身近に双子ちゃんいる?いた。

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男2人の双子、長男と付き合った。次男の方が性格が良くて良いのに大失敗だったと思う。
私のバレー部の仲間を好きになったと言い出して、付き合って欲しいと頼んでからなんて言う不届者だった。中学3年の時から付き合って偶然同じ高校で同じクラスになってしまった。焼き餅焼きでとてもめんどくさい男で、8回くらい別れた。社会人になって、私が結納してから、クラス会でトイレに行くと待ち伏せされ、
双子兄「結婚するってきいたけど、ほんとうか?」
私「おかげさまで」
の、気持ち良かったことと言ったらありゃしない。
即座に出て来た「おかげさまで」カッコイイキラキラ
お母さんはとても気に入ってくれていて、お父さんが実家新潟に帰省する(双子連れて)と、家電話くれて、「もし、用事がなかったらで良いのだけれど、1人で寂しいから、うちに来てくれない?」に、あると思いながらも世に若様かで1人の食事は寂しかろうと自転車で駆けつけた。
お母さんに別れて付き合っての繰り返しを相談できた。話しやすいお母さんだったし、私が所構わず相手構わずだから。てへぺろ
すると、「ごめんねぇさゆりちゃん下(下半身ではなくて、次男)はそうでもないんだけど、上(上半身じゃない。わかってるって!)は本当にワガママ気ままなのでさゆりちゃんに苦労かけてしまうわね。ごめんね。お嫁に来てくれたら、私がさゆりちゃんを守るからね、うちに来てね!他所に行かないでよ。」と言ってくれていた。初めて勤めた会社の近くに親友の両親がいるクリーニング屋さんがあって仕事帰りに寄って愚痴を聞いてもらったりした時も「さゆりちゃんがうちの嫁さんになってくれるんだろ?」とお父さんに言われたし、お母さんは横で笑って「それが良いわね」と言ってくれていた。親友ではあったけど、恋愛対象には互いになくて、いつも互いの恋愛相談していた。その親友も同じクラスだったから、話は早かった。まさか後に内縁夫になるとは夢にも思わなかった。脳出血で倒れてから、私のセコム(家が回覧板を回すくらい近い幼馴染)となんとなくおつきあいしてる感じだったのが終わった話をしたら「やっと40年の時を越え、つよっさん俺の順番が回って来た」と言い、毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよと、思い出話に浸る毎日だった。すぐにお見舞いに来てくれて真っ黒いスモーク貼った真っ黒いイカツイベンツから降りる馬鹿でかい反社のような親友どこのヤクザかと思つたら私のヤクザだった。クリーニング屋さんを継ぎ社長になって登場し、ヒョロヒョロピッチャーの面影ない106kgになっていた。三万円もお見舞いにくれて「テレビくらい見てろ」退院したら会えると信じていたのにうまくいかなくて、終わりも迎えた。偶然同じ会社に就職試験を受けに行き、お昼休みに追いかけっこをして転倒虫はその時からすでに始まっていて、殺ターン転んで真っ白い壁に足跡を付けた。爪跡を残すの手間はなく足跡を付けて来た。それも大笑いのネタになった。もしも2人がその会社に入っていたら、社則を変えるほどの強者な2人が平穏無事なわけはない。今で良かったのだと笑った。
セコムも強者も野球部。
なかよしは、他にも野球部にいた。同じクラスだった賢治も大好きな友達。妹がバレー部後輩で双子だった。漢字を忘れたけど、聖子葉子だったかな?お付き合いしていた男の双子もバレー部後輩の女の双子も一眼でどちらかわかる双子だった。保育園からの度付き優勢の女の双子ゆかり・みどりも一目で見分けがついた。残業も運動も比べられて嫌だったみたいな印象がある。高校生になって見分けがつかない双子がいたように薄い記憶。あとは豚こまというと幼馴染な弟妹釜生はまた違いの双子だったヨシエ・ヨシタケ。もういい加減おっさんとおばさんになっただろ。可愛かったなぁ。近くにいるのかな?性格的にきつい兄弟だったなぁってお前に言われたくないってみんな言うわ。負けず嫌いの夫婦に生まれた私たち三兄弟はもちろんのことそうだったに違いない。地区対抗リレーに3人とも参加すると
母のテンションは爆上がりだっただろう。小5に兄貴小6の姉小一の私。
