Screamadelica/Primal Scream

¥1,242
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このアルバムを聴いて、青春時代を思い出す方は、おそらく自分と同年代くらいなのではないでしょうか。自分はリアルタイムでロックを体験した記憶の中でも、幸福だった記憶ばかりが詰まった、聴くというより体感と言った感じの経験でした。
セカンド・サマー・オブ・ラブとか、フラワー・チルドレンとか、アシッド・ハウスとか・・・・今聴き返してもそういうキーワードとともに、幸福感を思い出させてくれるアルバムです。
ダンサブルで、高揚感に溢れ、恍惚感が沸き上がり、とてもシラフではいられなくなってしまいそうな、そんな体感、ちなみに自分お酒は飲めませんが、そういう気持ち、つまり気持ちいいという事です。
プライマル・スクリームの三枚目のアルバム、スクリーマデリカ、毎度コンセプトの変わる彼らですが、自分にとってはこのアルバムが彼らのベストだと言えます、他のアルバムももちろん素晴らしいのですが、人生に大きな影響を与えられた数少ない音楽の中の一つです。
ストーンズ風のMovin' on Up からぶっ飛ばされ、自分は最初聴いた時は、ジョージ・マイケルのフェイスを思い出してしまいましたが、カヴァーのSlip Inside This House からLoadedまで畳み掛けられます、どの曲も思い入れが深すぎて、甲乙つけられません、一気にトリップ出来ます。そして、Damagedで優しさにふと癒され、ラストのShine Like Stars、で静かに現実に着地した時は、世界が変わって見える勢いです。
人生においてこういうものがあるのとないのでは、幸福感を体感できる経験の度合いが随分と違ったものになるのではないかと思います。もちろん実際に何かを手にしたり、達成するわけではないので、シラフになった時の虚しさも味あわなければならないのですが。
しかしその落差を体感する事によって、幸福とは何なのだろうという事について次第に目が開かれて行くのではないかと思います。
日常に着地した時に、例えば、幻想に逃げていても、そこで得られる幸福は借り物にすぎないんだ、日常と向かい合う事によって得られるものこそ、実のある本当の幸福なんじゃないか、と気付いた気になり、良くも悪くも、本当の意味での大人となる。その後のムーブメントには以前のように心の底からのめり込む事が出来なくなり、俯瞰出来る目線を獲得し、一種の冷めた目線からその新しいものを眺め、自分の思い出と比べてしまう、体感したものと、俯瞰したものでは、比べようもないのは明らかなのに、そこに陥りがちです。自分が体感した思い出はこんなもんじゃないと、俯瞰したものより上におこうとしてしまう。それが所謂ジェネレーション・ギャップとなるのだろうと思います。やがて社会と向き合う生活の中で、傷ついたり、何かを手にし、それが幸福だと呼ばれるものであっても、何かが違うと思ってしまったり、幸福だった記憶もなければ、比べる基準もありませんから、違うかどうかもわかりませんし、迷う事もないはずですが、強烈な記憶があればあるほど、それを渇望し、現実の幸福感の物足りなさを感じてしまったりするわけです。あげく思い出に浸ってあの頃は良かったぜ的になりがちです。それは美化された思いでであり、自分が世界と向き合わず、希望を抱いていた時期の記憶に直結されるので、確かにあったはずの虚しさや、無力感も、若かりし頃の懐かしい記憶に塗り替えられます。最近あった、つまごいコンサートのようなものにあれだけ人が集まるのですから、そういう需要があるのは事実です。
しかし過去の美化された記憶は幻想です。若かりし頃、未来に希望を抱く事と、年老いて過去の希望にすがる事は、どちらも幻想だというレベルでは変わりません。将来の夢の多くがものにならない事と、過去の過ちが変更不可能だという事は、かなわないという次元で全く同じ事だというわけです。本当の幸福を見つめ大人になっていたと錯覚していただけで、実は若かりし頃と同じ事をしているだけだという事になります。幸福感と虚しさの往復運動、それをただ繰り返すだけ、人生の多くの事が繰り返しに満ちています。日々の食事、睡眠、仕事、セックス、日常生活、排泄行為、上下関係、経済、政治、国際問題、呼吸、心臓の鼓動、これでもかというくらい繰り返し繰り返し、個人は死ぬまで、世界は破滅を迎えるまで、繰り返しの悪夢は続きます。その呪縛から解き放ってくれると錯覚出来る、音楽や創作物でさえ、思い出に取り込まれ、繰り返しの悪夢の循環の輪のなかに組み込まれてしまいます。人生はそういうものなのでしょうか?
