足りないのはリーダー補佐の教育 - リーダーの流動性を高めるということ | 木下英範のブログ
2013-05-07

足りないのはリーダー補佐の教育 - リーダーの流動性を高めるということ

テーマ:哲学・思想

これからグローバル競争がますます激しくなるのでリーダーを育成しろという。個人がスキルアップしなければ生き残れない時代になるという。しかしスキルとは相対的なものなので、全体がスキルアップしても結局は差はなくならない。あぶれる人が出ることには変わらない。

そのやり方で解決するのであれば全員のスキルを同レベルにするしかない。しかしそんなことは不可能だし、できたとしても向上心のない世界になってしまう。確かに国同士の戦いというのであれば、国全体のスキルをアップすれば他国に勝つことはできるだろう。しかしグローバル化とは国同士の戦いではなく、国を超えて国境に関係なく世界の人が同じ土俵に上がることを意味する。それならば国単位でのスキルのレベルを上げてもあまり関係がない。結局は世界の競争の中で格差はなくならない。

また全員をリーダーにすることはできない。リーダーというのもまた相対的な存在であり、補佐して付いてくるフォロワーがいるからリーダーなのだ。リーダーは多くの普通の人がいてくれるから初めてリーダーになれる。全員がリーダーになったらそれはただ、「各人がスタンドプレイでバラバラな方向を向く」ということでしかない。

そもそもリーダーを育成することはできるのか。リーダーとは本質的に自然に出てくるものだと思う。教育で作れるものではない。リーダーの本質は情熱だ。100人いたら1人くらいはやる気のある人がいるものだ。そして情熱は伝播する。情熱を伝播させることがリーダーの一番の役割なのだ。情熱はある日突然やってくるものである。それまでやる気がなかったのに急にやる気が出ることもある。

またそれぞれの得意分野も違う。すべての分野に秀でている人はいない。ある分野では引っ張り役なのだが、違う分野では引っ張られ役になるものだ。つまり時間軸と分野軸によって、ある時ある場所に突然リーダーが現れ、そして消えていくということの繰り返し。しがらみや年功序列のない社会ではリーダーというのはこういう風に現れるものだと思う。

問題はリーダーの足を引っ張る人がいるということだ。日本にはリーダー的な人が少ないとは思う、しかし情熱がないとは思わない。湧いてきた情熱を我慢してしまう、周りが足を引っ張ってしまう、だからリーダーが少ないのである。日本にジョブズのような人がいないと嘆くのであれば、それはジョブズがすごいのではない、ジョブズの存在を受け入れる風土がすごいのだ。そういう風土が作れれば自然とリーダーは現れてくるものである。

今は年功序列的にリーダーになる分にはある程度許されて足を引っ張る人は少なくなる。だから年功序列的に、リーダーになりたいなりたくないにかかわらず、仕方なくリーダーになっている人が多い。そしていったん地位が確定すれば、得意分野、不得意分野にかかわらず全方位において牽引役であり続ける。役職を固定するのは馬鹿なやり方だ。全方位において優秀な人はいないので、不能扱いされて愚痴を言われるが、リーダーから降りることはできない。不幸なことである。

誰もがリーダーにならなくてはならないという教育。スキルアップしないと置いて行かれるという教育。リーダーの流動性がない中で、そういう教育をすることは競争を強いることになる。競争は悪いことではないが、つぶし合う競争は無益である。リーダーは大勢の中の少数であって初めてリーダーなのだから、他の人がリーダーになると自分がリーダーになる確率は下がる。だから自然と足を引っ張る方向に向いてしまう。

本当に教育でやらなければならないのはリーダーの育成ではなく、リーダー補佐の教育だ。少数のリーダー教育より、大多数のフォロワーの教育のほうが効率が高い。教育とは大多数に施すから意味があるのだ。リーダーはある日突然現れること、自分もある日突然リーダーになりうることを教え、もしリーダーが現れたら、励まして、褒めて、おだてて、木に登らせること(嘘でも褒められたらうれしいものだ)。そういったスキルこそ大事なのである。人を励まして何かをやり遂げてもらうことは結構楽しいことだ。

これは戦後の日本の教育のように画一的な企業戦士を育成する教育をしろと言っているのではない。ただ言われたことだけを正確にこなす人間は教育で作れる。しかし人間の性質上、それはうっぷんを我慢して従っているに過ぎない。表面上は我慢しているが内部では多大なストレスがたまっているだろう。その逆で、リーダーとしての振る舞いと、リーダー補佐としての振る舞い両方を同時に教えるということだ。状況に応じてリーダーになったり、裏方に回って補佐役になったりできるような臨機応変な人材こそが望ましい。

リーダーは勝手に現れる。そしてそれをつぶすも育てるも周り次第だ。そのときに人をねたまず、うらやまず、リーダーを手伝って目的を達成することができるか。それができるならば、自分の情熱が沸騰してリーダーになったときに手伝ってもらえる確率が高くなる。周りが温かい目で見てくれるならば、情熱を我慢せずに思いっきり発露することの躊躇がなくなる。

リーダーをねたんでしまう人もいる。リーダーは他に抜きん出てたくさん働いて世の中をよくしてくれるので、まったくねたむ必要も恨む必要もないのだが、そう思えない人もいるだろう。人の成功をねたんでしまうのは、自分の自由が奪われると思うからだ。その人が自分のコントロールの及ばぬところへ行き、自分の思い通りにならなくなる。そしていつか自分がコントロールされてしまう。そう思うから成功者を忌み嫌うのだろう。だがそのうちにリーダーが回ってきていつか自分も主導権を握ると思えば、そういうねたみも少なるなるのではないか。

イノベーションを起こすにはリーダーの強い情熱が必要である。しかし今や世界のどこでイノベーションが起きてもそれを時を置かずして享受できる時代になったのだから、出る杭を羨む必要はなく、応援して手伝うことが自分にとっても最も利益の高いことである。

生き残れるようにスキルアップしても、誰もががんばれば差はなくならない。全体としての解決にはなっていない。しかしスキル格差というのはよく見れば得意分野が違うというだけのことが多い。誰しも得意なものは持っているもので、それが発揮できていないのは配置の問題だ。地位の細分化と流動性を高めれば誰もが最適配置につきやすくなる。

リーダーの数を多くするということは組織の粒度を小さくすることに他ならない。これは価値観が多様化するこれからの時代には正しい。しかしリーダーの数に比べてそれ以外の人が圧倒的多数でなければ成り立たないことにも注意せねばならない。だからリーダーになるということより、リーダーを支えるということのほうが圧倒的に大事なのだ。しかし支えてばかりではいやになるし、地位を固定化するのはよくない。

リーダーはプロジェクト単位でどんどん交代するのが望ましい。時と場合によって自分がリーダーになるし、他の人がリーダーになる。リーダーの流動性を高めること。そういう意味では全員がリーダーであり、補佐役である。そういう雰囲気が醸成されればもっと楽しく住みやすい世の中になるだろう。