暴かれた9.11疑惑の真相/ベンジャミン フルフォード

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自分は陰謀説や、黒幕説と言った類いの話が好きであります。信じるか信じないかは脇においておいて、こういう話もあるんだという事を知るのが、新たな目線を獲得する為にも必要な事だと思うからです。もちろんそういう話をそのまま信じているというわけではありません。しかしそういう話がなぜメインストリームに上がってこないのか、逆にそういう話がなぜ今取り沙汰されているのか、そういう力学的な背景を考えるのにも、極端な話というのは必ずしも無駄にならないからです。それとまあスキャンダラスでショッキングな話は単純に面白いという事ももちろんあります。
近頃ネオコンが一層不人気になり、安倍政権も混迷の様相を呈して来ています。その分水嶺になっているのがアメリカの中東政策であり、対米追従以外の有効な選択肢を持ち得ていないこの国の現状というのが一つの考え方だと思うのですが、9,11に疑問点がある事は何となく言われていましたし、ネオコンの中東政策の強引な進め方の裏にある、石油利権、産軍複合体の巨大な利権の存在、自由と民主主義の為の対テロ戦争というのは御題目だというのも、ある意味アメリカの自業自得という側面もあるのではないかというのも、テレビではちゃんと報じませんが、多くの国民の知る所でしょう。しかしさすがにこの本に書かれているような9,11自体がヤラセだとは思っていませんでした。まさかそんな事はねえだろと。この本を読んだのもまあネタとして、面白そうだという単純な理由です。あれだけの悲劇的な大惨事が自作自演であるわけがないという固定観念も持っていましたし、言われているように、アメリカに恨みを持つイスラムの方々が報復としてやったんだろうな、と思っていました。しかしこの本は単純な陰謀説や黒幕説という、荒唐無稽な話ではなく、それなりに説得力もあり、もしかするとこういうシナリオがあるのかもしれないけれど、もしこれが本当ならとんでもない話だな、と背筋の冷たくなるような疑問点を明確にしています。DVDによる解説付きで矛盾点を論じているのですが、それなりに科学的なエビデンスもあるように感じられますし、9,11の同時多発テロという恐ろしい大惨事によって誰が本当に得をするのか考えると、我々が全く想像のつかない所で、こういう陰謀があってもおかしくはないのかもしれない、という視座を持つ事が出来ます。この本に書かれている事がすなわち真実だとは思いませんが、あれだけの被害者が出てしまった大惨事である為、死者に対するある種のタブーが存在してしまっています。こういう議論をすること自体、死者を冒涜する事になりかねない。しかしそれによって思考停止的に議論も出来ず、報道されている事を鵜呑みにするのは何よりも危険だと思います。
自分がこの話が本当かどうかなど、絶対にわかりようもないので、この本に書かれている事が正しいとか間違っているとか、ここで書くつもりはありません。ただこんなバカな話あるわけないと思っている方は、試しに読んでみる事をオススメします。自分が信じている現実とは何かを理解する為にも、こういう論点を知る事はプラスです。
世の中には陰謀説というのが溢れています。誰かが黒幕、大ボスで裏で糸を引いている、よくあります。疑惑の類いになりますとさらに多く、あいつは実はこれこれこんな事をしているらしいぜ、というレベルまでひっくるめると膨大な数が世の中に溢れています。昔、社会の流動性が低かった頃は、隣人への信頼感があったのでしょうが、これだけ社会、世界中が流動化してしまいますとベースになる信頼関係というものが崩れてきます。そういう社会では不安というものがベースになってしまい、それを担保してくれるように見える、安全を生み出してくれる何かにすがりたくなるのは心情としてわからなくもありません。
共同体というものが機能していた時代は、共同体の内部では信頼関係というのがありましたが、その外側にある他者や、他の共同体に対しては、不安や噂、疑惑、抜け駆け感が存在していました。今はその共同体というのも殆ど形骸化していますから、他者に対する不安が増大するのも当然というわけです。彼氏彼女の間でさえ、夫婦の間でさえ、家族の間でさえ、友人の間でさえ、共同体に所属していると思っている間でさえ、不安を抱いている人がたくさんいます。不安である人が増える事によって誰が得をするのか、そこを冷静に考える必要があるんだと思います。