そこで重要になるのは若かりし頃に感じた幸福感です。幸福だった記憶から、虚しい日常に戻った時に感じた落差が重要になります。その落差が大きければ、より物事を俯瞰出来るメタ的な視座を獲得出来るチャンスがあるのではないでしょうか。自分の幸福だった体験にとらわれすぎず、相対化して考える為にも、落差は必要です、ある意味絶望を知るという事かもしれません。世の中はそうなっているなと、あの頃の思い出も良かったけれど、虚しさも半端じゃなかったな、結局、多くの人がそうであるように、一時期幸福だと錯覚していただけで、他のムーブメントと本質的な意味において何も変わらないんだと、人は絶望を知らなければ、本当の希望を感じる事は出来ません。絶望を見ないようにしていたのでは、希望は得られないのです。絶望と向き合って初めて、その手に掴めるかどうかは別にして、本当の意味での希望を感じる事が出来ます。ガン患者が、ガンである事から目をそらしても、病気は治りません、ガンであるという事に向き合って、初めて病気と闘う事が出来るのではないでしょうか、それでも生きながらえる事が出来るか否かはまた別の話になってしまいますが。向き合うか目をそらすか、結果が同じであれば無意味と思うか、思わないか。いい年した大人が、若い人を見てうらやましがる、男も女もそれが一番醜い、高校生や大学生のような、無知で金もない時代に憧れるのは、自分がいかに無駄に年を重ねているかの証拠です。
人の生きる意味など本当はありません、あると思わなきゃ苦しいからあると思ったり、あると言っている人がいるだけで、そんなものが本当にあれば迷う人などいませんし、自殺する人の事だって救えるはずです。意味がないのに意味があると言ってしまうから迷うのだろうと思うわけです。人が生まれ持って唯一平等に与えられた権利は死だけです。自殺が出来るのは人間だけですし、動物はしません、生き甲斐を探したり、迷ったり、そんな葛藤もおそらくないと思われます。生きる権利なんてもともと人間が勝手に作ったフィクションです。生まれた時は平等に無知でありますが、生まれた国、性別、家柄、両親の能力、環境によってすでに不平等が決まっています。しかしどんなに金持ちだろうが、偉かろうがいずれ死にます。有名だろうが、人の役に立とうが、そうじゃなかろうが、関係ありません。金があれば多少長生き出来るかもしれませんが、死なない人はいません。しかしたった一回の権利です。使ったらそれまで、二度目はありません、来世があるかどうかはわかりませんが、死んで生まれ変わった事があるという人が仮にいたとしても、科学的に証明する方法はありませんから、あるとも無いとも断定出来ません。仏教的価値観であればあるのでしょうし、一神教的価値観であればないのでしょう。キリスト教であれば永遠の生であり、イスラム教であれば緑園なのでしょう。
現実は解釈です。人それぞれ違った現実を見て生きています。だからあくまでも自分の主観の話ですのでご容赦下さい。単なるオヤジの戯言と思ってもらって結構です。
つまらないという状態の、反対の言葉は楽しいと一般的には言われています。人生を例えば川の流れに例えると、何の障害もなくスイスイ流れている様は、つまらない状態と言えるのではないでしょうか、逆に障害があり、流れを遮るものがある状態を、つまった状態、つまらなく無い状態というのであれば、苦痛や壁のある状態を楽しいと言える事になります。楽しいは楽をするとは違います。楽をするとはつまらない状態、楽しいというのはつまらなく無い状態、すなわち楽しむ為には苦痛や壁がなければ楽しめない、楽しむには体力も精神力もいるのです。退屈は楽かもしれませんが、楽しくはありません。苦痛や絶望は厄介ですが、それと向き合わなければ楽しみはやってきません。それと向き合ってもいないのに、つまらない、退屈だ、と言っても当たり前だと言うわけです。
最近、イジメの自殺が話題になっています。大人の自殺者も多いのですが、大人になってそうしたいと決めたのなら、非常識かもしれませんが、あまり興味はありません。自分でそうするしかないと思ったのならガキじゃないんだから、勝手にすればいいと思います。誤解の無いように言いますが、残された家族の方々のケアの問題はまた別の話です。理由はなんであれ家族を捨て、死ぬ事がベストだと、大人が決めたのであれば、他人がとやかく言っても始まりません、どんな理由があったとしてもです。
