例外扱いってわけにもいきません。先進国が環境問題に金を使っても、今や大国である中国やインドがガンガン温室効果ガスを排出しているのに、なぜ我々が我慢しなければならないんだ、という例えばアメリカの言っている事にも一理ありますし、環境破壊の主な原因は先進国の乱開発にあるはずで、これから発展しようとする国々にその責任を分担させようって言うのは、ちょっと横暴なんじゃないか、そういう国々の方々だって繁栄したい、いい思いがしたいと思うのはしごく当然で、そういう国々に負担を強いるのは結局、貧乏人は貧乏なままでいてもらって、リッチな先進諸国だけで資源を分け合い、いい思いがしたいぜ、という大国のエゴなんじゃないのか、そういう風に例えば中国やインドの方々が思ってしまっても仕方がないですし、ごもっともであります。それぞれの立ち位置によって、環境問題への考え方が違っていますから、環境問題の世界的な合意を得ようと思えば、南北格差の問題にまず手を付けないと、立ち位置の違いから出てくる軋轢を払拭する事は難しくなってしまいます。
そしてこれも物語の中で語られますが、恐怖が作られ、煽られ、我々が不安や不満に怯える要素が後から後から出現しますが、その実体は何なのか。人間の歴史は恐怖との戦いです。文明の発達や、科学の発展によって、恐怖や不安を次々と乗り越え、先進国は昔に比べれば考えられないくらい安全なはずです。しかし我々は新たな恐怖や不安に絶えずさらされます。まるで不安や恐怖がなければ生きられないかのように。恐怖や不安を乗り越え安全得る事は一種の快楽です。我々はその快楽に対する禁断症状に悩まされる中毒者、安全とは不安や恐怖が存在しないと確認出来ないものなのかもしれません。実際に存在する恐怖や不安もあるでしょう。しかし古くからそれが実際に存在するかどうか定かでないものに人間は怯え、その恐怖が人々をある方向へ動かします。ドイツ皇帝ウィルヘルム二世が唱えた、イエローペリル、黄禍論などもそのようなものだったと思いますし、ユダヤ人が受けた悲劇もそういう定かではない恐怖が支配していたような気がします。イスラム圏の方々に対する恐怖もファンダメンタリズムという言葉によって、恐怖が増幅されています。イスラム教というのは非常に良く出来た宗教で、本来平和的で厳格なものです。原理主義という言葉も、キリスト教には存在するかもしれませんが、イスラム教では有り得ない話です。イランのパフラヴィ政権に変わって起こった、ホメイニ革命当時なら、そういう西側的な価値観に基づいた物言いも、この国は西側的な価値観に立脚していますのでまあ理解出来ますが、現在でも例えばメディアなどからそういう呼び方が出てくるのは、わざとやっているか、本当にアホなのかわかりませんが、結局言論の自由などまやかしなんだと感じられる一つの要素です。言論の自由とは嘘をついてもかまわないという事ではありません。世の中には立場によってそれぞれの真実があり、その真実が公平さを欠いた制度や権力によって、無視されている時に、声をあげる為に言論の自由は存在するはずですし、報道の役割のはずです。結果的に間違う事は仕方がないにしても、それは間違っていいという事ではありません。言論の自由や報道の自由という御題目を掲げて、偏向報道をするなど論外です。物語の中でも恐怖が増幅されていくメカニズムは、冷戦体制の終わりを告げる事になった、ベルリンの壁の崩壊以降、より顕在化していると語られます。冷戦構造があった時代は、煽るまでもなく核戦争の脅威という恐怖が常に存在していましたから、人々の恐怖心を動員するフックとしても役立っていたと言います。しかしその構造が崩壊し、そこにあった恐怖に変わる新たなる恐怖がなければ人々を動員するメカニズムが壊れてしまいます。そこで政治も、法曹も、メディアも、恐怖を後から後から作り出し、人々を上手く動員しているというのです。これはフィクションだと切り捨てられないリアルさがあります。
