日本経済を学ぶ/岩田 規久男

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「小さな政府」を問いなおす/岩田 規久男

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ミルトン・フリードマン氏がお亡くなりになりました。小泉改革の弊害が叫ばれ、ホリエモン、村上ファンド、福井総裁の顛末、復党問題や、アメリカの中間選挙を受け、ネオコンの不人気、格差社会などなど。
新自由主義的な政策の負の部分の問題が顕在化してきていると言われている中で、最近、岩田規久男さんの本を続けて読んでいた事もあり、非常に象徴的な出来事だと勝手に感じました。
読後の感想、自分が思っていた、新自由主義と呼ばれるものは、まあおおむね正しく認識していたんだな、という事がわかりました。
何となくネオコン的な匂いや、小泉さんの批判に散々言われる、国粋的な匂い、優勝劣敗的な匂いが、新自由主義がもたらす悪しき側面のように言われていますが、新自由主義というものがどういうものなのか、小さな政府がどういうものなのか、イギリスや、スウェーデンなどの例を取りながら、素人の自分にもわかりやすく書いてあります。
新自由主義的な観点から、小泉さんの政策もバッサリ切っています。新自由主義的な政策が悪かったのではなく、足りなかったと。
経済の事はなかなか難しいなと、政策を実行する事も、個人的に理解する事も、二つの意味で日頃から思っていたので、良い学びの材料となりました。
どうすれば最善の政策なのかというのは非常に素人には難しい問題です。しかしながらこれほど実生活に密接な話もなく、政策を誤ればこれほど迷惑な話はないにも関わらず、難しくてよくわからない、そういうジレンマを常日頃から感じています。
皆さん責任のある方々も含めて、誰も責任を取らないし、責任の取りようもないのでしょうが、原因はこれだ、あれだ、と列挙する事は出来ますが、特定するのは不可能な事なので厄介です。
もっとも政府は不景気になれば不人気になったり、選挙で落とされたりしますので、責任を負わされる事はあるのでしょうが、国民が苦しんでいる事の根本的な解決には何もなりません。仮に優秀な政治家達が選挙で選ばれて、正しい政策を実行したとしても、簡単に結果が出るものではないと思われますし、政治家を選ぶ基準も、国民が選ぶ以上限界があります。
官僚の方々ともなれば、責任を取るという概念もありそうに見えませんし、公僕だなんてこれっぽっちも思ってなさそうです。そもそも国民を本当に幸福にしようとは考えていないのではないんじゃないかと思ってしまったりします。旧ソ連のノーメンクラツーラのように。旧大蔵省時代の数々の失態を思えば、彼らを信用しろと言っても無理というものでしょう。
専門家の方々がそう考えると一番切実かもしれません、責任はありませんが自分の収入に直接響きます。しかし一部の方以外は、どんなに正しい事をおっしゃっていたとしても、政策決定に直接関与する事は出来ませんので、これまた厄介です。しかしテレビなどに出てくる方々を見ていると、人気があるのと、優秀である事は必ずしも一致していないようにも見えます。御自分の優秀さを世に知らしめるため、例えば竹中さんのような方をくそみそに言う方の意見を聞いていますと、なるほどと思う部分もありますが、半ば私怨、恨み節がこもっているような方も見受けられます。
もうここまで書いた時点で政府や官僚より、個人のインセンティブの方がポジティブに反応するという事の答えは出ていますが、この国の例えば新自由主義的な小さな政府路線も、ケインジアン的なリベラルも、それぞれを旗頭にして、権益の争奪戦になっているのが、問題なのだというのが一般的な見方だと思います。それぞれ感情的振る舞いをされる方々を旨く取り込むために、一方は民営化、改革、もう一方は弱者救済、悪しき市場原理主義、といったキーワードを巧みに使い、それを隠れ蓑にして、私益を得る方々が隠れている、そこが問題なのだ、というのが現状なのだろうと思われます。リフレ派やマネタリストの方々の言う、金融政策を行う能力がそもそも日銀や政府にあるのか、高橋是清はいるのか、身も蓋もありませんが、責任を取るとしたって、失敗した後では何をしても手遅れです。もちろん責任を取らなくていいという意味ではありません。そういう問題を多くの人が感じているのではないかと思います。
日本が導入している欧米的な市場経済というのは契約のゲームです。そこから生まれた経済学というのも、その前提があっての事です。人々を感情のゲームから、契約のゲームに引き上げるためには、予定説の神を必要とします。
