おカネの歴史⑦ - 江戸時代の三貨制度 | 木下英範のブログ

おカネの歴史⑦ - 江戸時代の三貨制度

天下を統一した徳川家康は、江戸幕府を開くと直ちに貨幣の策定に取り掛かりました。慶長貨幣と呼ばれるものです。政府による全国共通貨幣の鋳造は、朝廷貨幣の衰退から650年ぶりのことでした。


慶長貨幣は3種類の幣種で構成されていました。すなわち金貨、銀貨、銭貨の3種類で、このことから江戸時代の貨幣制度は「三貨(さんか)制度」と呼ばれています。


まず金貨は計数貨幣であり単位は「両」です。金貨は小判と大判に分けられます。小判は1両、大判は10両です。さらに小判よも小さい一分金があり、これは1/4両です。さらに小さい一朱金というのがあり、これは1/4分です。すなわち金は4進法で数えます。


大判は普段市中に出回ることはなく、恩賞としてお上から授かったり、儀式で用いられたようです。10両とあるのは名目上の額面で、実際には大判1枚=7.5両前後で取引されたとのこと。


次に、銀貨は秤量貨幣であり単位は「匁(もんめ)」です。丁銀と呼ばれるナマコ状の延べ棒と、豆板銀と呼ばれる豆粒状のものが作られました。銀は取引額に応じてその場で切って重さを量って使われました。これを「銀の切り遣い」と言います。


銭貨としては「寛永通宝」が発行されました。単位は「文」です。一枚=1文であり、大量に使うときは中央の穴にひもを通して束ね、1000文で1貫文と言いました。


注目すべきは3種類の貨幣において「単位」も違うということです。これは今ではほとんど考えられません。しかし、なぜこのような3種類の通貨単位が混在する複雑な体制になったのでしょうか。それは戦国時代の動乱の名残りだと言えるのではないでしょうか。長い間貨幣の統一制度がないなかで、各地で様々な独自の制度が発展していました。それをまとめるには天下を統一した家康といえども容易なことではなかったはずです。金貨は武田氏が考案した「甲州金」の制度を引き継ぎ、銀貨は大阪商人が外国と取引に使っているため、廃止するわけにはいきません。また銅貨は庶民が愛用していた永楽通宝をそのまま引き継いだ形です。


江戸幕府としては金貨に統一したかったでしょう。金貨は計数貨幣であり、中央が容易にコントロールができるからです。しかし、国民に受け入れてもらわないことには全国統治はできません。それに無理に制度を硬直化し、経済が停滞してしまっては年貢が入らず、幕府は潰れてしまいます。なので仕方なくこのような複雑な制度にせざるを得なかったといえるでしょう。


このような複雑な貨幣制度から、江戸時代には両替商が繁盛しました。一応幕府からは、金1両=銀50匁=銭4貫文という交換比率のお達しが出されていましたが、両替商の仲介により変動相場を形成していました。これは経済歴史学的には非常に興味深いことです。


また、「東の金遣い、西の銀遣い」という言葉があるように、江戸周辺では金貨が使用されることが多く、大阪周辺ではおもに銀貨が好まれました。というのは、大阪では中国や朝鮮など諸外国との貿易を行っており、外国との取引においては素材価値を担保にした貨幣が有効です。そこで秤量貨幣である銀が好まれたというわけです。


当時の小判一枚=一両はどのくらいの価値があったのでしょうか。江戸時代は大変長く、また豊作や飢饉などによって物の値段もかなり変動していましたので難しいのですが、江戸時代を通して平均をとってみると、大工の年収が20両くらい、下女(お手伝いさん)の年収が1両~2両だったようです。大工は民間の中では最高級の職だったことを考えると1両=50万~100万くらいでしょうか。ですから小判を庶民が普段目にすることをめったになかったでしょう。


庶民においては、普段少額決済に使うのは銭貨。ちょっといい服などを買うときは豆板銀。店にきた武士がたまに一分金で支払いをしていく。家を買うときには小判を使ったでしょうか。豪商になると小判を紙で包んでまとめたり、箱に入れたり、まんじゅうの下に入れたり?したことでしょう。



  木下英範のブログ-大判    木下英範のブログ-小判   木下英範のブログ-一分金

        大判             小判                 一分金    



   木下英範のブログ-丁銀   木下英範のブログ-豆板銀
      丁銀         豆板銀



   木下英範のブログ-寛永通宝
     寛永通宝


【参考文献】
日本銀行貨幣博物館
コインの散歩道(しらかわ ただひこ)