生命的であること | 木下英範のブログ

生命的であること

生命の定義は、

「生命(せいめい)とは、生物が生物として自己を維持、増殖、外界と隔離する活動の総称であるが、はっきりとした定義を与える事は難しい。またある意味では、自己複製を繰り返し、かつ変化しうる存在で有るとも考えられる」(Wikipedia )
となっている。


より原始的な生命ほど、急速な淘汰を繰り返す。ゾウリムシは一日に一回分裂する。魚類は数十万~数百万個の卵を産む。ねずみは一年に5~6回、一回につき約6匹の子供を生む。人類ほど高度に発展すると、生物の淘汰のスピードはとてもゆっくりになる。外敵がおらず安全に暮らし、ほぼ全員がパートナーを見つけ子孫を残すことができる。


それでは人類は進化をやめてしまったのだろうか。そうではない。生命としての「肉体(ハードウェア)」の進化が怠慢になる一方、ソフトウェアとしての「文化」の進化は劇的に早くなっている。人類はハードウェアの進化を捨て、ソフトウェアを進化させる道を選んだ。この方向転換は偉大で、人類を劇的に強く普遍的で他の追随を許さない存在にした。


ソフトウェアたる文化はハードウェアの制約から解放され、淘汰、交配、融合を仮想的に莫大な数量をもって行える。生命には個体の死があるが、遺伝子的に見れば永遠に生きているとみることもできる。文化にとってみても、発明の中には淘汰され、消えていくものもあるが、役に立つ発明は記録され永遠に知識として残り続ける。文化という仮想生命システムを使って、地球の裏側で生まれた新しい遺伝子を一瞬にして交配させ、新しい進化を現出させることができる。しかも地球上の人類全員参加型である。この点、文化というのは超生命といえる。


ソフトウェアの進化はハードウェア(=肉体=生命)の進化を代替するものであるから、ソフトウェア(=文化)の進化は生命的なはずである。


文化の一つである言葉に注目してみるとどうだろう。言葉もまた生命的に進化する。最初に生み出された言葉(原始人による対象への驚きや喜びの発声)は対象にたいして非常に限定的に結びついており、またごく局所的でしか通訳しない。しかし次第にその言葉は対象グループ全体を指す言葉となり、より多くの人々へ「感染」していく。例えば、「ネコ」は最初一匹の山に住む犬型の動物を指す言葉だったかもしれない。それが次第に「猫」という動物全体を指す言葉となり、同時に広く一般に使われるようになっていく。


しかし、ここで進化しているのは動作主(話し手)ではなく言語そのものだ。言語自体が、進化しようとする強い方向性を持っている。言語そのものが後世に伝えられることを望み、そのための方法を見つけ出す のだ。


資本主義と社会主義を比べた場合、たぶんに資本主義のほうが生命的である。経済は人間が運用するものなので、生命システムに近い資本主義経済のほうがうまくいく確率が高い。資本主義における経済も生命的システムを含んでいる。経済は常に騰落を繰り返し、バブルが弾けて暴落することもある。しかしそれを自立的に回復させる機能も含んでいる。マーケットは利益に対しては慎重だが、損失に対しては臆病で逃げ足が速いというのも生物の一般的な特徴である。このシステム上ではバブルを抑える事は不可能だし、バブルを否定することは資本主義経済を否定することになり、ひいては生命システムの否定になる。


宇宙の進化も生命的である。ひとつの恒星の死は別の恒星の誕生を意味する。恒星の輪廻の過程でより複雑な原子が作られてきた。今我々の体を形成している原子、地球を形成している原子は、元はどこかの恒星として輝いていたものだ。太陽が50億年後に最期を迎え、地球もろともガスになって宇宙に散ってしまうと予想されている。そしてそのガスからまた新たな星が誕生する。我々の体を形成していた原子は、その新星の軌道上の恵まれた惑星、その上に住む生命の一部となるかもしれない。


ここまで考えると、もはや「自己を維持、自己増殖、外界と隔離」等の生命の定義と思っていたものは、もはや生命の定義では収まりきれない。宇宙のあらゆるところに現れるこの定義を仮に「アーキテクチャー」と呼ぶとすると、このアーキテクチャーは宇宙の普遍的な法則であり、生命はその法則のひとつの表現に過ぎないといえる。

地球の誕生、生命の誕生、文明の誕生(つまりアーキテクチャーを採用するすべての現象)は確率の地平の頂に登るような奇跡的なことではなく、確率の地平の窪地に収まるような、もっともありきたりの帰結だといえる。


ランダムな動きの中からやがて何か法則が生まれてくる。法則というのは繰り返しを意味するから、反復的要素を含むこのアーキテクチャーが人間からみれば「法則」として理解されるのである。