私は7歳のとき、父を病気でなくしました。きょうだい7人は気丈な母の手で育ちました。
小学校卒業のとき校長先生に事情を話し、当校の給仕に雇ってもらいました。早朝から職員室の掃除やお茶出し、印刷、お使いなど頑張りました。校長先生は「人間は勉強や趣味でも大好きなものが一つでもあると心に張り合いがでて成長もし、生きがいとなるものだ」と話してくれました。私は放課後に先生方からそろばんや絵、ピアノなどを教わりました。今でも感謝を忘れません。
昭和19年に陸軍に入営し、中国で戦争に加わりました。しかし日本の敗戦は色濃く北朝鮮で終戦となり、ただちにシベリアに抑留されました。
氷点下40度の過酷な炭鉱労働で重傷を受け、最初の病院船で帰還しました。病院で母と面会したとき、母の毅然(きぜん)として「兄は中国で戦死、弟は東京大空襲で死んだよ。戦争は絶対にしてはいけない。
お前は2人分長生きしなさい。必ず治るよ」と厳しく励まされました。1年後に回復して東京の大手企業に就職しました。
いまは友達も増えてきて、年賀状に好きな絵を描いて、近所の郵便局などに飾ってもらい、喜ばれています。
定年になってからは万人に共有できる普遍的に役立つことはないか考えました。
戦争の悲惨さや原爆の恐ろしさを知らない世代が増え、反対に戦争で苦悩を身に受けた語り部となる高齢者が減っています。
戦争体験を、人のために、地域社会のために、全世界の民衆のために、そして核廃絶の世界を築くまで、昔ピアノを弾きながら生徒と一緒に「赤とんぼ」「故郷(ふるさと)」を歌った心の豊かな日本を取り戻すまで、明るく語って生きがいとしてまいります。