しかし子供は違います。大人の助けが必要なはずですし、何より死なない動機付けのリソースに乏しいだろうと思うからです。大人のくせにそのリソースのない方は、自分で選んだ道なのですから仕方がありません。死ぬなり、新興宗教に入るなり勝手にすればいいと思いますが、子供にリソースがないのは、周りにその事を教えてくれる大人がいないか、まだ学んでいる最中だから不足しているなど、死なない選択を学ぶ機会が足りないはずです。
孤独や苦痛に直接向き合うには、強い心が必要です。多くの人はそんな強い心なんて持ち合わせちゃいません。そんなものがあればハナっから苦痛や絶望と葛藤するまでもなく、突破して行くでしょう。強い心を持ち合わせていない、自分も含めた一般人は苦痛に向き合う為のリソースが必要となります。楽しむ為のアイテムです。それが自分の場合、音楽であったし、このスクリーマデリカであったと思います。それは人に迷惑をかけなければ何だっていいと思います。スポーツに打ち込むのも言いでしょうし、オタクでも、アニメでも、踊るのも、歌でも、バンドでも、映画でも、読書でも、もちろん勉強でも、人に多少迷惑がかかってしまうかもしれませんが、一時なら多少悪い事をしたって構わないと思います。ただ警察に掴まる可能性はありますが。しかしただ楽しむだけでは駄目です。本気で全力で楽しめる、没頭出来る、バカになれる、ヘロヘロになるまで、もうしばらくいいと思うまで、思いっきり楽しむ事が大切です。バカ扱いされようが、多少怒られようが、大人になってからそこまで楽しもうと思ってもなかなか出来ません。何もいいものがないのでしたら、とりあえず音楽を思いっきり大きな音で聴くのはおすすめです。もちろんヘッドホンはしましょう。
人生多くのものは無くなってからでないとなかなか気が付きません、気付く人は後悔しないで済む人です。偉そうな事を言っていますが自分も日々迷い、考え、多くの矛盾を抱えたまま生きています。自分の好きだったアルバムなんかを聴くと、一瞬、幸福だった瞬間を思い出しますが、そこに甘えているだけなのではとゾッとしたりします。その都度、ちゃんと相対化出来ているのか俺は、美化しすぎていねえか、なんて思ってしまいます。しかし若い頃にこういう音楽と巡り会う事が出来たおかげで、それがフックになって幸福になるとはどういう事なのか、という学びの機会が得られたのではないかと思います。 人生がつまらなくて、苦しくて、死んでしまおうなんて思っている方、プライマル・スクリームのヴォーカル、ボビー・キレスビーを見て下さい、ヤ○中のヘロヘロでヨレヨレのあぶないオヤジですが、ああこんなでもカッコいいんだと、きっと自分に自信が持てるはずです。

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ダンサブルで、高揚感に溢れ、恍惚感が沸き上がり、とてもシラフではいられなくなってしまいそうな、そんな体感、ちなみに自分お酒は飲めませんが、そういう気持ち、つまり気持ちいいという事です。
プライマル・スクリームの三枚目のアルバム、スクリーマデリカ、毎度コンセプトの変わる彼らですが、自分にとってはこのアルバムが彼らのベストだと言えます、他のアルバムももちろん素晴らしいのですが、人生に大きな影響を与えられた数少ない音楽の中の一つです。
ストーンズ風のMovin' on Up からぶっ飛ばされ、自分は最初聴いた時は、ジョージ・マイケルのフェイスを思い出してしまいましたが、カヴァーのSlip Inside This House からLoadedまで畳み掛けられます、どの曲も思い入れが深すぎて、甲乙つけられません、一気にトリップ出来ます。そして、Damagedで優しさにふと癒され、ラストのShine Like Stars、で静かに現実に着地した時は、世界が変わって見える勢いです。
人生においてこういうものがあるのとないのでは、幸福感を体感できる経験の度合いが随分と違ったものになるのではないかと思います。もちろん実際に何かを手にしたり、達成するわけではないので、シラフになった時の虚しさも味あわなければならないのですが。
しかしその落差を体感する事によって、幸福とは何なのだろうという事について次第に目が開かれて行くのではないかと思います。