この国は明治維新の際、忠臣蔵的パラドックスを排除するために、武士を藩から、村人達を村落共同体から引きはがし、天皇陛下の臣民というフィクションを用いて近代化を遂げました。しかし人々を契約のゲームに引き上げる事が出来たかと言えば、相当歪な形になってしまいました。天皇をトップとする大きな家、おおやけ、という概念がパブリックと違うのはこのせいです。天皇陛下が人間宣言した時からただでさえ根付いていなかった契約のゲームの亜種である、天皇をトップとする大きな家は崩壊します。右肩上がりで経済が発展している時は良かったのかもしれませんが、バブルが崩壊してそもそも原理原則のない国だという事に気付きます。契約のゲームなどもとからないので、会社のために法律を破る、省益のために国益を捨てる、族議員が利権のために活動をする、そういう忠臣蔵的パラドックスに陥るのは当然の帰結なわけです。契約のゲームがない状態ではどんなまともな経済学も通用しません。
日本的な恥という概念が、最近無くなってきたと嘆いている方々がいます。しかし例えば身内の恥は一族の恥、藩士の恥は御家の恥、個人の責任を共同体がアブソーブしてしまいます。部下の恥は、所属する部署の恥あり、上司の恥であり、社長の恥であり、会社全体の恥である。社長の責任は、会社全体の責任である。日本人に責任を取る概念がないのもこのためです。
ゼロ金利政策を嫌々実行した後、解除して失敗した、当時の日銀総裁ではありませんが、よくこんな状況に陥ります。「駄目だってわかっているのになんでこんな事したんだ」「いや私は反対だったんですけれど、周りがね、やらないわけにはいかないって雰囲気でしたし、そういう空気だったんで」他の人に話を聞いてもみんな同じことを言う、山本七平さんじゃありませんが、責任をぼやかす為に、話し合った結果、場の空気に支配され、最も良くない方向に話が行ってしまう、何のために話し合い、何を成そうとしているのかが、誰も責任を取りたくないあまり、そもそものプライオリティーより自己保身に走ってしまう、いかに責任をのがれるか。前大戦の責任者達も、なぜアメリカなんかと戦ったのかと聞かれ、同じように答えていたそうです。これも恥という概念が生み出すものです。みんなで決めた事だから責任はみんなで取ろう、そして記者会見でずらっと並んで謝罪、よくあります。
日本の企業はこの悪しき風潮が、段々薄まってきている気がしますが、政治家や官僚はどうかと言えば疑問に思ってしまいます。
これが日本の問題点なんじゃないかと思います。どんなに正論を吐き、学術的根拠を持っていても、責任を取れない人間に政策は任せられません。本当に国のためにと言ったって、万人が幸せになる政策は打てません、そうであれば出来うるかぎり、レッセフェールにしておく事が、一番混乱がないのかもしれません。しかしそれにもやはり契約のゲームは必要となってしまいます。明確な線を引き、グレイゾーンという表現の無いように出来るだけクリーンでフェアなルールを作る、それに違反しなければ放っておく、情緒論の入る隙間のないくらい、厳格で、論理的で、倫理的なルール、はたしてそんなものが作れたとして、この国の司法制度の、デュープロセス・オブ・ローが機能しているのかは疑問が残りますが。
だるま宰相と親しまれ、日本のケインズなんて呼ばれる事になる、高橋是清は絵師の息子で仙台の足軽に養子になり、奴隷になるような契約で留学させてもらったりしています。帰国後、東大で語学を教えていたが、芸者に入れ込んで学校を辞めてしまう。芸者の三味線担ぎなどをやったりした後で、森有礼に薦められて文部省に入省し、農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが失敗、再び帰国して、当時の日銀総裁、川田小一郎の招きで日本銀行に入り、そこで腕を振るい始めます。彼がたどった道を見ても出世コースの跡は見えません。彼が優れていたのは出世コースをたどったからではなく、経験と能力が彼の有能さを形作っているのです。
最低限責任、例えば辞任するとか位はしてもらわなければならないとは思いますが、失敗はつきものですので、場合によっては許される事もあるべきだと思います。完璧な政策など出来るわけはないでしょうし。
優秀な専門家は民間にたくさんいます。そういう方々にどんどん政治にコミットして頂き、その意見を素直に検討し、まあ、官僚の検討するは何もしないという事と同じだと、岩田さんもおっしゃっていますが、下らない縄張り根性を捨てて、日本の舵取りをしてもらいたいものです。