世界や人生というものは何が起こるかわからない、誰とでも信頼関係を築けるわけではないから、不安を抱くのもわかる、しかしそれが生きるという事で、社会の仕組みなんだ、と考える生き方と、世界や人生というのは一瞬先は闇、信頼している奴もいつ裏切るかわからない、不安だらけだ、だから何か大きな力のある存在にすがりたい、自分や大切な人の安全を確保したい、と考える生き方と、古くからこの二つの生き方はせめぎあってきました。思想、宗教、国家、様々なものが、多くは後者の寄る辺となり、様々な悲劇を繰り返して来たのが人の歴史です。古代ギリシャの山の神であったヤハウェが、セム族系の人々がシナイ半島に移っていく過程で、絶対神、名指す事の出来ない神、超越的な寄る辺として創造し、苦難に満ちた人々を救います。
初期ギリシャ、ソクラテスの思想はそういう絶対なるものに帰依する生き方ではなく、理不尽なものを受け入れ、それに向かい合う生き方が理想的な生き方だと説き、プラトンも途中まではその流れでしたが、民主政治を採用しているアテナイを中心とするデロス同盟が、寡頭制の貴族政治を採用しているスパルタを中心とするペロポネソス同盟との、ポリス間の権益争奪戦の末、ペロポネソス戦争に破れた後、そういうエリート的な思想ではアテナイの普通の人々は救えないと考え、イデアという概念を持ち出します。弟子であるアリストテレスはその思想を批判しましたが、プラトンは自分の思想の矛盾点に気付いていたと言われています、しかしその矛盾を用いなければ、すがるものを持ちたいと思う人々は救えないという、ジレンマに陥る事となります。
ソクラテスからアリストテレスに至る流れの中で、ソクラテスがアテナイの人々によって死に追いやられてしまう事によって、プラトンもアリストテレスも民主政治を憎んだと言います。民主政治など所詮貧乏人の衆愚政治だと。話し合わないと何も決まらない、そうこうしているうちに王制のスパルタの軍隊にやられてしまう。この二人の知の巨人の思想はその後のヨーロッパでも長く伝わっていきます。それがその後のキリスト教圏の社会の根幹にある思想を形作っていきます。
アリストテレスの思想は後に、アリストテレス学派というアリストテレスの思想にすがる人々を生み出し、ガリレオ・ガリレイを異端者扱いし、逆に学問の発展を阻害する事となります。ネオプラトニズム的キリスト教を批判したニーチェの構図も、何かと言うと神の罰を持ち出す教会の思想と、超人という概念でそういうものを乗り越えていくという思想の対立構図です。
仏教というのは、釈迦族の王子、ゴータマ・シッダールタが出家して悟りを開いたその教えです。それは一神教のような神前法後の発想ではなく、法前仏後の発想です。つまり神がすべてを創るのではなく、もともと世界には法則、ダルマというものがある、それを知り、そこに向き合い悟りを開く為に必要な心構えや、修行の仕方、そういう教えで、神や仏に祈れば救われると説いたのではありません。地獄や極楽という概念も、無知蒙昧な人々を仏教に引きつける為の方便で、バラモン教文学の残滓にすぎません。般若心経や維摩教にもありませんし、法華経にもたとえ話として出てくるだけです。仏教とは釈迦、仏陀が定めた戒を守る事が大切な事であり、唐招提寺を建立した鑑真和上が苦難を乗り越え日本に来たのも、戒という規範をちゃんと日本に伝える為でした。しかしこの国はその大切な規範を伝教大師最澄が全廃してしまいました。彼が作った比叡山延暦寺、日本仏教の総本山で形式的な天台の円戒に置き換え、規範を全廃し、天台本覚論という思想を編み出し、その後の法然や親鸞、また別の所から日蓮と言った仏教革命者によって引き継がれていく事になります。それは仏教を厳しい戒律のまま伝えたのでは、何かすがるものを持ちたいけど、めんどくさいのは厄介だと思っている、普通の人々を引きつける事は出来ない、本来の仏教からすれば異端もいい所だけど、そうする事によって多くの人々の拠り所となったのでしょう。本地垂迹説のようないい加減ともとれる説を使う事によって、日本古来の神になぞらえ、仏教の仏をより身近な存在にしたのも、そういった事が根本にあるような気がします。
もともと人間は狩りをして生きていたと言います。しかし人間はいつ頃からそうなったのかはわかりませんが知恵を獲得する事によって、動物のように腹を満たせば満足というのではなく、未来を予見する能力が身に付きます。今日は腹一杯になったけれど明日ははたして大丈夫か。そこを出発点として、争ったり、未来の為により多く食料を確保したり、保存する方法を編み出したり、農耕社会を生み出したりします。自分の権益を守る為に、徒党を組んだり、より強い奴に従ったり、そうやって社会というのも出来て来たのでしょう。自分の不確定な未来を何かしら担保してくれるものによって、安心感を得る。宗教もそうした中から生まれたのでしょう。キリスト教もその役割を担っていたわけですが、聖書に書いてある、キリストの教えと言われているものを、中世のカトリック教会では都合良くねじ曲げ、祈祷書を読ませ、賛美歌を歌わせ、サクラメント、秘蹟によって信徒が生まれてから死ぬまでの一生を管理したり、免罪符などを売ったり、キリストの教えとは全く関係のない事を制度化し、肝心要の聖書は信徒に読ませないし、訳させもしないという、イスラム教やユダヤ教では考えられない、啓典宗教でありながら聖書の教えを無視するという、とんでもない方法で、すがるものを持ちたい人々を引きつけていました。