「同じ時間を生きていれば知識価値は同じ」を検証する | 木下英範のブログ

「同じ時間を生きていれば知識価値は同じ」を検証する

 知識は使わなくては意味がない。よって知識の価値は「知識×使い方」である。したがって、自分の知識をうまく利用している人ほどその人の知識価値は高いといえる。これは、知識は「使い方」によってその価値が変化することを意味する。すなわち、「使い方」がわからなければその知識の真の価値を計ることができない。
 ところが、「知識」とは時間変化によらず、永久に存在するものであるが、「使い方」とはその時々により異なるし、その時点になってみなければわからない。したがって、その人が知識をどう「使うか」がわからない状態において、「あの人は知識人」だとか、知識の価値を測定するのはそもそも間違いである。
 しかし、あえて知識のみの価値を測定しようとするならば、それは「量×希少性」によってなすことができる。ここで量と希少性には反比例の性質がある。量を増やせば知識は浅くなり、希少性(深さ)を追い求めれば、量が少なくなる。「知識の量を増やすこと」「希少な知識を探ること」にはどちらも時間コストが必要である。
 よって、費やした時間が知識の獲得量だとすると、次の等式が成り立つ。
知識の価値=量×希少性=時間
したがって、同じ時間を生きている人間ならば、持ちえる総知識価値は同じである。

 我々は、「自分の知っていること」を「知らない」人間をつい自分より無知であると思いがちだ。しかし、そういう人間こそ、あなたの先生になりえる人物である。なぜなら、別の「自分の知らないこと」をその人は「知っている」はずなのだから。