日常に着地した時に、例えば、幻想に逃げていても、そこで得られる幸福は借り物にすぎないんだ、日常と向かい合う事によって得られるものこそ、実のある本当の幸福なんじゃないか、と気付いた気になり、良くも悪くも、本当の意味での大人となる。その後のムーブメントには以前のように心の底からのめり込む事が出来なくなり、俯瞰出来る目線を獲得し、一種の冷めた目線からその新しいものを眺め、自分の思い出と比べてしまう、体感したものと、俯瞰したものでは、比べようもないのは明らかなのに、そこに陥りがちです。自分が体感した思い出はこんなもんじゃないと、俯瞰したものより上におこうとしてしまう。それが所謂ジェネレーション・ギャップとなるのだろうと思います。やがて社会と向き合う生活の中で、傷ついたり、何かを手にし、それが幸福だと呼ばれるものであっても、何かが違うと思ってしまったり、幸福だった記憶もなければ、比べる基準もありませんから、違うかどうかもわかりませんし、迷う事もないはずですが、強烈な記憶があればあるほど、それを渇望し、現実の幸福感の物足りなさを感じてしまったりするわけです。あげく思い出に浸ってあの頃は良かったぜ的になりがちです。それは美化された思いでであり、自分が世界と向き合わず、希望を抱いていた時期の記憶に直結されるので、確かにあったはずの虚しさや、無力感も、若かりし頃の懐かしい記憶に塗り替えられます。最近あった、つまごいコンサートのようなものにあれだけ人が集まるのですから、そういう需要があるのは事実です。
しかし過去の美化された記憶は幻想です。若かりし頃、未来に希望を抱く事と、年老いて過去の希望にすがる事は、どちらも幻想だというレベルでは変わりません。将来の夢の多くがものにならない事と、過去の過ちが変更不可能だという事は、かなわないという次元で全く同じ事だというわけです。本当の幸福を見つめ大人になっていたと錯覚していただけで、実は若かりし頃と同じ事をしているだけだという事になります。幸福感と虚しさの往復運動、それをただ繰り返すだけ、人生の多くの事が繰り返しに満ちています。日々の食事、睡眠、仕事、セックス、日常生活、排泄行為、上下関係、経済、政治、国際問題、呼吸、心臓の鼓動、これでもかというくらい繰り返し繰り返し、個人は死ぬまで、世界は破滅を迎えるまで、繰り返しの悪夢は続きます。その呪縛から解き放ってくれると錯覚出来る、音楽や創作物でさえ、思い出に取り込まれ、繰り返しの悪夢の循環の輪のなかに組み込まれてしまいます。人生はそういうものなのでしょうか?
そこで重要になるのは若かりし頃に感じた幸福感です。幸福だった記憶から、虚しい日常に戻った時に感じた落差が重要になります。その落差が大きければ、より物事を俯瞰出来るメタ的な視座を獲得出来るチャンスがあるのではないでしょうか。自分の幸福だった体験にとらわれすぎず、相対化して考える為にも、落差は必要です、ある意味絶望を知るという事かもしれません。世の中はそうなっているなと、あの頃の思い出も良かったけれど、虚しさも半端じゃなかったな、結局、多くの人がそうであるように、一時期幸福だと錯覚していただけで、他のムーブメントと本質的な意味において何も変わらないんだと、人は絶望を知らなければ、本当の希望を感じる事は出来ません。絶望を見ないようにしていたのでは、希望は得られないのです。絶望と向き合って初めて、その手に掴めるかどうかは別にして、本当の意味での希望を感じる事が出来ます。ガン患者が、ガンである事から目をそらしても、病気は治りません、ガンであるという事に向き合って、初めて病気と闘う事が出来るのではないでしょうか、それでも生きながらえる事が出来るか否かはまた別の話になってしまいますが。向き合うか目をそらすか、結果が同じであれば無意味と思うか、思わないか。いい年した大人が、若い人を見てうらやましがる、男も女もそれが一番醜い、高校生や大学生のような、無知で金もない時代に憧れるのは、自分がいかに無駄に年を重ねているかの証拠です。
人の生きる意味など本当はありません、あると思わなきゃ苦しいからあると思ったり、あると言っている人がいるだけで、そんなものが本当にあれば迷う人などいませんし、自殺する人の事だって救えるはずです。意味がないのに意味があると言ってしまうから迷うのだろうと思うわけです。人が生まれ持って唯一平等に与えられた権利は死だけです。自殺が出来るのは人間だけですし、動物はしません、生き甲斐を探したり、迷ったり、そんな葛藤もおそらくないと思われます。生きる権利なんてもともと人間が勝手に作ったフィクションです。生まれた時は平等に無知でありますが、生まれた国、性別、家柄、両親の能力、環境によってすでに不平等が決まっています。しかしどんなに金持ちだろうが、偉かろうがいずれ死にます。有名だろうが、人の役に立とうが、そうじゃなかろうが、関係ありません。金があれば多少長生き出来るかもしれませんが、死なない人はいません。しかしたった一回の権利です。使ったらそれまで、二度目はありません、来世があるかどうかはわかりませんが、死んで生まれ変わった事があるという人が仮にいたとしても、科学的に証明する方法はありませんから、あるとも無いとも断定出来ません。仏教的価値観であればあるのでしょうし、一神教的価値観であればないのでしょう。キリスト教であれば永遠の生であり、イスラム教であれば緑園なのでしょう。