やがてルターやカルヴァンなどが、プロテスタンティズム、予定説という事を言い出す事によって、キリスト教の形が変わっていきます。ようするに原点回帰、聖書に書かれている事を信じるという事ですが、それによって人々のマインドが変わっていきます。人が生まれてから死ぬまでに行う行いによって、救われるか救われないか決まったのでは、人間の行いが神の決定の原因になってしまう、神は偉大であるから人間ごときの振る舞いによって、何かを決めるなどという考えは不遜だ、というのです。人間が救われるかそうでないかは生まれる前から全知全能の神によって決められている事で、現世で人間がどのように振る舞おうとも神の決定は変えられない、という思想です。救いの無いように聞こえるかもしれませんが、しかし偉大なる神によって選ばれた民であるからには、キリスト教徒である事は、間違いないだろうし、いい加減な信仰心ではないだろう、日々の行いも神に選ばれている存在であるからには素晴らしいはずだ、その事を拠り所として、より信仰を熱く激しく深めていき、勤勉さを獲得していく事となります。偉大なる神の前では、多少の身分の違いなど些細な事で、神の前では人は平等の権利を持つはずだと人権平等の概念が生まれ、神の御心の為なら今まであった制度をぶちこわしたってかまわないはずだと革命という思想が生まれます。どんなに勤勉に働いても、神への信仰を揺るぎなく持っていても、救われるかどうかは死ななきゃわからない、より勤勉に働く事によって資本主義が生み出され、より信仰を熱心に持つ事によって、人権や平等の精神、悪しきレジームは革命によってひっくり返してもかまわないと、フランス革命やロシア革命、そしてピューリタン革命に発展していき、やがて民主主義というものが生み出される。古くからあるシステムが、昔から続いているという理由ではもはや存在意義を持たない流動化した社会を資本主義によって、民主主義によって一層ドライブさせていく事になります。産業革命を起こす事によって、植民地支配がより加速度的に可能になり、競争的に他国の脅威という不安に一層さらされるようになり、民主主義によって権利を主張するパイが増えたので、権利を侵害されるのではないかと言う不安は一層強まります。その為の人と人の横の契約の概念や、憲法によって国家を縛るという概念が生まれる事になります。
ヒトラーはワイマール憲法下、民主的に全権委任法によって独裁者となりました。そこにも不安な人々が拠り所にすがりたいという、依存の姿が見えます。第一次世界大戦で負けてしまったドイツにとっての希望の光となったのです。
現在でも不安という目にハッキリと見えるわけではないが確かに存在すると思える脅威に人々が恐れおののき何かにすがっていくという構図は相変わらず存在します。この国では明治になった時、天皇陛下の存在を一般の人々はよく知りませんでした。武士の中で崎門学派、水戸学などその影響下にある諸学派は、日本の主権は天皇が持つべきで、武士という階級は本来あるべき存在ではない、頼山陽の日本外史などに見られるそういう思想が流行っていたという事なのでしょうが、武士自らが考えていたという奇跡的な状況もありましたし、尊王思想家達が皆そのように考えていました。実質的な脅威として黒船がやって来たという事もありましたし、それに対して幕府が余りにも無力だったという事もあり、近代化を遂げるため急速に熱を帯びて時代が変わりました。そして奇跡とも思える武士の特権を当然のように捨て去ったのです。しかしその根底にあったのは圧倒的な欧米の軍事力に対抗する為には、日本を近代化させる以外方法がなかった。欧米の植民地となるのではないかという不安があったのだと思います。近代化する為には民主主義、資本経済この二つはなくてはならないセットです。しかし欧米の神に相当するものがこの国にはない、それがなければ欧米のような近代化を遂げる事は難しく、極端な話、不可能なのです。そこで明治の元勲達は天皇をこの国の柱として、祭り上げ、最初はよく知らなかった村人達も次第に天皇陛下の臣民という思想を受け入れ近代化を遂げます。しかしその後の顛末は書くまでもありませんが、根底には依存や腐敗、そして不安を煽り煽られ、実質的な不安に対する処方箋を的確に打っていったとは言いがたい側面もあったのではないでしょうか。
戦後、アメリカ的なものを拠り所とし、すがっていくようになります。三島由紀夫が言いたかった事は、不安だからと言ってアメリカにすがって自分の足で立てないような国でいいのか、このままでいると日本はアメリカなしでは何も出来ない国になるぞと、演説をしますが罵声や怒号を浴びせられ腹を切ってしまいます。彼は狂人呼ばわりされてしまいますが、実際の今の現状を考えますと、アメリカなしでは何も決められない国になっていますので、彼の言っていた事は説得力があります。かつてソクラテスやニーチェが、理不尽な世界と向き合えと言っていた事と同じだったのかもしれないと思ったりします。しかし一般の普通の人々は拠り所となるものがないと、不安を担保出来ません。エリート的な思想は万人受けはしないのです。自分達が拠り所としているものがどういうものなのか知るのが、せめて必要な事なんじゃないでしょうか。
