人はなぜ怠惰なのか
世の中、一般的には勤勉が賞賛される。子供のころから勤勉たれと教育される。そして、まじめで勤勉であるほうが、不まじめで怠け者であるよりも社会における成功確率が高い。
しかし、誰しもそうであるが、人間は基本的に怠け者である。厳しく自分を律していなければ勤勉さは保てない。そもそも人間がもとから勤勉性を持ち得ているのであれば、勤勉たれという教育は不要である。
ではなぜ人間のデフォルト設定は怠惰なのだろうか?勤勉であるほうが成功するのに、なぜ怠惰は淘汰されないのであろうか?
結論から言うと、それはハードウェア(身体)とソフトウェア(文化)のずれである。
むろん人間は完全に怠惰ではない。何もしないでずっと家でゴロゴロしていると、それはそれで耐えがたい。やはり一定量仕事をすることも好きなのである。たとえ単純作業であっても短時間ならば楽しいものである。億劫だと感じる労働量にはある一定の規定値(快適労働量とでも言おうか)というものが存在する。労働がこの規定ラインを超えてしまうとその労働が億劫に感じる。しかしその快適労働ラインは現在の仕事量よりもずっと下だという気がする。一日8時間はちょっと多い。心地よく仕事ができる時間は一日3時間くらいだろうか。なぜこう感じるのだろう?
人間はどのくらい働いたら生きていけるか。生存維持労働時間はどのくらいなのだろうか。単純化すると人間は衣・食・住(防寒・エネルギー・安全)があれば生きていける。衣食住は人間の最低固定費だといえる。だからこの固定費を賄えるだけの労働、すなわち労働から得られる価値における損益分岐点(売上=固定費)たりえる労働量が生存維持労働時間である。
人間のデフォルト設定が怠惰だということは人間のハードウェア(遺伝子)にビルトインされたものである。過度に勤勉であっても子孫を残せない、ある程度働いたらあとはじっとしているほうが生存率が高かった理由が存在するはずである。この問題を解くには人類の進化と文化の歴史を考える必要がある。
まず、現在の人類であるホモ・サピエンスが誕生したのは二十万年前であるが、そのころから脳の体積は変化していないということだ。次に、ホモ・サピエンスの歴史の中で狩猟採集時代が圧倒的に長い。非常に大雑把に俯瞰してみれば人類は進化的にはまだ石器時代にいるのだともいえる。
食糧や財を蓄えることのできなかった狩猟採集時代には、衣食住の最低固定費さえ賄えればそれ以上の労働は無用である。狩猟採集時代、人類にとって世界は危険に満ちていた。必要な狩りや山菜取り以外の行動はなるべう避けたほうが生存率が高い。つまり子孫を多く残せる。必要以上の獲物を狩ったところで食べきれないし、外敵に襲われて死ぬ確率が高くなるだけである。この時代、勤勉というのはほめられたものではなかった。望まれたのは危険を避け、てっとり早く食料を入手するスキルだったのだ。
危険を避け、てっとり早く食料を入手するスキルとは、「獲物を狩るときだけ瞬発力を発揮し、それ以外は洞窟でじっとしている」というものだ。狩猟採集時代には、この生存ラインを維持する労働量が最も効率が高い。すなわちこれが人類の「快適労働ライン」なのである。
農業革命以降は富の蓄えが可能となったので努力が報われる時代となった。農業革命以降、過剰生産、財の貯蓄というものができるようになって努力を重ね、コツコツと富を蓄えた者はよりよい生活ができるようになった。そして貨幣の発明によってそれはより顕著になる。努力、勤勉の上限がなくなり、頑張れば頑張るほど豊かになる。どこまでも頑張れるようになったのだ。しかし人間のハードウェア的には、最適労働量、怠惰ラインは先述の生存ライン上にとどまるから、はるか下になる。
・狩猟採集時代 → 多能工
1つのことをずっとやるということがない。むしろ、早く次の場所に移動しなくてはならない。
・農業時代以降 → 専業化
1つことをコツコツずっと続ける作業が発生。「努力」が賞賛されるようになる。
<反論>
ここでちょっとした反論があろう。家でじっとしていても危険がないのならば道具を作ったり、知識の共有をすればよいではないか。家(ほら穴)にいるのだから、怠けていても仕事をしていてもリスクは同じ。ならば仕事をしたほうが生存率が高いのでは?
<反論の反論>
狩りの時代は瞬発力が要求される。一瞬のタイミングを逃すと獲物は逃げてしまう。そのタイミングに備えて常に体力をMAXにしておく必要がある。したがって狩りの時以外はゆっくり休んでいたほうが効率がいい。
要するに、人類の肉体・精神における生物的進化よりも、圧倒的に早く文化が進化した。カンブリア紀が生物的進化の爆発期だというならば、現代は文化的進化の爆発期である。勉強や仕事を億劫に感じるというのはその代償ともいうべきものなのだ。現在の文化から人間というものを見れば怠惰に感じるのだ。
便利になった現代の世の中では、その便利さを維持するために毎日たくさんのものを製造、維持管理しなければならない。そのためにたくさんの労働が必要なのだ。だからといって文化を逆戻りして昔の生活に戻ることはできないし、発展拡大をその存在定義とする「生物」の一種である人類には不可能だ。
では(生物的進化が追い付くまで)我慢しながら生きていかなければならないのだろうか。
おそらく、もっと技術が進歩して生産性が上がり、ほとんどのものを自動で生産できるようになれば、この「業」から解放される時が来るのかもしれない。しかしそれはいつくるか、本当に来るのかわからない。それでは今できることはなにか。
勉強や仕事を億劫でなくする方法が2つある。1つは肉体的、精神的な鍛錬だ。もう一つは、「自分が楽しいと思うことをする」、そしてそれを「楽しくする努力をする」ということである。