実は自分、サッカーネタは、見るのも、やるのも(ゲーム)、大好物であります。ジダン選手が引退してしまったので、非常に寂しい思いでありますが、彼のプレイでごはん三杯はいけました。Jリーグは余り見ませんが、ヨーロッパのリーグ戦やカップ戦は言うに及ばず、もちろん代表レベルの試合も大好きです。以前仕事場にいた、高校生のあんちゃんに、自分のサッカー好きを見て、そんなに好きなのでしたら、プレステ2のウイイレでもやったらいいんじゃないですか、と薦められ、家に随分前に購入し、殆どソフトもなく、ホコリをかぶって無視され続けている、プレステ2があった事を思い出し、バカ言うな、そんなたかがゲームじゃ、サッカーの面白さなんて、伝えられるわけねえぜ、と高をくくって、まあでもそんなに進めるならちょっと借りてやってみるか、しょうがねえぜ的にやってみますと、何とこれが非常に面白く、年甲斐も無くはまってしまい、あげくの果てに購入に踏み切り、しばらく熱中していた事もあります。最近はその熱も冷めましたが、見るのは相変わらず大好きであります。
だからと言って、経験者というわけでもないので、余り難しく深い見方は出来ませんが、単純に試合を見て一喜一憂し、美しいプレイに驚き、勝利に歓喜し(応援している側の)、敗北にがっかりする、本当のサッカー好きの方からは駄目だしされそうな、一般的な浅い見方しか出来ませんが、今日はちょっとサッカーネタで書いてみようと思います。
オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える/木村 元彦

¥1,680
Amazon.co.jp
人の家で暇している時に、たまたまこの、オシムの言葉、という本に出会い、一気に半分くらい読み、そのまま借りて全部読みました。この本、以前から知ってはいましたが、なかなか読む機会が無く、借りて済ましてしまうと言う、反則技を使ってしまいました。買ってもいないくせに偉そうな事は言えないと思いますが、なかなか興味深い本でした。
オシム監督の優秀さ、というのは随分前から言われていましたし、ジーコ監督批判が花盛りだった頃、オシムに変えろ的な意見が多かったのも存じておりました。ワールドカップの際、日本代表の余りのふがいなさに、スカパーで土田さんが絶叫していたのを見て、笑ってしまいました。オシム監督の華々しい前歴、独特の哲学者、もしくは科学者のような言葉遣い、その思考、監督に就任した際、何を今更感がありましたが、前任監督を戦犯にして、後任監督に丸投げする体質は、この国の国民性なのかと半ば諦めながら、オシムさんの活躍を応援したい思いであります。
この国は前大戦で負けた時もそうでしたが、責任を誰かに押し付ける事によって、原因を見つめようとはしない、嫌な体質です。決定的な悲劇を経験する機会は何度もあったはずなのですが、肝心の所で救いの手を、前大戦ではアメリカという事になりますが、差し伸べられてしまい、悲劇を共有するまでに至りません。原因を学習していない為に、繰り返す可能性の構造が温存されたままになっています。そういう無責任体質、誰かをスケープゴートとして、自分達の責任や、そもそもの原因を忘却してしまう、悪しき慣習はあらゆるレベルで存在しています。国家レベルでも、共同体レベルでも、個人レベルでも、もちろんスポーツでも。
トルシェさんや、ジーコさんは監督ですからもちろん責任はあります。協会の会長だって責任者ですから責任があるに決まっています。責任者が責任取るのは当たり前です。その為に存在するのですから。まあ責任取ってない会長さんの話は、少し脇においておきましょう。しかし原因は何かと言えば簡単です、弱いからです。テクニックも、フィジカル的にも、メンタル的にも、戦術面においても、戦術面においては監督の責任でしょうし、選手を選ぶのも監督の責任です。しかしテクニックやフィジカルやメンタルは選手個人個人の能力の問題ですので、選んだ監督がすべての責任を取って辞めれば済むかと言えば、そういうわけではなく、新しい監督を呼べばそれで済むかと言えば、そういうわけではありません。代表と呼ばれる選手になる資質が、そもそもカスしかいなければ、いい選手を集めると言う事も、論理的に不可能です。そういう意味で言うと何も解決されていない状態のまま、トルシェさんも、ジーコさんも、監督に就任し、そして辞めていき、オシムさんも就任されています。