右的な言論も左的な言論も、人々の不安を担保する為には必要なのかもしれませんが、不安にかられた人々を動員する事によって、利用しようとする輩が背後に隠れていたりするので注意が必要です。ナショナリズムという言い方よりもパトリオティズムと言った方がいいかもしれませんが、自分の生まれた郷土を愛する心は別に悪い事ではありません。しかし自己肯定する為のツールとして愛国心にすがるというのは、それを利用する人が出てくると厄介です。日の丸や君が代が問題になりますが、ようは利用してよからぬ方向に動員するような事態が厄介なだけで、日の丸、君が代が軍国主義になるという主張はバカげています。愛国心がよくない事なのではなく、それを利用しようとする輩や、それによって下駄を履き、自分以外の人にそれを強要したり、他国を蔑んだりするのが問題なだけです。また平和を望む精神というのは尊いことです。しかし平和平和と唱えていれば平和になると思っているバカは話になりません。そういうバカがいるから左翼的なものがますますカッコ悪く情けなくなっていくのです。そういう思想が第二次世界大戦を引き起こしたのだと歴史を学ぶ事は必要です。イギリスを救ったのは、平和主義ではありません。平和主義がナチスの増長を生み、戦争を招いたのです。その状況を救ったのは戦争大好きのチャーチルでした。平和を望む事は尊い、しかしそれを達成する為には戦略的な外交や、場合によっては軍備も必要でしょう。この国の憲法を平和憲法だから守れと騒ぎますが、国連加盟国の三分の二の国は平和主義条項を掲げています。平和憲法を掲げている国は珍しくも何ともありません。そういう国が非武装中立かと言えば、全然そんな事はなく、平和を望む事と、守る事は別の話です。憲法九条はケロッグ・ブリアン条約をモデルに作られています。しかし現実にこの条約は戦争を防げませんでした。この条約を生み出した平和主義が大戦争をもたらしたわけです。平和というのは一国で出来る事ではありませんし、戦争も一国でやるものではありません。ただ念仏のように平和を唱えても平和は来ないという事を知るべきです。闇雲に平和主義を唱える事がどれほど危険な事かという事を歴史に学ぶべきです。我々は特別な民族でも何でもありませんし、優秀なわけでもありません。そういう教訓があるのに俺の国は大丈夫と思うのは、運転未熟者が危険だと言われても俺は大丈夫だと錯覚し、事故を起こしてから後悔する事と同じです。
そういう右でも左でも思想的なものはそれ自体、悪いものではないはずです。それを利用して何かよからぬ事を企んだり、それを隠れ蓑にして自らの権益を確保する振る舞いがよくないだけです。何かにすがること自体それは個人の自由です。それが自分の実存において必要であれば他人がどうこう言う筋合いの話じゃありません。それによって誰かが迷惑しているとなれば話は別ですが。
しかしそれを承知であえて書きますが、右や左の論点で国民が右往左往する事によって、誰が本当に得をしているのか考えるべきです。黒幕がいるとか言っているのではありません。この複雑な社会、原因と結果がそう単純に反映するわけもないと思いますし、たかが日本の左右の対立に、誰かがシナリオを書いているのだという蓋然性は低いと思います。しかしそういう不毛な論戦を繰り広げる事によって、誰が得をし誰が損しているのか考えるべきです。そして右も左もあらゆる思想はそうですが、ようは豊かで平和で、幸福な生活を得る為の方法論のはずです。しかしこれ以上この国の生活水準が上がるという事がどういう事か考えるべきです。世界中でわけられる富は限られています。誰かが儲かれば、誰かが損をするように市場経済はなっています。日本人の生活水準がこれ以上裕福になるという事は、貧しい国がもっと貧しく、救いようのない状態に陥る事になるのです。そういう事に全く目を向けずに、一国の繁栄を右だ左だと論じる事が本当に実りのある事なのか考える必要があると思います。貧しい国の連中が苦しもうがエイズで死のうが、年端のいかない女の子が体を売ろうが関係ねえぜで本当にいいのでしょうか。自分もこの裕福な国で安穏と暮らしていますので偉そうな事はもちろん言えません。そしてアメリカが戦争するのは、ようは公共事業です。おそらく今後その公共事業が戦争から、環境問題にシフトしていくでしょう。結局公共事業と言う権益の奪い合いが起こるだけです。それがどういう事なのか知り、そして考える必要があるのではないかと思います。ベンジャミン・フルフォードさんの、暴かれた9,11疑惑の真相を読み、そんな事を考えました。