現実は解釈です。人それぞれ違った現実を見て生きています。だからあくまでも自分の主観の話ですのでご容赦下さい。単なるオヤジの戯言と思ってもらって結構です。
つまらないという状態の、反対の言葉は楽しいと一般的には言われています。人生を例えば川の流れに例えると、何の障害もなくスイスイ流れている様は、つまらない状態と言えるのではないでしょうか、逆に障害があり、流れを遮るものがある状態を、つまった状態、つまらなく無い状態というのであれば、苦痛や壁のある状態を楽しいと言える事になります。楽しいは楽をするとは違います。楽をするとはつまらない状態、楽しいというのはつまらなく無い状態、すなわち楽しむ為には苦痛や壁がなければ楽しめない、楽しむには体力も精神力もいるのです。退屈は楽かもしれませんが、楽しくはありません。苦痛や絶望は厄介ですが、それと向き合わなければ楽しみはやってきません。それと向き合ってもいないのに、つまらない、退屈だ、と言っても当たり前だと言うわけです。
最近、イジメの自殺が話題になっています。大人の自殺者も多いのですが、大人になってそうしたいと決めたのなら、非常識かもしれませんが、あまり興味はありません。自分でそうするしかないと思ったのならガキじゃないんだから、勝手にすればいいと思います。誤解の無いように言いますが、残された家族の方々のケアの問題はまた別の話です。理由はなんであれ家族を捨て、死ぬ事がベストだと、大人が決めたのであれば、他人がとやかく言っても始まりません、どんな理由があったとしてもです。
しかし子供は違います。大人の助けが必要なはずですし、何より死なない動機付けのリソースに乏しいだろうと思うからです。大人のくせにそのリソースのない方は、自分で選んだ道なのですから仕方がありません。死ぬなり、新興宗教に入るなり勝手にすればいいと思いますが、子供にリソースがないのは、周りにその事を教えてくれる大人がいないか、まだ学んでいる最中だから不足しているなど、死なない選択を学ぶ機会が足りないはずです。
孤独や苦痛に直接向き合うには、強い心が必要です。多くの人はそんな強い心なんて持ち合わせちゃいません。そんなものがあればハナっから苦痛や絶望と葛藤するまでもなく、突破して行くでしょう。強い心を持ち合わせていない、自分も含めた一般人は苦痛に向き合う為のリソースが必要となります。楽しむ為のアイテムです。それが自分の場合、音楽であったし、このスクリーマデリカであったと思います。それは人に迷惑をかけなければ何だっていいと思います。スポーツに打ち込むのも言いでしょうし、オタクでも、アニメでも、踊るのも、歌でも、バンドでも、映画でも、読書でも、もちろん勉強でも、人に多少迷惑がかかってしまうかもしれませんが、一時なら多少悪い事をしたって構わないと思います。ただ警察に掴まる可能性はありますが。しかしただ楽しむだけでは駄目です。本気で全力で楽しめる、没頭出来る、バカになれる、ヘロヘロになるまで、もうしばらくいいと思うまで、思いっきり楽しむ事が大切です。バカ扱いされようが、多少怒られようが、大人になってからそこまで楽しもうと思ってもなかなか出来ません。何もいいものがないのでしたら、とりあえず音楽を思いっきり大きな音で聴くのはおすすめです。もちろんヘッドホンはしましょう。
人生多くのものは無くなってからでないとなかなか気が付きません、気付く人は後悔しないで済む人です。偉そうな事を言っていますが自分も日々迷い、考え、多くの矛盾を抱えたまま生きています。自分の好きだったアルバムなんかを聴くと、一瞬、幸福だった瞬間を思い出しますが、そこに甘えているだけなのではとゾッとしたりします。その都度、ちゃんと相対化出来ているのか俺は、美化しすぎていねえか、なんて思ってしまいます。しかし若い頃にこういう音楽と巡り会う事が出来たおかげで、それがフックになって幸福になるとはどういう事なのか、という学びの機会が得られたのではないかと思います。 人生がつまらなくて、苦しくて、死んでしまおうなんて思っている方、プライマル・スクリームのヴォーカル、ボビー・キレスビーを見て下さい、ヤ○中のヘロヘロでヨレヨレのあぶないオヤジですが、ああこんなでもカッコいいんだと、きっと自分に自信が持てるはずです。