ドイツのワールドカップを見て、ヘロヘロになっていた、日本代表のフィジカルの弱さ、テクニックのなさもさることながら、メンタルの弱さ、幼稚さは、絶望的なものを感じました。そもそもチームがバラバラで何がしたかったのかよくわかりませんでしたし、内輪でもめているようにも見えましたので、がっかりでした。とても感動をありがとう、という気分にはなりませんでした。テクニックやフィジカルが劣っているのはわかっていますから、別に諦めもつきますが、メンタル面の脆弱さは、チームワークの無さという事も含めて、飽きれるしかありません。あんな所まで行ってそのレベルか、そういう思いでした。
クロアチア戦でPKを与えてしまった、宮本さんの顔、あのボブサップのような(ちなみに弱腰の情けない顔、助けてくれ的な闘争心の無い表情を、自分はよくボブサップ状態と言います)、チキン顔に象徴されるような、メンタルの弱さが殆どの選手に見受けられました。戦いの最中にああいう表情をするようではおしまいです。今後も宮本さんも含め、ああいう表情を見せてくれた、他の選手は二度と代表に呼ばれない事を、中田英寿さんの性格に問題があったのかもしれませんが、誰が見ても、頭も良く、一番経験もあり、世界を知っている貴重な知恵袋を、幼稚な形ではぶくようなバカな振る舞いをされた方々が、二度と代表に呼ばなれない事を、心から祈っております。最もオシム監督はそんな事は百も承知だろうとは思いますが。
オシム監督の戦術、選手起用は希望の持てるものだと思います。監督が出来る事の限界を良く知っていらっしゃるようですし、日本人のメンタルもよくご存知のようです。下らない内輪もめなどプロの選手なんだからあるわけが無いと思っているようにも見えた、ジーコさんよりは日本人に向いているのかもしれません。誤解の無いように言いますが、自分はジーコさんが監督として日本人に向いていなかった、とは思っていますが、別に監督として駄目かどうか、判断するような能力もありませんので、それはまた別の話です。
日本には責任を取るという概念が希薄です。自己責任なんて言葉が流行ったりしましたが、責任なんてものは、他人に取ってもらったりするものではありません。自己責任なんて当たり前です。しかし責任という言葉にわざわざ自己なんてくっつける必要がある所に、責任という言葉に対する理解が希薄な国民性を感じます。子供の責任というのは、子供ですから責任という事を、学んでいる最中です。育てている親に責任があるのは、子供の教育が行き届いていないという意味において存在します。上司が部下を庇うのも、部下にある仕事を割り振った時点で上司に責任が発生します。裁量を持たせていたとしても、その裁量を持つか否かの判断を部下が勝手に出来ない以上、上司にも責任があります。当たり前ですが、部下にももちろんあります。そういう意味で上司は自分の管理責任が、部下は自分の失敗において、責任が発生するわけです。国家に責任は発生しても、政治家や官僚にその意識は無く、また個人で償えるレベルのものでもないので、誰も責任は取りません。責任というのは、自分の振る舞いによって、どういう結果が訪れ、それによってどういう作用を、自己や他者に及ぼすかを、きちんと想像する力量があるかないかが重要なんだと思います。特定の権益を握った人の為に、責任を行使するのか、自分が所属するコミュニティーの為か、はたまた弱者の為か、社会的正義の為か、愛する人の為か、個人の実存においてか、自分は何に対して責任があり、行動するべきか、それをわきまえる事も重要です。辞めりゃいいってもんじゃありません。そういうイマジネーションをきちんと持てない人間が、責任のある立場にいる事が、何しろ厄介なのですが。
