近所のレンタル店には、いつまでたってもマンダレイが入荷しません、買ってしまおうかとも思っていますが、もう少し待てば入荷するのでは、という期待があるため、なかなか購入に踏み切れません、ケチ臭い事言ってんなよ、と言われてしまいそうですが、ごもっともでございます。しかし購入に踏み切れないわけを申しますと、まず間違いなく一回しか見ない類いの映画であろう、という事、もしかすると自分の探し方が悪いだけで、レンタル店にあるのではないか、という疑いが残っている事、レンタル店の品物の並び方は、自分にとって過酷な苦役です。親切に並べて下さっているのでしょうが、自分の探し方が悪いだけなのかもしれません、探すのにひと苦労です。ネットでの検索に慣れてしまった今、物理現実世界での探索能力が落ちているのかもしれません。携帯電話の発展で電話番号を全く覚えられなくなったのと同じです。いや違うかな。ネットで借りりゃいいじゃねえか、ごもっともです。
そして決定的な理由はと言いますと、これが三部作の二作目だというのが最も懸念する点なのです。すでにネットで検索すると、ドッグヴィルとの抱き合わせで売っています。という事は、三作目が出た暁には、間違いなくセットのボックスでしかも非常にリーズナブルな価格で、発売されるのが目に見えているからです。この手の抱き合わせ販売に何度苦い思いをした事か、張り切って早々と買ってしまうとろくな事はありません。
というわけで、マンダレイを見たくてうずうずしておりますが、今日は一作目のドッグヴィルについて、今更ながら私的駄文で書こうと思っとります。
ドッグヴィル プレミアム・エディション/ニコール・キッドマン

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ドグマ95の十戒を初めて知ったときはドキドキしたもんですが、時は流れ自分も歳を取るはずです。ラース・フォン・トリアー監督の作品は、奇跡の海、ダンサー・イン・ザ・ダーク、と見ましたが、ドックヴィルで三本目となります。初期のものはテレビかなんかで、見た記憶はあるのですが、あまり良く覚えていません。それが何だったかもよく覚えていないので、見たとは言えないと思います。他の作品も見たいと思うのですが、マンダレイもないような(あるのに見つけられないだけかもしれませんが)レンタル店しかない田舎なものですから、初期作品が仮にあったとしても自分に見つけ出せるのか自信がありません。だからネットでレンタルしろよ、と聞こえてきそうですが。
ドッグヴィルがどのような手法で描かれているのか、予備知識は持ってみましたが、見始まってすぐあのとんでもない手法に驚きました。予備知識なしで見たらさぞたまげるだろう、あの演出、天才と狂人は紙一重と言いますが、まさしくその通り、否、天才と狂人が重なっている、まともな人間はあんな描き方考えつくわけありません。しかし見始まってしまいますと、いかに普段の映画の視覚効果が、あまり意味のない、無くても問題の無いものかがわかります。物語を見せて行く上では視覚的な効果は単なる一要素にすぎず、脚本と俳優さんの演技、演出で、どうにでもなるのだという事を思い知らされます。映画でこの手法が通用するのか疑問でしたが、自分の認識が甘かったと目を覚まされる思いでした。あの手法だからこそ伝わるものも確かにあるのです。
他の人が真似してもあんな風にはならないのかもしれませんが、それがただの狂人ではなく天才と呼ばれる所以なんでしょう。
映画の内容はさすがラース・フォン・トリアー監督、相変わらず見ているものを凍り付かせます、サディスティックに主人公を徹底的にいたぶります。これでもかという具合に、ろくな目にあいません、主人公がニコール・キッドマンであっても容赦はありませんでした。人間の醜さを、きれい事を排除し、冷たくありのままに切り取って行く様は、ヒューマニズム的なものに毒された方々には、恐らく目を覆うような展開なのではないでしょうか。
有り得ないようなご都合主義の、リアリティーのない物語と、ベクトルは全く逆を向いていますが、ことごとく悪い方に転がって行く様は、リアリティーは全くありません。それは奇跡の海でも、ダンサー・イン・ザ・ダークでもそうでした。しかしこの有り得なさはたいした問題ではありません。有り得ませんが、有り得るかもとふと思ってしまう瞬間があるのです。人の心の闇の部分を覗いたとき、本当にこんなバカな事はしないよ、そう言い切れるか、世の中はきれい事だけで回っているのではなく、人の歴史、世界の現状を知れば、自分が今ここでこうやって安穏と暮らしていられるのも、たまたま環境に恵まれ運がいいだけだと言う事、そういう前提を全く無視して、善悪を語ってもナンセンスですし、良心に訴えても単なる偽善となってしまいます。そういうものを木っ端微塵に破壊し、愛とは何か、良心とは何か、人間とは何か、心の核に突き刺さってきます。それは非常に心の痛い経験ですが、こういうものから目をそらしても、人の持つ業からは逃れられませんし、事の善悪を語っても人には伝わりません。向き合って初めてそういうものの本質が見えてくるはずです。喜びを知っているからこそ悲しむのであり、悲しみを知らなければ、喜びを感じる事も出来ません、希望を持つから絶望するのだし、絶望があるからこそ、希望もある、光があるから闇があり、闇という概念が無ければ、光という概念も存在しない、物事の裏表、真実と嘘、粒子と反粒子、どちらかだけでは成り立たない、対立する概念や分質があるから、それはそのようになっている、それがこの世の法則なのです。