日本でも様々な恐怖が後から後から出現します。外交上の脅威から、体感治安や日常の食や病気に至るまで、事実かあるいはそうでないのかの冷静な議論よりも、情緒的な恐怖心を煽る事によって、政治家や官僚は一種の動員ツールになりますし、権益を隠す為の大義名分になったりします。実体の定かでない恐怖に国民が怯える事によって、権益を確保出来ますし、危機が存在すると事実でも錯覚でも国民が感じれば、管理するのにも役立ちます。司法の場でもしばしばデュープロセスに疑問の残る判決が、正義や安全の名の下に正当化される事があるように見えます。有罪率99%と言うのも、検察の有能さを誇ったりする物言いで言われたりしますが、目を付けられたら、ほぼ確実に有罪に持ち込まれてしまうという現実を、どう贔屓目に見たとしても高すぎると思いますし、それでデュープロセスがきちんと機能しているのかはなはだ疑問に感じます。刑事裁判とは行政権力を裁く場です。これは近代裁判の大前提のはずです。真実を明らかにする場ではありませんし、悪事を暴く場ではないのです。裁判で裁かれるのは検察官であり、真実の探求は問題じゃないはずです。検察側に一点でも落ち度があれば有罪に持ち込む事は出来ません。裁判官というのは検察の言い分をジャッジする立場です。推定無罪の原則というのは近代裁判の鉄則で、どれだけ物的証拠や、心証が真っ黒であろうとも、判決が確定するまでは、無罪として扱わなければなりませんから、それまでは犯罪者は存在しない事になります。犯罪者を裁くという表現は有り得ない言い方です。しかしこの国では疑わしきは罰せずという、当たり前の近代法の思想すらよくわかっていない方々がたくさん存在します。それどころか検察側の発表をまるで真実のように報道するメディアのとんちんかんな報道によって、推定無罪も疑わしきは罰せずも全く無視されていて、法治国家とは言えない状態です。近代裁判では、正義か不正義か、真実かそうでないかは関係がありません。国家権力が正しくデュープロセスに基づいているかどうか、国家権力の横暴によって無実の人が有罪にされる事を避けるのが大前提です。犯罪が起こり、不正義を働いたと思われる人に、怒りを持つ国民感情はわからなくもありませんが、法を執行するという事はそういう事とは無関係ですし、影響されるなど民主主義ではあってはならないことです。メディアによっても様々な恐怖が煽られますが、ある一定期間祭りが起こり、やがてその恐怖も忘れ去られ、必ず新たな恐怖が登場します。人々の恐怖心を煽る事によって、視聴率や部数があがり、時にはある国民世論が惹起されます。企業はあらゆる恐怖に対する処方箋として様々な消費という権益が生まれます。その恐怖のおかげで被害を受ける事もありますから一概には言えませんが、力のある企業やお上に気に入られている企業ほどそういう被害は少なくなりますし、メディアのスポンサーは企業ですので、マスコミもスポンサーの御機嫌取りは欠かせない要素です。そして次々と恐怖や不安のエビデンスを生み出すアカデミズムの存在も問題があると思います。その恐怖や不安を生み出す事によって、権益が生まれますので、研究費の確保の為に、パトロンに都合のいい研究結果を生み出す事にインセンティブが働く危険性が存在しています。恐怖や不安の存在によって、誰が得をしているのかを冷静に見極める事が、本当に大切なんだと思います。
正月一発目からかなりへヴィーな話になってますが、まだまだいきますよ。この国の環境問題に対する、恐怖や不安の惹起のされ方は、実際の世界の流れからは大きくかけ離れているのも気になります。情緒的なレベルでは取り沙汰されますが、カンファレンス・オブ・ザ・パーティーズ、即ち国連気候変動枠組条約の締約国会議、COPや、カンファレンス・オブ・ザ・パーティーズ・サーヴィング・アズ・ザ・ミーティング・オブ・ザ・パーティーズ、即ち京都議定書の締約国会合、COP/MOPのようなものに対してのコミットメントが、市民レベルでも国家レベルでも、不十分な向き合い方を感じます。COP3即ち京都議定書が批准された時はそれなりに騒ぎましたが、今イチ扱いが小さい気がします。