おカネの歴史⑨ - 江戸中期~幕末
包金銀
大量の小判や丁銀を扱う場合、一定数を紙に包んで受け渡しする「包み金」「包み銀」が用いられました。金銀貨の鋳造者は完成品を紙に包んで幕府に上納します。幕府はその封を解かずに報奨金や公共事業の支払いなどで市中に流したため、紙に包まれたまま流通したのが始まりだといわれています。当時、金貨を鋳造していたのは後藤家、銀貨を鋳造していたのは大黒屋(湯浅作兵衛常是)です。いずれも代々貨幣の鋳造を受け持つ名家です。包金銀はこれらの鋳造者の名前をとって通称「後藤包」、「常是(じょうぜ)包」と呼ばれました。
いったん包んだ貨幣は事故や摩耗で破れるまで基本的に中身を開けることはなかったようです。後藤家、大黒屋は代々貨幣を鋳造し高い信用力を得ていたのと、貨幣が紙で包まれていれば贋金(にせがね)が混入することなく、真贋鑑定の手間を省くことができ、また銀の秤量の手間を省くことができたため、大変便利だったのです。のちに両替商も施封を行うようになり、こちらは「両替屋包」といわれました。
五十両包み 銀五百匁包み
銀貨の計数貨幣化
幕府は金貨に統一したいにもかかわらず、銀貨の鋳造も行っていました。金貨は計数貨幣でありコントロールが容易です。一方、銀貨は秤量貨幣であり、額面はなく重さで価値が測られるため幕府にしてみれば厄介な代物でした。しかし大阪では外国貿易をルーツとして素材価値で取引できる銀貨を使うことが慣例化していました。当時、大阪商人の力は強大であったため幕府も容認せざるを得ませんでした。
18世紀になり経済の中心が関東圏に移ってくると、幕府は一計を講じて「明和五匁銀」(1765年)を鋳造しました。これは表面に「銀五匁」と銘が打たれた銀貨で、文字通り五匁の重さを持っていました。銀貨の計数貨幣化を狙ったものであり、計数貨幣と秤量貨幣の性質を併せ持つことから「定量貨幣」と分類されています。ところが、
『これは当時の通用銀(元文丁銀)と同品位(46%)の定量銀貨で、公定相場(金1両=銀60匁)により12枚で金1両と交換できた。しかし、定量銀貨の発行は、金銀相場の変動から得られる利益や秤量手数料の獲得機会の喪失を意味したことから、両替商からの協力を十分えられず、その結果、明和五匁銀の流通は芳しくなく、2年後には回収された。』(貨幣博物館)
というように、両替商の反対にあい、流通に失敗しています。
その後、幕府は再度チャレンジし、「明和南鐐(なんりょう)二朱銀」(1772年)を発行しました。銀貨であるにもかかわらず「朱」という金貨の単位がつけられます。表面には「8枚で小判1両と交換できる」の文字が刻まれました。最高品質の銀を意味する「南鐐」が冠せられているだけあり、品位は98%とほぼ純銀レベル。両替商に対しては無利子・無担保で貸し出して協力を仰ぎました。これはうまくいき、次第に丁銀を駆逐、1830年代以降になると、発行銀貨の約9割を計数銀貨が占めるようになったのです。金と等価での交換を保障したことから、日本初の金本位制貨幣といわれています。
明和五匁銀 明和南鐐二朱銀
幕末の金貨流出
さて、日本では幕府の政策により銀の計数貨幣化が進んでいきました。この過程でその代償ともいうべき現象が起こっていきます。それはどういうことでしょうか。計数貨幣は素材価値ではなく額面で評価される貨幣です。計数貨幣の鋳造者(幕府)には常に鋳造差益を得るという誘惑 --額面はそのまま、質・量を落として安く生産し差額を儲ける-- が存在します。幕府も銀貨の銀量を次第に下げていきました。もっともこれが最初から狙いだったのかもしれませんが。
一方で、二朱銀は二朱金と等価で交換するというように交換レートが固定されています。つまり、実質価値では次第に銀高が進んでいったということです。日本では素材価値のあまりない銀でも価値のある金と交換できます。国際金銀比価との差は3倍に開いていました。そしてそこにペリーがやってきて日本は開国を余儀なくされます。すると外国から銀を持ち込み、日本のレートで金に交換するという者が押し寄せます。具体的にはこうです。
洋銀(メキシコ・ドル)1枚 → 一分銀3枚 → 小判3/4両 → 小判を母国に持ち帰る → 小判(金)をドル(銀)3枚に交換
このようにノーリスクで1ドルが3ドルに化けてしまいます。これによって日本の金貨は急速に海外に流出していきました。
もっとも幕府は開国前にこのことに気づき、交渉を重ねていました。「日本の銀貨は金と等価交換ができるので金と同じ価値をもつ。よってメキシコドル1枚=一分銀1枚で交換されるべきである」と。しかし当時から日本の外交は弱腰であったのでしょう。銀の素材価値の等価性で交換するという論理に押し切られてしまいました。
次に、品位をあげ額面価値を半分に落とした安政二朱銀を新鋳、ドルとの交換に対抗しようとします。しかし諸外国の強い反発にあい、これも断念。その後、万延元年(1860年)には1両当たりの金量3分の1のとても小さな万延小判への移行を断行。この結果、国内の金銀比価はほぼ海外なみとなり、やっと金の流出に歯止めがかかったということです。
メキシコ・ドル 天保一分銀 天保小判
【参考文献】
日本銀行貨幣博物館
コインの散歩道(しらかわ ただひこ)