ドキュメント 戦争広告代理店/高木 徹

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前回、オシム監督だったので、本日は旧ユーゴスラビアの話で行きたいと思います。随分前に読んだ、戦争広告代理店、ですが、自分は陰謀論的な話が比較的好きなタイプの人間です。フリーメーソン云々、300人委員会云々、孝明天皇暗殺説、替え玉説云々、9・11陰謀論云々、世の中には数多くの陰謀論、黒幕説に溢れています。信憑性のあるもの、話半分で聴いた方がよかろうと思うもの、全く荒唐無稽な話で、今イチ信用出来ないもの、全くの嘘捏造であるが、聞く分には面白いもの、実に沢山あります。
しかし世の中事実かどうかという事は、現実の社会を運営していく上であまり意味の無い事もまた事実として存在するわけであります。ヒストリーというのは必ずある立ち位置を取った、ストーリーに他ならず、完璧に公平な神の視座を取るという事は、我々が人間である以上不可能です。何かしらのヒューマニズム的なものや、フィクション、ある立場から見た視座に干渉される事を、完全に払拭する事はできません。学習を重ね蓋然性を高める事は出来ますが、人間である以上限界があります。時間的な制約、能力的な制約、そう言うものももちろんありますが、何より、どんなに客観的な視座だ、と言ってみた所で、結局他人に言わせれば、その人の主観でしかありません、人は結局、己のフィルターを通してしか、インプットもアウトプットも出来ないのです。
旧ユーゴスラビア、オスマン帝国とハプスブルグ帝国という、全く違う歴史的背景を持つ、二大帝国に支配された歴史を持つ、七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家、と呼ばれる、モザイク国家、尚、五つの民族以外に、モスレムや少数民族も存在する、ナチに頑強に抵抗した、チトーのパルチザンが有名ですが、複雑に入り組んだ民族、言語、宗教による軋轢が、内戦、紛争を引き起こし、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア・モンテネグロとコソボ、皆さんご存知のように、分裂していきました。
この本は、その過程での中で起こった、ボスニア紛争に大きな役割を果たした、あるアメリカのPR会社の凄まじい情報戦が描かれています。その内容は陰謀論や黒幕説のような、へえ、そう言う話もあるんだ、と距離を取って読めるものではなく、有り得るかもしれない、事実かもしれない、と現実の厄介な構造が、どうにもならなさが、ある視座から、これでもかと語られます。どこまでが事実なのか、自分には知る由もありませんが、現実の流れを見ていると、こういう事があるのかもしれないな、という気持ちになります。ドキュメントすなわち真実というわけではない事はわかってはいますが、リアリティーがあります。
PR、パブリック・リレーションズ、様々な商品を市場で効果的に売るため、多くの企業が用いていると思われます。自分の事を他人にアピールする時などに、PRする、なんて言い方をしたりします。身近な所で言えば、最近、我が国の政治の世界でも、PR活動によって戦略的に、世論を動かしたりしています。民主党の岡田元代表が、日本を諦めない、なんて言うキャッチフレーズを使ったPR戦略で失敗した事や、自民党の世耕弘成議員が広報活動を駆使して、選挙を勝利に導いたと言われているPR活動も、記憶に新しい所であります。本当かどうかは知りませんが、なんでも、差し迫った不安を抱えていない、知的水準の低いと言われる方々を、ターゲットにしたとか何とか。アメリカの大統領選の、PR合戦の凄まじさは有名ですが、これから我が国の政治も、本格的なPR活動を駆使して、世論を味方に付けるという戦術がどんどん激しさを増していくのではないでしょうか。