一部熱心な方も存在していますが、メディアの報道の小ささという観点からもそう思いますし、フィージビリティスタディに基づいた長期的パースペクティブが政府にあるようにも感じられません。外交的なイニシアティブを確保する為にはそういった事にコミットする事は重要です。日本はもともとエネルギー危機以来、原発などを有効利用しているから、温室効果ガスの問題は乾いた雑巾のようなもので、これ以上削減するのは難しいという事はある意味正論だとは思いますが、外交は駆け引きですのでコミットしている姿勢を示す事は、軋轢を回避する為には重要な事です。きれい事で世界は回っていません。戦略的にあえて無関心を装っているようにも見えない所が気がかりです。それにこの国が具体的に環境問題に対する政策で、真っ先に頭に浮かぶのが、クールビズという所が泣けてくる所でもあります。企業は環境問題にコミットすること自体、収益を上げる為に必要ですので、太陽光発電やハイブリットカーなど、最先端を走っている企業もこの国には結構あります。ベネフィットやイフェクトがわかりやすいければコストもかけやすいという事を考えれば、情緒的に煽るよりも、今これだけコストを負担すれば将来的にどのようなベネフィットやイフェクトがあり、それを先送りするという事はどういうリスクが存在するのか、科学的な検証をリスクとリターンの観点から説明された方がわかりやすいと思いますし、外交的な軋轢を払拭する為に、ある程度、周りに合わせるという事もリスクに対するヘッジとして理解した方がコミットしやすいと思うのですが、そういう伝え方にはなりそうもありません。
そしてこれがおそらく一番厄介な問題だと思いますが、自然は大切だというコミュニケーションも、この国の人々の間でももはや共有出来ないという問題があります。世代的なギャップと言いますか、年金の問題と一緒で、この問題によって被害を被る事のない方々が、ある種逃げ切りを計る為に、情緒的で不正確なコミュニケーションに乗っかっているような振る舞いが見られます。そしてそういう方々が政治や経済、司法やメディア、様々な権力のピラミッドの頂上にいて、そういう方々の都合のいいように世の中が動いているという事があります。もちろんそういう方々ばかりではないとは思いますが、権力を握っている方々にそういった利己的な振る舞いが見られるのに、その下で権力者に逆らえない方々にパブリック・マインドを持て、ソシアル・コントリビューションしろと言われても無理ってもんです。いい年した大人でも、悪気はないと言うエクスキューズのもとに、パブリック・マインドどころか、リーガル・マインドすらない方々もたくさん存在していますので、若者にそういう事を強要してやる気がないと嘆いても、大人だって同じだろと言われてしまいます。悪気があるとかないとかは関係ありません。特に法律に対しては、悪気があろうがなかろうが、法律を破ったかそうでないかが問題で、善い人か悪い人かはどうでもいい事です。また地方の過疎地域や、シャッター街を抱えた地域と、発展した地域の間でも、格差なんて事ばかりが取り沙汰されていますが、環境問題に対する考え方をそこに当てはめますと、単純な問題ではない事に気付きます。都会に住む方々からすれば、地方の自然は羨ましいかもしれませんが、地方に住む方々からすれば自然もいいけど開発してくれよ、便利さがほしいぜ、と言う思いだって当然あるはずで、地方の利便性を高めるという問題と自然環境の保存という問題は相容れません。自然環境を守りながら、利便性を追求し、仕事も確保し、人口増をはかっていくのはなかなか難しいと思います。もちろん不可能なわけではないと思いますが、利便性を高めたらシャッター街になってしまったなんていう例が日本中至る所に存在します。自然環境ともなればもっと難しいのではないでしょうか。政治家や役人にそういう長期的なビジョンがあるなら、シャッター街の問題など存在していないはずです。政治家や役人に長期的なビジョンに基づいた計画を立てるコンピタンスはありません。責任という概念のない連中には無理な話です。だからと言って自由経済にすれば何もかも上手くいくとは思いませんが、既得権益を握った連中に牛耳らせるよりはマシだとは思います。