対立というのはあらゆる次元に存在します。そしてそこには必ず、強弱も存在します。生き物はレベルの違いこそあれ、結局同じような営みを繰り返すものなのかもしれません。牛が草を食むのも、ライオンがシマウマを喰らうのも、象を人が撃ち殺すのも、鮫が人を食うのも、ビジネスで競争相手に潰されるのも、ジャイアンツが阪神に勝てないのも、洪水で街が流されるのも、戦争に負けて植民地化されるのも、植物が太陽の光や水分、土中の養分を吸収するのも、惑星や恒星や光そのものが、ブラックホールに吸い込まれ、事象地平面内、所謂シュバルツシルト半径内とかエルゴ領域とかいわれるものに入り込んで脱出できなくなるのも、自分の目にはそのレベルの違いが明確にわかりますが、ようするに甲が乙を吸収する、甲が乙を否定する、乙を利用して甲が甲を肯定する、力学的に甲が乙より上回っているので甲が生き残り乙は消滅する、もっと簡単に言えば、甲が勝ち、乙が負ける、それだけの事なのです。つまるところ、この世を形作っている、すべてのもの、宇宙、事象発生装置、現実構成システムまあ何でもいいですが、そういうものは結局の所、そういう簡単な原理を様々なレベルで体現しているに過ぎないのではないでしょうか。様々な対立をあらゆる次元で延々と繰り返す、巨大なシミュレーションシステム、その実験サンプルを眺めている存在がいるのかどうかはわかりませんが、存在するとすればそれが神と呼ばれるものかもしれません。そのシミュレーションシステム上で存在する、様々な物質、有機であれ無機であれ、生物も巨大な惑星も、一億分の一センチの原子も、十兆分の一センチの原子核も、その構成要素の陽子、電子、中性子でさえ、単なる駒に過ぎないのです。未来永劫滅び去るまで対立のシミュレーションは続く、それは、道徳でも哲学でも善悪でもありません、法則です。人間社会のシステムというのはそういう対立構図を曖昧にぼやかす為に存在します。勝ち負けによる格差をなるべく緩やかにして、安心感を得る為に、希望のようなものをちらつかせて、弱者がそう簡単に音を上げないように巧妙に創られてます。だけどそれでも巨大なシミュレーションシステムの法則をねじ曲げる事など出来ません。物語の登場人物が、作者の構想を勝手に変えられないのと同じです。物語の中でどれだけあがいた所で、所詮作者の構想の内側からは出られません。見た目が違っているように見えたとしてもそこに意味などありません。石ころと木の違いに意味などないのと同じです。
そして我々人間は、この社会でつくられたフィクションの善悪、完全な善や、完全な悪という状態にはなりにくく、多くの場合その狭間で、その時の状況によって揺れ動いています。この映画は人はそういうものだと教えてくれます。だからこそどちらにもなりうる、だからといって悪を成した人間が許されるわけではありませんし、善人がいい思いできるわけではありません。そういうものだと叩き付けられます。
主人公の女性は、自らの理想という名の妄想の中に生きています。彼女の理想は、厳しい現実によってことごとく打ち砕かれます。それでもこの女性は妄想の中で夢を見、現実の厳しさに向き合いません。理想に甘え、妄想に逃げています。奇跡の海でも、ダンサー・イン・ザ・ダークでもそうでした。
奇跡の海 プレミアム・エディション/エミリー・ワトソン

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奇跡の海の主人公の女性も、旦那さんとの純愛という妄想の中で苦しみます。現実の厳しさが徹底的に彼女を引き裂き、やがて死という現実を迎える事となります。同じく奥さんの愛と言う幻想の中に逃げ込んでいた旦那さんは、奥さんの死という取り返しのつかない現実を迎える事になります、失って後悔する。しかし物語はたった一つ奇跡を残していきます。
ダンサー・イン・ザ・ダークの主人公も自分の妄想の夢の中に生きています。視力を失いつつあり、物理的な現実世界からも断ち切られつつあります。彼女の希望はことごとく裏切られ、それでも彼女は空想の中でしか自分を表現出来ません。ラストになって初めて彼女は人前で歌を歌い、初めて現実世界と向き合います。その瞬間、一瞬見ている人々に希望を見せるも、凄惨なラストシーンは現実の甘くなさを突きつけ、観客を凍り付かせます。
今作では徹底的にいたぶられた主人公がどういう結末を迎えるのか、終盤、彼女の父親が現れたとき、もしや、と感じさせます。まさかと思った事がもっと凄まじい結末となり、見ている我々の善悪の価値観をぶっ壊します。厳しい現実なんてものじゃありません、甘えたヒューマニズムなんて一瞬も入る隙も無いくらい、凄惨なクライマックス。
しかし見ている自分の感情に驚かされます。スッキリしてしまうのです。同じ事が現実世界で起これば、誰もが目をしかめて、やりきれなくなるような出来事であるにもかかわらず、ある設定、ある状況下でなら、自分も同じ選択をしてしまう可能性もあるのではないかと、背筋が凍り付きます。お前が思っている善悪など、そんなもんなんだよ、と監督に言われているようでした。