そしてサッカーや競技においては、プロとアマでは金の為か、個人のイグジステンシャルな次元か、価値観は違いますが、少なくとも勝利に向かっていかに責任を持つかが重要です。それは勝てばいいという事を言っているのとは違います。勝つ為にいかに努力したか、それが重要なんだと思います。自分で言っているだけでは話になりません、多くの人がそうと認める事が重要です。私なりにがんばった、というのは勝手に言うのは構いませんが、それではアマチュア選手と変わりませんし、プロの選手は金ももらうわけですから、評価は自分だけで出来るものではありません。代表を背負って競技に出場するという事は、最低限それくらいの責任感は持つべきです。イチロー選手はいつも言います。結果は問題じゃない、プロセスが重要なんだと、それは彼だから説得力がある言葉なんだと思います。あれだけの結果を残しているのに、結果は重要じゃないと言ってしまう所がカッコいいのではないでしょうか。たいした結果も出さずにそんな事を言ったって、勝手に言ってろで終わってしまいます。子供がそう言っているのなら構いませんが、いい大人が結果も出せずにそんな事を言っても説得力ありません。
そしてこの国は自由という言葉を勘違いしている方が、たくさん存在するように思います。人間は不思議な生物です。毎日忙しく拘束されてる時は、その拘束から解放されたいと願ったり、それを捨て去りたいという、衝動に駆られたり、そこまでいかなくても、少しまとまった休みを確保して、のんびりしたいとか思うものですが、実際何も拘束される物がなくなると、何をするべきかいろいろ悩んでしまったりします。結局自由とは、不自由がなければ確認できない物なのだと思います。不自由とは考えなくてすむ方法なのでしょう。せっかく自由になっても、読書や、音楽、映画鑑賞、友人との時間、結局何かしらの、不自由を求めてしまいます。この世にあるあらゆるもの、国家、法律、道徳、宗教、戦争、平和、仕事、家庭、消費、恋愛、スポーツ、芸術、その他たくさんの、不自由に囲まれていないと生きていけません、それが我々にアイデンティティーを与えてくれます。結局不自由を選択する自由があるだけで、本来の意味の自由な状態とは、あり得ないのかもしれません、あったとしてもあまり楽しそうには見えないのではないでしょうか。気が狂うのも、不自由の選択の一つです。
中田選手が引退するときに言っていました。自由は責任が生じる、このチームには少し早かったかもしれないって、ジーコさんが教えたかった自由、ブラジル人にとって自由は切実です。彼らはあらゆる不自由に囲まれて生きています。それは日本人が想像出来る不自由ではありません。貧困と一口に言っても日本人からすればそれは絶望的です。それを打破するために彼らには自由な精神が必要で、切実なんだと思います。日本人は基本的に何でも自由という価値観を謳歌しています。自由に囲まれて生きている、多くは錯覚なんですが、切実じゃありません、だから本当の自由という概念がないんだと思います。無責任な物理的自由が溢れています。精神的自由というのは不自由を認識しないと芽生えません、無秩序な物理的自由を無軌道に謳歌していてはそう言う精神は生まれません、恐らくその事に中田選手は絶望したんだと思います。
トルシェさんはチームに不自由を与えました、その枠があったから選手は考え、自由を求め、フラット3という戦術を、時として臨機応変に無視し、勝利に結びつけたのだと思います。ドキュメンタリーを見たとき、松田選手や中田浩二選手、森岡選手などが、トルシェさんに内緒で、フラット3に対して、考えているくだりがありました。バレないようにいかに無視するかです。彼らは実戦ではその方がベストだと感じたのでしょう。不自由を与えていたトルシェさんですが、選手にも多様性がありました、うるさい監督というイメージがありますが、今から見ると相当じゃじゃ馬な選手もいたように思います。しかし監督がガチガチに縛る事によって、不自由と向き合う事によって、考える枠組みが与えられたのだろうと思われます。結果的に中村選手を呼ばなかった理由もわかりましたし、中山選手や秋田選手を呼んだ事がポジティブに作用したとも思います。主将をポジションによって固定し特別な意味を持たせなかったのも、選手の責任と監督の責任に明確な線を引き、フレームを与え、頭脳は監督が、選手達は手足となって、というシステムがガッチリはまったのだと思います。