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自分は陰謀説や、黒幕説と言った類いの話が好きであります。信じるか信じないかは脇においておいて、こういう話もあるんだという事を知るのが、新たな目線を獲得する為にも必要な事だと思うからです。もちろんそういう話をそのまま信じているというわけではありません。しかしそういう話がなぜメインストリームに上がってこないのか、逆にそういう話がなぜ今取り沙汰されているのか、そういう力学的な背景を考えるのにも、極端な話というのは必ずしも無駄にならないからです。それとまあスキャンダラスでショッキングな話は単純に面白いという事ももちろんあります。
近頃ネオコンが一層不人気になり、安倍政権も混迷の様相を呈して来ています。その分水嶺になっているのがアメリカの中東政策であり、対米追従以外の有効な選択肢を持ち得ていないこの国の現状というのが一つの考え方だと思うのですが、9,11に疑問点がある事は何となく言われていましたし、ネオコンの中東政策の強引な進め方の裏にある、石油利権、産軍複合体の巨大な利権の存在、自由と民主主義の為の対テロ戦争というのは御題目だというのも、ある意味アメリカの自業自得という側面もあるのではないかというのも、テレビではちゃんと報じませんが、多くの国民の知る所でしょう。しかしさすがにこの本に書かれているような9,11自体がヤラセだとは思っていませんでした。まさかそんな事はねえだろと。この本を読んだのもまあネタとして、面白そうだという単純な理由です。あれだけの悲劇的な大惨事が自作自演であるわけがないという固定観念も持っていましたし、言われているように、アメリカに恨みを持つイスラムの方々が報復としてやったんだろうな、と思っていました。しかしこの本は単純な陰謀説や黒幕説という、荒唐無稽な話ではなく、それなりに説得力もあり、もしかするとこういうシナリオがあるのかもしれないけれど、もしこれが本当ならとんでもない話だな、と背筋の冷たくなるような疑問点を明確にしています。DVDによる解説付きで矛盾点を論じているのですが、それなりに科学的なエビデンスもあるように感じられますし、9,11の同時多発テロという恐ろしい大惨事によって誰が本当に得をするのか考えると、我々が全く想像のつかない所で、こういう陰謀があってもおかしくはないのかもしれない、という視座を持つ事が出来ます。この本に書かれている事がすなわち真実だとは思いませんが、あれだけの被害者が出てしまった大惨事である為、死者に対するある種のタブーが存在してしまっています。こういう議論をすること自体、死者を冒涜する事になりかねない。しかしそれによって思考停止的に議論も出来ず、報道されている事を鵜呑みにするのは何よりも危険だと思います。
自分がこの話が本当かどうかなど、絶対にわかりようもないので、この本に書かれている事が正しいとか間違っているとか、ここで書くつもりはありません。ただこんなバカな話あるわけないと思っている方は、試しに読んでみる事をオススメします。自分が信じている現実とは何かを理解する為にも、こういう論点を知る事はプラスです。
世の中には陰謀説というのが溢れています。誰かが黒幕、大ボスで裏で糸を引いている、よくあります。疑惑の類いになりますとさらに多く、あいつは実はこれこれこんな事をしているらしいぜ、というレベルまでひっくるめると膨大な数が世の中に溢れています。昔、社会の流動性が低かった頃は、隣人への信頼感があったのでしょうが、これだけ社会、世界中が流動化してしまいますとベースになる信頼関係というものが崩れてきます。そういう社会では不安というものがベースになってしまい、それを担保してくれるように見える、安全を生み出してくれる何かにすがりたくなるのは心情としてわからなくもありません。
共同体というものが機能していた時代は、共同体の内部では信頼関係というのがありましたが、その外側にある他者や、他の共同体に対しては、不安や噂、疑惑、抜け駆け感が存在していました。今はその共同体というのも殆ど形骸化していますから、他者に対する不安が増大するのも当然というわけです。彼氏彼女の間でさえ、夫婦の間でさえ、家族の間でさえ、友人の間でさえ、共同体に所属していると思っている間でさえ、不安を抱いている人がたくさんいます。不安である人が増える事によって誰が得をするのか、そこを冷静に考える必要があるんだと思います。
世界や人生というものは何が起こるかわからない、誰とでも信頼関係を築けるわけではないから、不安を抱くのもわかる、しかしそれが生きるという事で、社会の仕組みなんだ、と考える生き方と、世界や人生というのは一瞬先は闇、信頼している奴もいつ裏切るかわからない、不安だらけだ、だから何か大きな力のある存在にすがりたい、自分や大切な人の安全を確保したい、と考える生き方と、古くからこの二つの生き方はせめぎあってきました。思想、宗教、国家、様々なものが、多くは後者の寄る辺となり、様々な悲劇を繰り返して来たのが人の歴史です。古代ギリシャの山の神であったヤハウェが、セム族系の人々がシナイ半島に移っていく過程で、絶対神、名指す事の出来ない神、超越的な寄る辺として創造し、苦難に満ちた人々を救います。
