許すということ
「許す」ということほど高度なものはありません。
些細なことから喧嘩をしたり、嫉妬したり、相手が憎くて傷つけたり。そんなことを繰り返すのが人間です。でも、どんなに喧嘩をしても、もう合わないと別離を宣言しても、またすべてを許せるのも人間というものです。
しかし許すというのはなかなか容易なことではありません。まず誰かの攻撃を受けても、それを反射的にやり返さない忍耐力。相手を寛容し、怒りを鎮める冷静な頭。自分に現れた感情を客観的に認識し、感情と行動をリンクさせないという自己洞察力。心に遺恨を残さず、次の瞬間に気持ちをリセットする自己統制力。そして健全な心身を保つための毎日の習慣。すべてがバランスよく、しっかりと備わっていなければなりません。
まずいったん現状を受け入れて、相手への憎しみや失望を受け入れて、そしてそれを消化して、将来に向けて建設的な相手との関係を取り戻す。
たとえ愛する人や、肉親を殺されても。未経験者が安易に言うのは過言ですが、長い年月をかければ最後には許すという感情が出てくると思うのです。その時に本当に悲しみや苦しみから解放されるのだと思います。相手を憎むと自分も苦しいです。本当に苦しいです。
他人に迷惑をかけてはいけません。というのはどこの親も教えることです。しかし他人の迷惑を許す。ということを教えている親がどれだけいるでしょうか。
誰しも他人に迷惑をかけずに生きることはできません。高度に文明が発展すればするほど、社会生活を営む人間である以上、その中で様々な他人との関わりや依存が生まれます。生きている以上、直接的であれ間接的であれ、誰かに迷惑をかけているのです。生まれてからずっと無人島で暮らしでもしない限り、他人に迷惑をかけずに暮らすことはできません。迷惑をまったくかけない。それは社会生活を否定することと同等です。
しかし、すべてを許す、100%許す、ということは可能だと思うのです。
(許さない自分をも許すというパラドックスは置いておきましょう)
それは自分の内面しだいだからです。他人も自分も許して感謝に変える。なかなかできることではありません。しかし努力すれば限りなく100%に近づける。
どんなに仲のいい友達でも、夫婦でも、いっしょにいれば必ず喧嘩をしたり、相手を傷つけたりします。しかし最後にはお互いに許すとこによってさらに絆が深まるのです。最後に「許す」という行為ができると考えると喧嘩だって悪いものではありません。そもそも「否定」がないと「許す」も存在しえないのですから。
他人に迷惑をかけないことよりも、他人の迷惑を許すこと。
これって大事なことです。
「弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは強さの証だ」
「敵と相対するときには、その敵を愛で征服しなさい」
(マハトマ・ガンジー)