動物を殺して食べるのは善か悪か - 全体を考えるということ
子供の素朴な疑問にどう答える?
たとえば子供が道ばたで犬をいじめていたらあなたは注意するだろう。しかしなぜいじめてはだめなのかをちゃんと説明するのは少々難しい。
「なんで犬をいじめちゃだめなの?」
「そりゃかわいそうだから」
「だってみんな肉を食べるでしょ?豚や牛をたくさん殺して、それで平気なの?それとこれとどう違うの?」
「食べるならばいいんだよ」
「でも人間を殺して、さらに食べることはもっと罪が重いっていうよ?だから肉を食べる方が罪が重いんじゃないの?」
「・・・」
あなたならばどう答えるだろうか。
今ならば私は苦しいながらもこう答えるかも知れない。
「結局、人間は人間のためにしか生きられないんだ。生物は種の保存という欲からは逃れられない。肉はおいしいというのは否定しようのない事実だ。焼き肉を食べることによってみんな元気になる。笑顔になる。それでいい。例え他の生物を犠牲にしたとしても。
そして、豚や牛を殺すところをあまりおおっぴらに見せてはいけない。それは悲しくなるからだ。犬を必要もなく殺してはいけない。より人間に近い動物、より身近な動物ほど感情移入しやすいため、いたたまれなさを感じる。心が荒廃してやがて犯罪や殺人にいたるかもしれない。それは『人間にとって』よくないからだ。
環境を破壊してはいけない。それは地球や生物のためではない。地球環境が破壊されて動物が死滅することが『人間にとって』よくないからだ」
良くも悪くも我々は利己的にしか生きられない。生物である以上この業からは逃れられない。その究極は「種の保存」という生物定義からくる欲求だ。この欲求を捨て去ることは生物としての死を意味する。すなわち「種の保存」という欲求のない生物はこの世では存在できない。それが生命と物質を分けている。
環境問題も、動物愛護の問題も、政治も、「人間という種を守るため」という大前提が一番根本にはある。その観点から見るならば動物を殺して食べることはいいことだ。ただし動物を殺すことの悲しみを最小限に抑える必要がある。また、人々の価値観が変化し、動物を殺すことに罪悪感を感じる人が多くなれば、食用であっても動物を殺すことは悪となる。
全体の範囲をどこに設定するかによって答えが違ってくる
ここでは問題の観点を、個々の事情から、人類という全体の利害に広げることによって答えを導いた。結局、トータルでプラスなのかマイナスなのか、なのであるが、意見が対立した場合、「全体」の範囲をどこに設定しているかを見直す必要がある。
イルカやクジラを殺すことは良くないという意見がある。それはそれらを殺すことを許容できないグループを全体として見るならば「悪」となる。なぜならそのグループに対してはイルカやクジラを殺すことによる心の痛みが、殺すことにより得られる利益を上回るからだ。全体としてマイナスだからだ。
しかし、イルカやクジラの肉を食べることを喜びとしているグループからすればそれは「善」となる。このグループも殺すことの痛みは少なからずあるだろうが、全体として「殺すことの害<利益」という価値観だからだ。しかし殺しすぎてしまっては利益を得られなくなるのでマイナスとなる。
世界全体で考えた場合、肉を食べることに喜びを見いだす人々が多いと思われるため、動物を殺すことは必要悪であると見なすことができる。全体の利益のために許容すべき「悪」があるのだ。
組織運営に当てはめると?
これは組織運営でも使えるコツである。たとえば部下の遅刻を許すか叱るか。もちろん遅刻はよくないことであり、遅刻をしないで頑張っている人がいる以上、ある程度叱ることは必要である。
では組織全体から見た場合はどうだろうか?少しの遅刻でピリピリしていたのでは組織全体が硬直してしまう。失敗を恐れた社員から新しいアイデアが生まれてくることはないだろう。組織全体を考えればある程度は許容したほうがいいのだ。あとは自分が責任を持つ範囲がどこにあるかである。
課に責任を持つ場合は、課全体がプラスになるようにある程度細かく指示した方がいいだろう。部に責任を持つ場合は部全体の雰囲気がプラスになるにはどうするかを考える。課レベルの失敗を叱ってはいけない。社長ならば会社全体ではどうかを考えなければならない。
全体の成功のためには許容すべき失敗(必要悪)が存在するのだ。どこまで許容するのかの判断は一概には言えないが、「全体にとってどうなのか?」を考えることで限りなく正解に近づけるはずである。