ジーコさんは、大変優しい方だったんだと思います。我々を大人扱いして下さった、日本人を信頼して、対等に接しようとして下さった側面もあったのではないでしょうか。自由なサッカーの喜び、楽しさ、そういうものを日本人と分かち合えるはずだという信念、それに基づいて行動し、指導した結果、彼が望んでいたものとは違ったかもしれませんでしたが、その事が恐らく、今後の彼の監督としてのキャリアに必ずプラスになるのではないかと思います。ジーコさんは選手としては神様でしたが、監督としてはルーキーだったわけですから。
オシム監督がどのようなチームを作っていくのか、これから楽しみですが、オシムの言葉、を読むと、オシムさんの歩んで来た人生というのが、旧ユーゴの一連の出来事と絡まって非常に興味深く書かれています。その価値観や独自の哲学は、大いに期待出来るものだと思います。それに前代表の問題点であった、メンタル的な部分を鍛え直すにはこれ以上の監督はなかなかいないのではないかと思います。トルシェさんが教えたかった規律、ジーコさんが教えたかった自由、そういうヘリテージがちゃんと残っていくのかは、選手や協会次第だと思いますが、勝つにしろ、負けるにしろ、納得のいくような、少なくても幼稚なメンタル面だけでも何とかなってくれればいいのになと思います。
オシムさんの言動は、時として本質を捉えているあまり、幼稚な国民性や、幼稚なメディアには、ひょっとすると受けが悪くなる可能性を秘めています。オシムさんの大人としての振る舞いは旧ユーゴの時代でも、幼稚な民族主義的なものに足を引っ張られたり、それをブーストさせるような幼稚なメディアに邪魔されたり、ポピュリズム的な政治に翻弄されたり、実際の民族紛争に引き裂かれそうになったり、数々の困難が降り掛かりました。しかし彼はそれに向き合い、論理的に対処し、大人としてあるべき姿を示し続けました。そして世界はそういうものなのだという事も、ちゃんと彼の哲学として昇華し、人と人は簡単にはわかりあえない、コミニュケーションの切実さや、本当の自由とは何か、責任とは何か、規律とは何か、戦う姿勢とは何か、大人として振る舞うというのはどういう事か、平和ぼけの我々日本人すべて、オシムさんという方の言動はいい学びの材料となります。下らないマスコミ的な報道で、彼の言いたい事の本質を見間違えないように注意が必要なんじゃないでしょうか。
旧ユーゴの問題は、知れば知るほど頭の痛くなる話ですが、それはまた別の機会にという事で。
だからと言って、経験者というわけでもないので、余り難しく深い見方は出来ませんが、単純に試合を見て一喜一憂し、美しいプレイに驚き、勝利に歓喜し(応援している側の)、敗北にがっかりする、本当のサッカー好きの方からは駄目だしされそうな、一般的な浅い見方しか出来ませんが、今日はちょっとサッカーネタで書いてみようと思います。
オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える/木村 元彦

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オシム監督の優秀さ、というのは随分前から言われていましたし、ジーコ監督批判が花盛りだった頃、オシムに変えろ的な意見が多かったのも存じておりました。ワールドカップの際、日本代表の余りのふがいなさに、スカパーで土田さんが絶叫していたのを見て、笑ってしまいました。オシム監督の華々しい前歴、独特の哲学者、もしくは科学者のような言葉遣い、その思考、監督に就任した際、何を今更感がありましたが、前任監督を戦犯にして、後任監督に丸投げする体質は、この国の国民性なのかと半ば諦めながら、オシムさんの活躍を応援したい思いであります。