初期ギリシャ、ソクラテスの思想はそういう絶対なるものに帰依する生き方ではなく、理不尽なものを受け入れ、それに向かい合う生き方が理想的な生き方だと説き、プラトンも途中まではその流れでしたが、民主政治を採用しているアテナイを中心とするデロス同盟が、寡頭制の貴族政治を採用しているスパルタを中心とするペロポネソス同盟との、ポリス間の権益争奪戦の末、ペロポネソス戦争に破れた後、そういうエリート的な思想ではアテナイの普通の人々は救えないと考え、イデアという概念を持ち出します。弟子であるアリストテレスはその思想を批判しましたが、プラトンは自分の思想の矛盾点に気付いていたと言われています、しかしその矛盾を用いなければ、すがるものを持ちたいと思う人々は救えないという、ジレンマに陥る事となります。
ソクラテスからアリストテレスに至る流れの中で、ソクラテスがアテナイの人々によって死に追いやられてしまう事によって、プラトンもアリストテレスも民主政治を憎んだと言います。民主政治など所詮貧乏人の衆愚政治だと。話し合わないと何も決まらない、そうこうしているうちに王制のスパルタの軍隊にやられてしまう。この二人の知の巨人の思想はその後のヨーロッパでも長く伝わっていきます。それがその後のキリスト教圏の社会の根幹にある思想を形作っていきます。
アリストテレスの思想は後に、アリストテレス学派というアリストテレスの思想にすがる人々を生み出し、ガリレオ・ガリレイを異端者扱いし、逆に学問の発展を阻害する事となります。ネオプラトニズム的キリスト教を批判したニーチェの構図も、何かと言うと神の罰を持ち出す教会の思想と、超人という概念でそういうものを乗り越えていくという思想の対立構図です。
仏教というのは、釈迦族の王子、ゴータマ・シッダールタが出家して悟りを開いたその教えです。それは一神教のような神前法後の発想ではなく、法前仏後の発想です。つまり神がすべてを創るのではなく、もともと世界には法則、ダルマというものがある、それを知り、そこに向き合い悟りを開く為に必要な心構えや、修行の仕方、そういう教えで、神や仏に祈れば救われると説いたのではありません。地獄や極楽という概念も、無知蒙昧な人々を仏教に引きつける為の方便で、バラモン教文学の残滓にすぎません。般若心経や維摩教にもありませんし、法華経にもたとえ話として出てくるだけです。仏教とは釈迦、仏陀が定めた戒を守る事が大切な事であり、唐招提寺を建立した鑑真和上が苦難を乗り越え日本に来たのも、戒という規範をちゃんと日本に伝える為でした。しかしこの国はその大切な規範を伝教大師最澄が全廃してしまいました。彼が作った比叡山延暦寺、日本仏教の総本山で形式的な天台の円戒に置き換え、規範を全廃し、天台本覚論という思想を編み出し、その後の法然や親鸞、また別の所から日蓮と言った仏教革命者によって引き継がれていく事になります。それは仏教を厳しい戒律のまま伝えたのでは、何かすがるものを持ちたいけど、めんどくさいのは厄介だと思っている、普通の人々を引きつける事は出来ない、本来の仏教からすれば異端もいい所だけど、そうする事によって多くの人々の拠り所となったのでしょう。本地垂迹説のようないい加減ともとれる説を使う事によって、日本古来の神になぞらえ、仏教の仏をより身近な存在にしたのも、そういった事が根本にあるような気がします。
もともと人間は狩りをして生きていたと言います。しかし人間はいつ頃からそうなったのかはわかりませんが知恵を獲得する事によって、動物のように腹を満たせば満足というのではなく、未来を予見する能力が身に付きます。今日は腹一杯になったけれど明日ははたして大丈夫か。そこを出発点として、争ったり、未来の為により多く食料を確保したり、保存する方法を編み出したり、農耕社会を生み出したりします。自分の権益を守る為に、徒党を組んだり、より強い奴に従ったり、そうやって社会というのも出来て来たのでしょう。自分の不確定な未来を何かしら担保してくれるものによって、安心感を得る。宗教もそうした中から生まれたのでしょう。キリスト教もその役割を担っていたわけですが、聖書に書いてある、キリストの教えと言われているものを、中世のカトリック教会では都合良くねじ曲げ、祈祷書を読ませ、賛美歌を歌わせ、サクラメント、秘蹟によって信徒が生まれてから死ぬまでの一生を管理したり、免罪符などを売ったり、キリストの教えとは全く関係のない事を制度化し、肝心要の聖書は信徒に読ませないし、訳させもしないという、イスラム教やユダヤ教では考えられない、啓典宗教でありながら聖書の教えを無視するという、とんでもない方法で、すがるものを持ちたい人々を引きつけていました。