22. コミュニケーションの実態 その5 ( 2005年10月 3日 )

 塾の生徒(中学生と高校生)を見ていて気づくことがあります。
彼ら・彼女たちは携帯とメールで四六時中つながっているように見えます。
なのに、「孤独」、「寂しい」、「人間不信」、「誰も分かってくれない」
「ひとりぼっち」など、ずいぶんと哀しい表現を頻繁に使います。
私たちの身の回りのコミュニケーション環境を見ていると
「話し手」はいくらでもいるのに「聞き手」が一人もいないことに気づきます。
もちろん「聞いているふりをしている人」や「聞いている気になっている人」は
いくらでもいますが、本当に聞いている人は、ほとんどいません。
みんなが聞きたいように聞いています。
生徒たちの会話、家庭内の会話も、会社の会議だって同じです。
そして、みんなが一斉に「居場所がない」と言います。

山梨日日新聞  「風林火山」

 電話ボックスの中で少女が受話器を握りしめている。
そんな一枚の絵から、さまざまな記憶が膨らんでゆく。
 今年の望月春江賞に選ばれた中込末子さん(駿台甲府高三年)の作品
「電話ボックス」を見て、作家・川上弘美さんの「電話ボックスで泣いた夜」
というエッセーを思い出した。
 自宅では恋人と長電話しにくい。硬貨を握り、わざわざ服を着替えて家を出る。
切ないけれど豊かな時間。おそらく十代のころの記憶だろう。
 街角に公衆電話を探し、使用中なら並び、後ろに待つ人がいれば、
それも気にしながらの通話。相手が不在なら、しばらくしてかけ直す。
電話ボックスは、こうした面倒な手順をまとっていたからこそ、
伝わらないもどかしさとともに、話せる喜びも格別で、怒りの用件も恋の言葉も
ひと呼吸おいて冷静になれた。
 公衆電話の数は二十年前より半減し、代わって携帯電話の契約数が
八千万台を突破した。時間も場所も問わずに相手につながる携帯電話だが、
手軽な分、会話が軽くなった気がするのは思い過ごしだろうか。
 電車や公共の場でもしゃべり続ける人たちの会話を聞くと、
IT機器としての機能拡大とは別に、もっと「ケータイ」を豊かに
使いこなせないものか、と思う。密度の濃い、素朴な言葉が、もっとあっていい。
電話ボックスの中の息づかいを懐かしく思い出し、
手のひらの上の小さな機器を見つめてみる。