横浜市の「三渓園」にその名を残す原三渓は、生糸貿易で成功を収めた実業家である。関東大震災で横浜が大打撃を受けると、私財を投じて復興を支援した▼復興会の会長に推された原は、“横浜は厳然としてなお存在している”と語った。“外形が焼き尽くされたにすぎない。支えてきた人々が存在するではないか。横浜市の本体は、市民の精神である”と(久恒啓一著『志』ディスカヴァー)▼東日本大震災は建物を破壊し、街をがれきに変えた。それでも、人々は励まし合い、大震災に立ち向かっている。「東北の本体は、東北人の精神である」と願ってやまない▼現実の過酷さは想像を超える。先は見えない。それでも、“断じて負けてはならない”との思いは強い
原 三溪(本名富太郎)(1868年(慶応4)-1939年(昭和14))
岐阜県厚見群佐波村(現在の岐阜県岐阜市柳津町)で代々に渡り、庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。1888年(明治21)に跡見女学校の助教授になり、1892年(明治25)に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収めました。実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、1906年(明治39)三溪園を無料にて開園するほか、近代日本画家の支援・育成を行いました。1923年(大正12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの美術品収集、作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三溪記念館内に収蔵されています。

原 三溪(本名富太郎)(1868年(慶応4)-1939年(昭和14))