やがてルターやカルヴァンなどが、プロテスタンティズム、予定説という事を言い出す事によって、キリスト教の形が変わっていきます。ようするに原点回帰、聖書に書かれている事を信じるという事ですが、それによって人々のマインドが変わっていきます。人が生まれてから死ぬまでに行う行いによって、救われるか救われないか決まったのでは、人間の行いが神の決定の原因になってしまう、神は偉大であるから人間ごときの振る舞いによって、何かを決めるなどという考えは不遜だ、というのです。人間が救われるかそうでないかは生まれる前から全知全能の神によって決められている事で、現世で人間がどのように振る舞おうとも神の決定は変えられない、という思想です。救いの無いように聞こえるかもしれませんが、しかし偉大なる神によって選ばれた民であるからには、キリスト教徒である事は、間違いないだろうし、いい加減な信仰心ではないだろう、日々の行いも神に選ばれている存在であるからには素晴らしいはずだ、その事を拠り所として、より信仰を熱く激しく深めていき、勤勉さを獲得していく事となります。偉大なる神の前では、多少の身分の違いなど些細な事で、神の前では人は平等の権利を持つはずだと人権平等の概念が生まれ、神の御心の為なら今まであった制度をぶちこわしたってかまわないはずだと革命という思想が生まれます。どんなに勤勉に働いても、神への信仰を揺るぎなく持っていても、救われるかどうかは死ななきゃわからない、より勤勉に働く事によって資本主義が生み出され、より信仰を熱心に持つ事によって、人権や平等の精神、悪しきレジームは革命によってひっくり返してもかまわないと、フランス革命やロシア革命、そしてピューリタン革命に発展していき、やがて民主主義というものが生み出される。古くからあるシステムが、昔から続いているという理由ではもはや存在意義を持たない流動化した社会を資本主義によって、民主主義によって一層ドライブさせていく事になります。産業革命を起こす事によって、植民地支配がより加速度的に可能になり、競争的に他国の脅威という不安に一層さらされるようになり、民主主義によって権利を主張するパイが増えたので、権利を侵害されるのではないかと言う不安は一層強まります。その為の人と人の横の契約の概念や、憲法によって国家を縛るという概念が生まれる事になります。
ヒトラーはワイマール憲法下、民主的に全権委任法によって独裁者となりました。そこにも不安な人々が拠り所にすがりたいという、依存の姿が見えます。第一次世界大戦で負けてしまったドイツにとっての希望の光となったのです。
現在でも不安という目にハッキリと見えるわけではないが確かに存在すると思える脅威に人々が恐れおののき何かにすがっていくという構図は相変わらず存在します。この国では明治になった時、天皇陛下の存在を一般の人々はよく知りませんでした。武士の中で崎門学派、水戸学などその影響下にある諸学派は、日本の主権は天皇が持つべきで、武士という階級は本来あるべき存在ではない、頼山陽の日本外史などに見られるそういう思想が流行っていたという事なのでしょうが、武士自らが考えていたという奇跡的な状況もありましたし、尊王思想家達が皆そのように考えていました。実質的な脅威として黒船がやって来たという事もありましたし、それに対して幕府が余りにも無力だったという事もあり、近代化を遂げるため急速に熱を帯びて時代が変わりました。そして奇跡とも思える武士の特権を当然のように捨て去ったのです。しかしその根底にあったのは圧倒的な欧米の軍事力に対抗する為には、日本を近代化させる以外方法がなかった。欧米の植民地となるのではないかという不安があったのだと思います。近代化する為には民主主義、資本経済この二つはなくてはならないセットです。しかし欧米の神に相当するものがこの国にはない、それがなければ欧米のような近代化を遂げる事は難しく、極端な話、不可能なのです。そこで明治の元勲達は天皇をこの国の柱として、祭り上げ、最初はよく知らなかった村人達も次第に天皇陛下の臣民という思想を受け入れ近代化を遂げます。しかしその後の顛末は書くまでもありませんが、根底には依存や腐敗、そして不安を煽り煽られ、実質的な不安に対する処方箋を的確に打っていったとは言いがたい側面もあったのではないでしょうか。
戦後、アメリカ的なものを拠り所とし、すがっていくようになります。三島由紀夫が言いたかった事は、不安だからと言ってアメリカにすがって自分の足で立てないような国でいいのか、このままでいると日本はアメリカなしでは何も出来ない国になるぞと、演説をしますが罵声や怒号を浴びせられ腹を切ってしまいます。彼は狂人呼ばわりされてしまいますが、実際の今の現状を考えますと、アメリカなしでは何も決められない国になっていますので、彼の言っていた事は説得力があります。かつてソクラテスやニーチェが、理不尽な世界と向き合えと言っていた事と同じだったのかもしれないと思ったりします。しかし一般の普通の人々は拠り所となるものがないと、不安を担保出来ません。エリート的な思想は万人受けはしないのです。自分達が拠り所としているものがどういうものなのか知るのが、せめて必要な事なんじゃないでしょうか。