関西から来たわたさたちは予選会に参加してもらえなくて、はらわた煮え繰り返って爆発した母ちゃんは学校まで来て予選会を開催させた。
私達三人は、DNA成果、おかげか、地区対抗の選手になった昔は部落リレーといったのに。地区対抗となったのだ。ちょうど変わり目にいた気がする。
なぜかお父ちゃんは見に来てくれなかったなぁ。バレーの試合も私は来て欲しかったのに。
お母ちゃんの声が二階からこだまする。「さゆりぃーさゆりぃー!がんばれー」わかってるわ!あんたより勝ちたいと思ってるがなって思える余裕があった。関東大会の時引率した男性教員に「あの子のサーブが良いんですよ。流れを変える力がある」と言われて「あれ私の子供です」と会話したと後で聞いて笑った。パンチサーバーでムードメーカーだったからだ。それが私の仕事でそこに居た。拓也さんから関東ベスト8まで一度もミスをしてない!!サーブ権があった頃で緊張してたはずのピンチサーバーは、半端ないド根性。
任命されたその時からサーブしか練習してないのに、失敗なんかするわけがない。負けたくない思いの方が強いから、ベンチにいる時から出たらあいつを狙うとかあそこに穴があるとか、戦略でいっぱいだったし、「さゆりがんばれ」は、うるさいなぁくらいだった。砲丸投げの選手が投げた跡地「ありゃー」みたいな叫び。よくわかる。あわわ唸ってたような気がする。球質を変えるのに振り切る時と止める時もどちらにも力が入った終わりだ。振り切るに余韻が残る方がそう様暑くてあろうが、止めるときにもボールが当たった一瞬にそのパワーを込める。手首の返しで左右に方向が変えられたし、手のひらに空気を入れる空間を作ることで変化も変えた。人差し指と薬指をつけるようにするとか、空気抵抗をたくさん持っていた。たあせつなのはサーブを打つ前のトス。それに失敗するといくら右手を工夫しようがカートに入らなければ意味がない。何のためにここにいるのか?だ。 もちろんそんなヘマはしない。
考えていることはどこにどんな球なのだ。
そこまでのプレーで見抜いた穴だ。
そのゲームの肝、大事な場面に私が出る意味。わかっていた。コンポンの信頼を全力で受け止めていた。私の結婚式でコンポンの祝辞、ものすごい大切な試合で「私が行きます」「行かせてください」は、作り話だと思う。行きたそうにはしたかもしれんが言ってないと思う。それは今もそう思う。
薄い記憶。県大会の古河二中かな?一中かな?たぶん二中。決勝は4校の四つ巴。総当たり戦。勝ったら負けたりがぐちゃぐちゃになった。トーナメントのように負けたら終わりではなくて、トータルポイントが優勝になった。その中の試合だった気がする。コンポンが話した「ここ一番」ひっくり返すとか有意になったの手間はなく平坦に試合が続いた気がするわ。そのここ一番。関東大会、千葉県の一位に勝ってたのに千葉県の二位が背が高くて身長が足りないことがネックになった。相手はみんな170cmくらいで私たちはちびっこバレー一番大きいのが164cmはバレーボールの世界では通用しなかった。ジャンプ力で補えることもあったとしてもローテーションしてずっとどでかい女に苦しめられた思い出。今さっき、ティックトックで小窓に挙げられて、占いができる人が、私の事を自分に甘いって。勉強が足りないって!こうなったのもワタさが悪いみたいに言われて、あまりマイナスに言われたことがないからか、腹が立って涙が止まらなくなってる。
自分が頑張ってることに予期されてるだけで周りはそんなに認めてないんだって!ハマログのフォロワーもそんな目で見てないって!私が空回りしてるだけなんだって!
皆さん!ハマる目がないんだってよ!もっとためになる人のブログに行った方が良いです。勉強不足で他力本願な私はダメ人間だって!
何をもってこんな朝から人を攻撃するのか。私には皆さんの朝を不快にしてるって、そんなら小窓にあげてくれるな!上がりたくなかったのに。酷い目にあった朝になった。
あのおっちゃんは嫌い。末っ子の我がままが出る。お父ちゃん!あのおっちゃん酷いこと言うで!言いつけてやりたい。

ほなまたね!(・◇・)/~~~
沖縄の亮太さん。どっかのしんさん。親友と言わせてもらってる人たちは大好きや!
また配信にお邪魔します。ならヒロキさんも不快にさせてごめんなさいでした。
枠を汚してしまいすみませんでした。

(・◇・)/~~~