順位論の前に議論すべきこと | 木下英範のブログ

順位論の前に議論すべきこと

日本の世界における地位が下がっている。


・国際競争力

1993年1位であったがその後徐々に下がり2008年では22位である。


・GDP国際比較

日本は2位であるが新興国の追い上げが激しく、ダントツの米国を除き2位以下はどんぐりの背比べのようになってきている。いつ抜かれてもおかしくない。


・GDP国民一人当たり

1995年、日本は5位であったのだが、2006年では32位に落ち込んでいる。


・教育リテラシー
      2000年 2003年 2006年
科学力  2位   2位   6位
読解力  8位  14位   15位
数学力  1位   6位   10位

というように下がる一方である。

といったような順位論はよく聞かれる。が、その前に議論すべきことがあるのではないか。


まず日本をどうしたいのか、私たちは何を望んでいるのかを明確にしなくてはならない。誰しも幸せに生きたいと思っている。これに異存はないと思う。だがその幸せの定義は人によって違う。何を持って幸せと感じるのか。これを最大公約数的に感じ取って、それを元に議論しなければ、そもそも議論はかみ合わない。


たとえば、国民全員が有り余るほどの金を持っていても、他人を信用できずにギクシャクした社会であってはそれは幸福な国とはいえないだろう。ある程度金があれば、もてあますほどの金を持っていても仕方がない。


ではどうするのがこれからの日本国民にとって一番幸せなのか。金持ちになりたいのか。環境をよくしたいのか。安全を確保したいのか。それがわかって初めて、それを達成するためにはじゃあGDPだよね。競争力だよね。いや教育だよね。となってくるのではないか。その上で始めて上記の順位論が意味を持ってくる。望むべく姿がわかっていないのに順位だけを議論しても詮方ない。


次に、上記の国際指標の算出の仕方はどうなっているのか。これも重要である。人間の価値は「強さ」や「裕福」や「賢さ」(これも重要な要素ではあるが)だけではない。ひいては国家の価値も生産性や金や知識だけではない。この指標は国家の価値というものを本当にどこまで表現できているのか。100歩ゆずって昔ならば表現できたかもしれないが、価値観が多様化した現代においては単純すぎるこのような指標ではたして国家の価値を計れるのかどうか。本当に競争力を1位に戻せば幸せになるのかどうか。


教育リテラシーの順位があるが、たとえばテストの点数は最高に良くても人間的に冷酷であったり、実践の場になって弱かったりしていては仕方が無い。テストの点数は悪くても人間的魅力があり、話して面白く、やさしさにあふれた人が周りに多くいた場合、そちらのほうが国民として幸福かもしれない。人間的魅力を作ることも教育の重要な要素であるのだが、教育リテラシーの点数とはそこまで見込んで作られているのか?(作られていないと思うが)


このような国際順位にとらわれすぎることは道を誤る原因となるが、かといって否定しているわけではない。人間というものは元来他人と比べることによって不幸を感じるので、他の国よりもはっきり貧しいとわかれば不幸だと感じるだろう。そういう意味では他の国よりも単純に豊かであることが幸福量を大きくする可能性もある。


要は今人々が望んでいること、将来こうなりたいと思っていること、こうなれば幸せだと思うことをアンテナを張り巡らせて正確に把握しなくてはならない。一人ひとりの要望に全てこたえることはできない。そもそも国家の政治に出来ることは最大公約数的な政策なのだから。


幸せの定義は人によって違うし、かといって全員から集計を取ることもできないし、時がたつにつれて移り変わりもするだろう。だから国民の代表者はそれを「感じ取る」能力がなくてはならないのである。そして前提を共有できた上で、だからこの順位が落ちてきているのはまずい。と言って順位論を語ろうではないか。