右的な言論も左的な言論も、人々の不安を担保する為には必要なのかもしれませんが、不安にかられた人々を動員する事によって、利用しようとする輩が背後に隠れていたりするので注意が必要です。ナショナリズムという言い方よりもパトリオティズムと言った方がいいかもしれませんが、自分の生まれた郷土を愛する心は別に悪い事ではありません。しかし自己肯定する為のツールとして愛国心にすがるというのは、それを利用する人が出てくると厄介です。日の丸や君が代が問題になりますが、ようは利用してよからぬ方向に動員するような事態が厄介なだけで、日の丸、君が代が軍国主義になるという主張はバカげています。愛国心がよくない事なのではなく、それを利用しようとする輩や、それによって下駄を履き、自分以外の人にそれを強要したり、他国を蔑んだりするのが問題なだけです。また平和を望む精神というのは尊いことです。しかし平和平和と唱えていれば平和になると思っているバカは話になりません。そういうバカがいるから左翼的なものがますますカッコ悪く情けなくなっていくのです。そういう思想が第二次世界大戦を引き起こしたのだと歴史を学ぶ事は必要です。イギリスを救ったのは、平和主義ではありません。平和主義がナチスの増長を生み、戦争を招いたのです。その状況を救ったのは戦争大好きのチャーチルでした。平和を望む事は尊い、しかしそれを達成する為には戦略的な外交や、場合によっては軍備も必要でしょう。この国の憲法を平和憲法だから守れと騒ぎますが、国連加盟国の三分の二の国は平和主義条項を掲げています。平和憲法を掲げている国は珍しくも何ともありません。そういう国が非武装中立かと言えば、全然そんな事はなく、平和を望む事と、守る事は別の話です。憲法九条はケロッグ・ブリアン条約をモデルに作られています。しかし現実にこの条約は戦争を防げませんでした。この条約を生み出した平和主義が大戦争をもたらしたわけです。平和というのは一国で出来る事ではありませんし、戦争も一国でやるものではありません。ただ念仏のように平和を唱えても平和は来ないという事を知るべきです。闇雲に平和主義を唱える事がどれほど危険な事かという事を歴史に学ぶべきです。我々は特別な民族でも何でもありませんし、優秀なわけでもありません。そういう教訓があるのに俺の国は大丈夫と思うのは、運転未熟者が危険だと言われても俺は大丈夫だと錯覚し、事故を起こしてから後悔する事と同じです。
そういう右でも左でも思想的なものはそれ自体、悪いものではないはずです。それを利用して何かよからぬ事を企んだり、それを隠れ蓑にして自らの権益を確保する振る舞いがよくないだけです。何かにすがること自体それは個人の自由です。それが自分の実存において必要であれば他人がどうこう言う筋合いの話じゃありません。それによって誰かが迷惑しているとなれば話は別ですが。
しかしそれを承知であえて書きますが、右や左の論点で国民が右往左往する事によって、誰が本当に得をしているのか考えるべきです。黒幕がいるとか言っているのではありません。この複雑な社会、原因と結果がそう単純に反映するわけもないと思いますし、たかが日本の左右の対立に、誰かがシナリオを書いているのだという蓋然性は低いと思います。しかしそういう不毛な論戦を繰り広げる事によって、誰が得をし誰が損しているのか考えるべきです。そして右も左もあらゆる思想はそうですが、ようは豊かで平和で、幸福な生活を得る為の方法論のはずです。しかしこれ以上この国の生活水準が上がるという事がどういう事か考えるべきです。世界中でわけられる富は限られています。誰かが儲かれば、誰かが損をするように市場経済はなっています。日本人の生活水準がこれ以上裕福になるという事は、貧しい国がもっと貧しく、救いようのない状態に陥る事になるのです。そういう事に全く目を向けずに、一国の繁栄を右だ左だと論じる事が本当に実りのある事なのか考える必要があると思います。貧しい国の連中が苦しもうがエイズで死のうが、年端のいかない女の子が体を売ろうが関係ねえぜで本当にいいのでしょうか。自分もこの裕福な国で安穏と暮らしていますので偉そうな事はもちろん言えません。そしてアメリカが戦争するのは、ようは公共事業です。おそらく今後その公共事業が戦争から、環境問題にシフトしていくでしょう。結局公共事業と言う権益の奪い合いが起こるだけです。それがどういう事なのか知り、そして考える必要があるのではないかと思います。ベンジャミン・フルフォードさんの、暴かれた9,11疑惑の真相を読み、そんな事を考えました。