資本主義というのは一種の騙し合いです、日々自らの選択によって様々な決定を下していると錯覚していますが、多くのものは綿密なマーケティングによって、PRされているものを、選択していると錯覚させられているのが現状です。テレビで、宣伝しているものや、みのさんが体に良いと番組でやった食材などは、我々も気付いていますが、お店の看板の大きさ、色、字体、店内の内装、温度、トイレの配置及び内装、商品の並び方、店員のマニュアルによる対応、レストランの椅子の堅さ、店内の音楽のボリュームなど、我々はそれと気付きませんが、いい気持ちになり、効果的に消費するように、様々なアーキテクチャーが設計されています。最近の報道なんかも、ただ事実を伝えるだけではなく、楽しい気持ちにさせられたり、悲しい気持ちにさせられたり、不安を煽ったり、処方箋を示したり、怒りに火をつけられたり、感情的な振る舞いの気持ちよさを動員しようと、様々な方法を駆使して、視聴率を確保したり、部数をあげるため、報道の自由という錦の御旗を振りかざし、自らの権益を確保しようと振る舞っています。別に自分は資本主義や、市場経済に問題はあるとは思いますが、悪い事だとは思いません。騙しあいだとしても、嘘だと見抜ける可能性があり、騙されないで済む方法も存在するからです。社会主義や共産主義では、嘘だと見破っても、何かが変わるわけではありません。下手をすれば、処罰されたり、社会的な繋がりを断ち切られる可能性があります。他国に亡命するか、革命でも起こすかしなければ、現状は変わりません、そういう意味で、資本主義や市場経済のほうがマシだと言えるのではないでしょうか。インチキをしている人達がいても、それをインチキだと言える自由があるのと無いのでは、天と地の差があると思います。最もこの国にそういった自由が、本当にちゃんと機能しているのか疑問に思う事も多々ありますが。戦前の軍国主義と呼ばれるものや、ドイツのナチズムは社会主義です。もっともマルキシズムというのは経済学としては矛盾のある学問ですので、社会主義や共産主義というのはなかなか上手くいきません。政策としては、アメリカのニューディーラーのようなケインジアン的なものを、ヒトラーは採用しましたが、国家体制としては社会主義体制でした。我が国の悪しき平等主義はこの社会主義体制、一君万民皆平等社会から残ってしまっているものです。
現実のパワーポリティックスの中で、感情論というのは非常に厄介です。政治的な不人気を、感情的な言葉で回避しようと、例えばナショナリズム的なものを煽ったり、感情的なものに甘えたい国民に迎合して、ナショナリズム的に振る舞ったり、短期的な彌縫策を用いたり、本当に国益、国民益を考えれば、どのように振る舞えば最も効果的な外交が出来るのか、論理的に考えればバカでもわかりそうな話ですが、感情論にとらわれすぎると、得てしてそうならないのが厄介な所です。また国家権力に携わるものが、私益や省益、特定の既得権者の為に振る舞うのもこれまた厄介なんですが。
この国では思想的なものも終わっています。右も左も腐っている、情緒的な振る舞いをする輩や、自らの権益の上に胡座をかいている輩、そういう方々がたくさん存在します。感情的なものを旗頭にして、利権を守る為だったり、スッキリ感を得たい為だったり、人の目につかない所でやるなら勝手に死ぬまでやってりゃいいのですが、そういうものを拠り所としたい方々や、感情的な気持ちよさを得たい方々が、たくさんいるのもまた事実なので、これまた厄介です。
この本を読んでいくと、人々の感情を揺さぶり、いかに効果的なPR戦略を取られたか、それによって、世界がどのように動き、ボスニア紛争がどのように動いていったか、具合が悪くなってきます。民族浄化、エスニック・クレンジング、というキーワードを駆使し、我々が受け取る事実にいかにしてフィルターをかけたか、グッタリしてきます。自分がイメージしている、悪玉ズロボダン・ミロシェビッチ、という存在の、どこまでが事実なのか、現実はフィクションだとはわかってはいますが、クラクラ目眩がしそうになりました。ミロシェビッチ大統領が哀れな時代遅れのおっさんに見えてきます。もともとバルカン半島の紛争は第二次大戦ナチスの侵攻の最中、アンテ・パベリッチのウスタシャと、セルビア人勢力のチェトニクの紛争が事の発端ですので、ミロシェビッチだけを見て、彼ばかりが悪者だとは言い切れないのではないかと、比較的冷静に思っているつもりだったのですが、それでも目から鱗でした。情緒的に民族主義的なものに利用される感情、世界を巻き込む為に、感情をくすぐるPR戦略、熟感情的になるのはよくないなと、冷静になろうぜと思ってしまいました。