この国は前大戦で負けた時もそうでしたが、責任を誰かに押し付ける事によって、原因を見つめようとはしない、嫌な体質です。決定的な悲劇を経験する機会は何度もあったはずなのですが、肝心の所で救いの手を、前大戦ではアメリカという事になりますが、差し伸べられてしまい、悲劇を共有するまでに至りません。原因を学習していない為に、繰り返す可能性の構造が温存されたままになっています。そういう無責任体質、誰かをスケープゴートとして、自分達の責任や、そもそもの原因を忘却してしまう、悪しき慣習はあらゆるレベルで存在しています。国家レベルでも、共同体レベルでも、個人レベルでも、もちろんスポーツでも。
トルシェさんや、ジーコさんは監督ですからもちろん責任はあります。協会の会長だって責任者ですから責任があるに決まっています。責任者が責任取るのは当たり前です。その為に存在するのですから。まあ責任取ってない会長さんの話は、少し脇においておきましょう。しかし原因は何かと言えば簡単です、弱いからです。テクニックも、フィジカル的にも、メンタル的にも、戦術面においても、戦術面においては監督の責任でしょうし、選手を選ぶのも監督の責任です。しかしテクニックやフィジカルやメンタルは選手個人個人の能力の問題ですので、選んだ監督がすべての責任を取って辞めれば済むかと言えば、そういうわけではなく、新しい監督を呼べばそれで済むかと言えば、そういうわけではありません。代表と呼ばれる選手になる資質が、そもそもカスしかいなければ、いい選手を集めると言う事も、論理的に不可能です。そういう意味で言うと何も解決されていない状態のまま、トルシェさんも、ジーコさんも、監督に就任し、そして辞めていき、オシムさんも就任されています。
ドイツのワールドカップを見て、ヘロヘロになっていた、日本代表のフィジカルの弱さ、テクニックのなさもさることながら、メンタルの弱さ、幼稚さは、絶望的なものを感じました。そもそもチームがバラバラで何がしたかったのかよくわかりませんでしたし、内輪でもめているようにも見えましたので、がっかりでした。とても感動をありがとう、という気分にはなりませんでした。テクニックやフィジカルが劣っているのはわかっていますから、別に諦めもつきますが、メンタル面の脆弱さは、チームワークの無さという事も含めて、飽きれるしかありません。あんな所まで行ってそのレベルか、そういう思いでした。
クロアチア戦でPKを与えてしまった、宮本さんの顔、あのボブサップのような(ちなみに弱腰の情けない顔、助けてくれ的な闘争心の無い表情を、自分はよくボブサップ状態と言います)、チキン顔に象徴されるような、メンタルの弱さが殆どの選手に見受けられました。戦いの最中にああいう表情をするようではおしまいです。今後も宮本さんも含め、ああいう表情を見せてくれた、他の選手は二度と代表に呼ばれない事を、中田英寿さんの性格に問題があったのかもしれませんが、誰が見ても、頭も良く、一番経験もあり、世界を知っている貴重な知恵袋を、幼稚な形ではぶくようなバカな振る舞いをされた方々が、二度と代表に呼ばなれない事を、心から祈っております。最もオシム監督はそんな事は百も承知だろうとは思いますが。
オシム監督の戦術、選手起用は希望の持てるものだと思います。監督が出来る事の限界を良く知っていらっしゃるようですし、日本人のメンタルもよくご存知のようです。下らない内輪もめなどプロの選手なんだからあるわけが無いと思っているようにも見えた、ジーコさんよりは日本人に向いているのかもしれません。誤解の無いように言いますが、自分はジーコさんが監督として日本人に向いていなかった、とは思っていますが、別に監督として駄目かどうか、判断するような能力もありませんので、それはまた別の話です。