しかし自由経済と言ったって、本当の意味でそれを実現する事は不可能です。既得権を握った連中に有利な規制をすべて取っ払うという事が仮に出来たにしても、初期手持ち量、イニシャルエンドウメントの差というのが必ず存在しますから、その差に我慢出来ない人達からすれば冗談じゃないぜ、という事になるでしょう。そういう方々にだって平等に選挙権はありますから、政治家がそういったポピュリズムに迎合するのはある意味しょうがない部分もあります。選挙でうからなければ政治家になれないのですから。じゃあ民主主義なんて全然ダメじゃないかとなりそうですが、残念ながら、それ以外の政治体系よりは少なくとも民主主義の方がかろうじてマシだと思います。グローバライゼーションがこれだけ進んだ社会で、今更鎖国してこの国一国で回るシステムを築く事は不可能だと思います。世界は様々な国がありますから日本一国の都合ではどうにもならない事が沢山あります。仮にそれが可能だとしても、便利さや浪費グセからすべての人が逃れる事はもはや不可能に近いと思いますし。まあこの国が民主主義かと言えばはなはだ疑問ですが。格差というのは実はそういう事を認識させない為、あえて論点をぼやかす為に、地域間でも、個人間でも使われている言葉なのかも知れません。ハイエクが言っています。豊かな人がいる社会は、豊かでない人達の自由を保障する社会だと、格差が自由を担保するものなのです。金持ちがたくさんいれば、職をなくしても死ぬわけじゃありません。他の金持ちの下で働けばいいのですから、転職の自由を自由市場が担保してくれています。しかし社会主義国家じゃそうはいかない。
環境問題というものに対する、国家的なコミットは上手くいっていないし、そもそもそういう事実自体が存在するかどうかでも問題がある。メディアも駄目、企業もあくまでも営利活動の為のものでしかない、個人間にも様々な立ち位置の違いによる環境問題への視座が全く違う、役人や政治家にその能力はないし、法律に任せるなど論外、そうなってくるともはや個人の実存のレベルに任せるしかないのかもしれませんが、それでは動員力が弱すぎますし、そうなると手段が目的化してしまいます。環境運動をしている自分の実存の為に環境問題を探し出して声高に叫ぶ事が、スッキリ感や、生き甲斐に直結してしまう、かつての左翼運動みたいになってしまいます。現在でもあらゆる弱者性を見つけ出して、嘘でも捏造でもかまわず、己の実存の為に行動している方々は存在しますが、そういうのは多くの人の共感を得る事は不可能です。ですが一番厄介なのが、多くの人達があきらめているという問題があるのだろうと思います。自分の事で恐縮ですが、こんな事をあれこれ考えたって、どうせ世の中そういう事とは別の力学が働いていて、個人でそんな事を考えても無駄なんだよ、というニヒリスティックなあきらめが、どっか自分の心の中にある。それどころか、どうせ自分が死んだ後の事だろ、だったら別にそんな難しくて堅苦しい話考えていても仕方がないし、楽しく生きていたいぜ、別に自分が死んだ後、地球がどうなろうと関係ねえぜ、醜いですがそういう考えが全くないかと言えば、正直100%ないとは言い切れない情けなさもあります。それが多分一番厄介な自然は大切だというコミュニケーションを共有出来ない問題の根底にあるのじゃないかと思ったりします。もちろんそういう事態になってほしくはないという気持ちの方が強いと自分では思っていますし、いつか自分の愛する子供が出来る時が来たら、無条件でそう願う事は間違いないとは思いたいですが、そういう自分の情けないダークサイドを見つめる為にも、この本は素晴らしいと思います。
正月一発目から救いのない話になってしまいましたが、環境問題について考えさせられる貴重な読書体験でした。映画「不都合な真実」や「ダーウィンの悪夢」を観るのも楽しみです。今年も皆様にとって実りのある年でありますように、自分も成長出来るいい年になればいいなと思いながら、マイケル・クライトンさんの、恐怖の存在について長々と考えてみました。