感情が人間の営みに不確実性をもたらしているのは事実です。だからこそ世の中予測不能なわけだし、思いもよらない事態が起こるのでしょう。だけど起こった事象は感情論とは無関係だと思います。例えばドイツワールドカップ決勝で、ジダンがマテラッツィーに頭突きをかまし、ジダンはレッドカードで退場を喰らった、これが物理的かつ客観的事実で、差別的発言を受けて我慢出来なかったとか、それくらいの挑発行為はよくある事で、そもそも最初に馬鹿にしたのは向こうが先だとか、現役最後の試合にもかかわらずああいう行為をしたのだから、相当酷い事を言われたのだろうとか、あんな事件があったにもかかわらずロックバンドのイベントで馬鹿騒ぎしているとか、そういう事と、サッカーという競技の中で、暴力行為が理由はどうあれルール違反だという事は無関係です。ジダンの暴力は反則行為で、マテラッツィーの挑発行動はルール違反ではありません、人間性に問題はあったのかもしれませんが、それとサッカーのルールは無関係だし判定も覆るべきではないと思います。その物理的事実の原因が感情の問題であったとしても、物理的事実は物理的事実です。双方見方が逆の立場であれば、主張する意見も違うでしょうし、双方に都合のいい事実も存在するだろうと思います。自分はジダンのファンでしたし、偉大な選手だと思います。あの瞬間、ショックで落ち込みましたし、しばらく引きずりました。だけどそういう事と彼がおかした反則は無関係です。いくら彼が好きでその事を認めたくないと思ったって、こんなはずじゃない、これは間違っているって騒いだって、物理的事実は何の影響も受けません。だけど世界中がその事を感情的に騒ぐと事実がねじ曲げられていきます。それは非常に危険な事なんじゃないでしょうか、報道の仕方なんかにも大きな問題はあると思います。
しかし鬱積したルサンチマンをどうするか、これは非常に難しい問題です。特に実際に被害を受けている方々を、どうやって動機づけるのか、簡単な方法はありません、政治家や、報道、知識人の方々が、情緒的な振る舞いをせず、冷静に啓蒙していくしかないんだと思います。民族主義的なものを煽っても、結果はもっと悲惨なものになるに決まっていますし、思考停止的に反戦平和、非武装中立を煽っても、現実的ではありません。感情的な理想論は脇において、嘘や捏造などせずに、誠実に啓蒙していくしかないのでしょう。自分はそのように思います。
イラクの問題はその根本的な所に石油利権が絡んでいます。ですから感情論の厄介さと、権益争奪の厄介さが複雑に絡んでいますので、更に頭の痛い問題です。結局一番痛い目にあうのは、一般国民です。一時の感情的気持ちよさを得たいが為に、回り回って自分達が痛い目にあいます。前大戦での我が国もそうです。大国は相対的にその痛みも少ないのでしょうから、簡単に懲りる蓋然性も低く、したがって繰り返されるという事になるのでしょう。感情的に賛成、反対を唱えるのではなく、自分達は何に賛成しているのか、何に反対しているのか、メディア・リテラシーを持つ事も大切だと思います。郵政民営化で大騒ぎしましたが、そういう論点の、どこに賛成し、何に反対しているのか、たくさんの意見を聞き、自分の目で見る事が大切です。もちろん冷静に感情的なものを煽るものに惑わされないように、そういうものを排除したとき、人の直感力は以外と当てになります。机上の空論をああだこうだとこねくり回すより、何倍も説得力があったりします。もちろん学習する事も大切だと思いますが。
この本の最後に、ボスニア紛争の情報戦を戦った、PR会社の方が、中国と契約を結んだと書いてあります。その事が本当の事なのか、何をPRしようとしているのか、自分には想像するしか出来ませんが、反中感情や、親中感情を煽っている場合じゃないと思います。国内の権力争いに、幼稚なPR合戦なんてやっている場合じゃありません。諸外国と戦略的に向き合い、協力するべき所、出来ない所、プラスになるような外交を是非やってもらいたいもんだと思います。
この本は感情論にとらわれすぎると、一国のポリティカル・コレクトネスを誤って行くという教訓なんじゃないでしょうか。我が国も情緒論や、思考停止的に国の舵取りをしていると、こういう未来が待っています。自分はそれが心配です。そうならない事を心から願っています。