小学生の頃の思い出で1番印象に残っている事は?メダル競走でふざけて走って、まんごろうに怒られたこと。

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友達ボラ(久保田さん)と喋りながら最後尾に居たら、真っ赤な顔して「お前ら何やってんだムキームキームキームキームキーちゃんと走れ!!!!!!」怒鳴られたから、そこから本気出して、何十人も抜いていき、上位7位真田がメダルをもらえるメダル競争🏅。8位でもらえず終わりました。はじめは喋りながら走ってて、メダルを狙っていませんでした。そんなもの貰っても食えないくらいな感じでメダルをバカにしていたと思います。怒られてから本気出して、結局もらえませんでした。私もボラも。ザールしてまた怒られて。「真面目にやれ!」「ごめんなさい」まだ素直だった頃です。
ミニバスケット部が発足された、私がキャプテンで、ボラが副キャプテンだから怒られたのかもしれません。まんごろうが顧問、監督だったからです。ミニバス部員が何をやってる!ということだったのでしょう。
小学5年。生意気な私たちはめんどくさいよね?でした。てへぺろそんなメダルなんかいらないしって。高校生のマラソン大会も、鹿島神宮の森の中を走るのですが六位入賞で7位。私の前には陸上部、バスケット部、テニス部が居ました。帰宅部な私は部活もやらない超無名選手だから、各コーナーで案内してる男子が「お前なんでこんな早い子機にきたんだ?」だったようです。
私の運動能力は中学まででした。
ピークが一年生。校内女子の中で一番でした。1km4分切れば一級を3分24秒で走れました。
それが県の標準記録で、陸上大会に出るように言われましたが、私は、バレーボール部なのでお断りしました。3分24秒が出た時、死ぬかと思うくらい辛かったのに、もっと早く走る自信はなかったです。私が目指すことは、バレーボールでトップを取ることでしたので。陸上じゃないと。手を引きました。

その甲斐あってか!?茨城県大会優勝は、最高に嬉しかったです。
人生には糧になりました。
兄貴は競泳で、兄貴の息子、甥っ子もサッカーで。姉の娘、姪っ子はソフトテニスで茨城県を制した。アスリート家系。サラブレッドな血がそうしたと思います。やれるもんならやってみろ!は、血筋。
ご先祖様に感謝です。和歌山住金から、鹿島開発を耳にした、お父ちゃんは小さな子供を三人連れて茨城県鹿島郡に進出した「井上工業所」


わずか5年の歳月で豪邸を建てた父は凄いです。鹿島で一花咲かせるってそんな無謀な夢についてきた母の根性も凄いと思います。私だったら、花が咲いたら追いかけるから呼んでくれと、言ってる。

和歌山の弟三人の長男が入院して、お見舞いに1人で行けないから一緒に行って欲しいというので母を連れて和歌山に行った。故郷の海で「もし、一花咲かなかったらどうしたの?」に。母は、「負けて帰るわけにはいかなかったから、違う場所で花は、咲かせたと思う。」と言い、私はその力強い言葉に感銘を受けました。


私が靱帯三本断裂で歩いたのも、右脳出血2階まで歩けている今も。まさに「この親あってこの子あり」です。

応援してくださる皆様に感謝を申し上げると共に、これからも頑張りますので宜しくお願い致します。何度も書いていますが、私のブログで

不快になる方は二度と来ないでください。

そんな人のために書いているブログではありません。

Amebaブログを始めて13年。たくさんのフォロワー半のおかげと思っています。心より感謝申し上げます。

ありがとうございます。不本意ながら休んだこともありました。が、これからも続けていこうと思います。一日中ネタ探ししてる毎日です。これからもよろしく申し上げます。

んではまた。( ; _ ; )/~~~