日本には責任を取るという概念が希薄です。自己責任なんて言葉が流行ったりしましたが、責任なんてものは、他人に取ってもらったりするものではありません。自己責任なんて当たり前です。しかし責任という言葉にわざわざ自己なんてくっつける必要がある所に、責任という言葉に対する理解が希薄な国民性を感じます。子供の責任というのは、子供ですから責任という事を、学んでいる最中です。育てている親に責任があるのは、子供の教育が行き届いていないという意味において存在します。上司が部下を庇うのも、部下にある仕事を割り振った時点で上司に責任が発生します。裁量を持たせていたとしても、その裁量を持つか否かの判断を部下が勝手に出来ない以上、上司にも責任があります。当たり前ですが、部下にももちろんあります。そういう意味で上司は自分の管理責任が、部下は自分の失敗において、責任が発生するわけです。国家に責任は発生しても、政治家や官僚にその意識は無く、また個人で償えるレベルのものでもないので、誰も責任は取りません。責任というのは、自分の振る舞いによって、どういう結果が訪れ、それによってどういう作用を、自己や他者に及ぼすかを、きちんと想像する力量があるかないかが重要なんだと思います。特定の権益を握った人の為に、責任を行使するのか、自分が所属するコミュニティーの為か、はたまた弱者の為か、社会的正義の為か、愛する人の為か、個人の実存においてか、自分は何に対して責任があり、行動するべきか、それをわきまえる事も重要です。辞めりゃいいってもんじゃありません。そういうイマジネーションをきちんと持てない人間が、責任のある立場にいる事が、何しろ厄介なのですが。
そしてサッカーや競技においては、プロとアマでは金の為か、個人のイグジステンシャルな次元か、価値観は違いますが、少なくとも勝利に向かっていかに責任を持つかが重要です。それは勝てばいいという事を言っているのとは違います。勝つ為にいかに努力したか、それが重要なんだと思います。自分で言っているだけでは話になりません、多くの人がそうと認める事が重要です。私なりにがんばった、というのは勝手に言うのは構いませんが、それではアマチュア選手と変わりませんし、プロの選手は金ももらうわけですから、評価は自分だけで出来るものではありません。代表を背負って競技に出場するという事は、最低限それくらいの責任感は持つべきです。イチロー選手はいつも言います。結果は問題じゃない、プロセスが重要なんだと、それは彼だから説得力がある言葉なんだと思います。あれだけの結果を残しているのに、結果は重要じゃないと言ってしまう所がカッコいいのではないでしょうか。たいした結果も出さずにそんな事を言ったって、勝手に言ってろで終わってしまいます。子供がそう言っているのなら構いませんが、いい大人が結果も出せずにそんな事を言っても説得力ありません。
そしてこの国は自由という言葉を勘違いしている方が、たくさん存在するように思います。人間は不思議な生物です。毎日忙しく拘束されてる時は、その拘束から解放されたいと願ったり、それを捨て去りたいという、衝動に駆られたり、そこまでいかなくても、少しまとまった休みを確保して、のんびりしたいとか思うものですが、実際何も拘束される物がなくなると、何をするべきかいろいろ悩んでしまったりします。結局自由とは、不自由がなければ確認できない物なのだと思います。不自由とは考えなくてすむ方法なのでしょう。せっかく自由になっても、読書や、音楽、映画鑑賞、友人との時間、結局何かしらの、不自由を求めてしまいます。この世にあるあらゆるもの、国家、法律、道徳、宗教、戦争、平和、仕事、家庭、消費、恋愛、スポーツ、芸術、その他たくさんの、不自由に囲まれていないと生きていけません、それが我々にアイデンティティーを与えてくれます。結局不自由を選択する自由があるだけで、本来の意味の自由な状態とは、あり得ないのかもしれません、あったとしてもあまり楽しそうには見えないのではないでしょうか。気が狂うのも、不自由の選択の一つです。
中田選手が引退するときに言っていました。自由は責任が生じる、このチームには少し早かったかもしれないって、ジーコさんが教えたかった自由、ブラジル人にとって自由は切実です。彼らはあらゆる不自由に囲まれて生きています。それは日本人が想像出来る不自由ではありません。貧困と一口に言っても日本人からすればそれは絶望的です。それを打破するために彼らには自由な精神が必要で、切実なんだと思います。日本人は基本的に何でも自由という価値観を謳歌しています。自由に囲まれて生きている、多くは錯覚なんですが、切実じゃありません、だから本当の自由という概念がないんだと思います。無責任な物理的自由が溢れています。精神的自由というのは不自由を認識しないと芽生えません、無秩序な物理的自由を無軌道に謳歌していてはそう言う精神は生まれません、恐らくその事に中田選手は絶望したんだと思います。
