23. 視点を変える  その3  ( 2005年10月 9日 )

満足すると、そこから成長はないと考えている人が多いようです。
その一方で、こんな考え方も可能です。
「私たちはその瞬間瞬間でベストの選択をしてきました。
だから今の私たちはベストに違いない」
もちろん今の知恵を持って、結果論で振り返り、後悔することは出来ます。
あのとき、こうしておけば良かった、ああしておけば良かったと。
今の自分に満足して、いったん完了してから
更に上を目指すという生き方もあるはずです。
「比較」や「焦り」をエネルギー源にする生き方とは、全く逆の生き方です。
「あるもの」「すでに手にしているもの」「恵まれているもの」にも目を向けて下さい。
私たちは十分に豊かです。

8回も手術をしてまぐれのようにここまで生きてきたからこそ、
自分の中に降り積もった言葉がある。
今は、「生きてやってる」というような投げやりな時間を過ごす人が多い気がする。
物があふれすぎていて、当たり前に存在するものには目が向かない。
でも、目の前にあることから変えないと、何も起こらない。  
― シンガー・ソングライター 平松愛理さんのメッセージ ―

朝日新聞 天声人語より    
   

 今年も食欲の秋が巡って来た。
思えば、今から60年前の終戦前後は、多くの人が食糧難に苦しんでいた。
本紙・声欄に寄せられた投稿を編んだ新刊『庶民たちの終戦』にも
戦後の様々な出来事とともに、ひもじかった日々がつづられている。
 国民学校の4年生だった渡辺マツ代さんは、群馬・高崎から
父の出身地の妙義山のふもとへ、祖父や姉妹と疎開していた。
いつも腹が減っていて、沢ガニやカエルが貴重なごちそうだった。
 ある夜、隣に寝ていたはずの祖父の姿が見えなくなった。
やがて戸板に乗せられて帰ってくる。裏山のがけから落ちて死んだらしい。
冷たくなった祖父の右手に親指大の小さなサツマイモが握られていた。
「孫たちに食べさせたいと思ったのでしょうか」
 占領軍の残飯捨て場に、鍋を手にした女性たちが群がっていた。
当時17歳だった金武聖子さんは、情けなくて歯ぎしりしたという。
「子供に分け与えていたのだろう。今なら母親の愛と強さなのだと、
しみじみ感じることができる」 
 水澤間津男さんは、家に猫が迷い込んできた時のことを書いている。
飼う余裕はなかったが、よくネズミを捕るので置くことにした。
ある日、猫が牛肉の塊をくわえて来て、どこかに行ってしまう。
結局、一宿一飯の恩義を感じた猫が持ってきたのだからと、
家族でありがたく頂戴(ちょうだい)する。
「猫の獲物を『ネコババ』する衣食足らざる時代の、
思い出とも言えるミミッチイ話である」
 今この国では、食品のざっと3割弱が、残飯となって捨てられている。