トルシェさんはチームに不自由を与えました、その枠があったから選手は考え、自由を求め、フラット3という戦術を、時として臨機応変に無視し、勝利に結びつけたのだと思います。ドキュメンタリーを見たとき、松田選手や中田浩二選手、森岡選手などが、トルシェさんに内緒で、フラット3に対して、考えているくだりがありました。バレないようにいかに無視するかです。彼らは実戦ではその方がベストだと感じたのでしょう。不自由を与えていたトルシェさんですが、選手にも多様性がありました、うるさい監督というイメージがありますが、今から見ると相当じゃじゃ馬な選手もいたように思います。しかし監督がガチガチに縛る事によって、不自由と向き合う事によって、考える枠組みが与えられたのだろうと思われます。結果的に中村選手を呼ばなかった理由もわかりましたし、中山選手や秋田選手を呼んだ事がポジティブに作用したとも思います。主将をポジションによって固定し特別な意味を持たせなかったのも、選手の責任と監督の責任に明確な線を引き、フレームを与え、頭脳は監督が、選手達は手足となって、というシステムがガッチリはまったのだと思います。
ジーコさんは、大変優しい方だったんだと思います。我々を大人扱いして下さった、日本人を信頼して、対等に接しようとして下さった側面もあったのではないでしょうか。自由なサッカーの喜び、楽しさ、そういうものを日本人と分かち合えるはずだという信念、それに基づいて行動し、指導した結果、彼が望んでいたものとは違ったかもしれませんでしたが、その事が恐らく、今後の彼の監督としてのキャリアに必ずプラスになるのではないかと思います。ジーコさんは選手としては神様でしたが、監督としてはルーキーだったわけですから。
オシム監督がどのようなチームを作っていくのか、これから楽しみですが、オシムの言葉、を読むと、オシムさんの歩んで来た人生というのが、旧ユーゴの一連の出来事と絡まって非常に興味深く書かれています。その価値観や独自の哲学は、大いに期待出来るものだと思います。それに前代表の問題点であった、メンタル的な部分を鍛え直すにはこれ以上の監督はなかなかいないのではないかと思います。トルシェさんが教えたかった規律、ジーコさんが教えたかった自由、そういうヘリテージがちゃんと残っていくのかは、選手や協会次第だと思いますが、勝つにしろ、負けるにしろ、納得のいくような、少なくても幼稚なメンタル面だけでも何とかなってくれればいいのになと思います。
オシムさんの言動は、時として本質を捉えているあまり、幼稚な国民性や、幼稚なメディアには、ひょっとすると受けが悪くなる可能性を秘めています。オシムさんの大人としての振る舞いは旧ユーゴの時代でも、幼稚な民族主義的なものに足を引っ張られたり、それをブーストさせるような幼稚なメディアに邪魔されたり、ポピュリズム的な政治に翻弄されたり、実際の民族紛争に引き裂かれそうになったり、数々の困難が降り掛かりました。しかし彼はそれに向き合い、論理的に対処し、大人としてあるべき姿を示し続けました。そして世界はそういうものなのだという事も、ちゃんと彼の哲学として昇華し、人と人は簡単にはわかりあえない、コミニュケーションの切実さや、本当の自由とは何か、責任とは何か、規律とは何か、戦う姿勢とは何か、大人として振る舞うというのはどういう事か、平和ぼけの我々日本人すべて、オシムさんという方の言動はいい学びの材料となります。下らないマスコミ的な報道で、彼の言いたい事の本質を見間違えないように注意が必要なんじゃないでしょうか。
旧ユーゴの問題は、知れば知るほど頭の痛くなる話ですが、それはまた別の機会にという事で。