人を許すということ。 | 心笑亭 杉のの笑いの空間

心笑亭 杉のの笑いの空間

只今ブログ改変中です。しばらくこのままでお許し下さい。

皆様こんにちは。

昨日は、結局半日電話トークに費やした、

愚痴聞きカウンセラー作家の、心笑亭 杉のです。






いやいや、昨日、ブログに書いた友達との電話の後、

ブログ書いたり、メールの返信をしていたら、他の友達からの電話。

その友達も、久しぶりだったこともあり、

喋るわ喋るわ、気がついたら、夜7時前。



思わず杉の。



「あのーーー、そろそろ夕御飯食べてきてもええかな?」




と、強制終了。





喋りすぎや杉の。

腹も減るわっ

結局、昨日はパスワード探し、昼寝、電話・・・だけで一日終えてしまっとるがな。



と反省し、

その後静かにアメブロの旅に出かけておったわけですが、

その中の、あるブログで、少し、心がざわついた記事があって。


そのブログの中にあった、キーワードは


「許すってなに?」



てなことで、今日は、特別杉のに質問されたわけでもないのに、

勝手に、好き勝手なこと喋りまくろう!!

的な、内容でお送りいたします。



杉のは、これまでもブログに書いてきたように、

子供たちが小さい頃から、

「強くて優しい子になりなさい」

って言い続けてきてるのだけど、


その「強くて優しい」ってのは、お互い反しているように見えて、

実は、「同じこと」だと思ってる・・・」いうのは前にも書いた。


つまり、杉のの中で、


最強に強いのは、


喧嘩に強いとか、

意志が強いとか、

泣き虫じゃないとか、弱くない、とかそんなことではなくて、


「人(自分)を許せること」


だと思っている。



それは、そのまんま、「間違っている人、間違ってる自分」を許すってことでもあり、

つまり、それは、


「罪を憎んで、人を憎まず」的な考えでもあるけれど、


突き詰めていえば、


ソレを間違ってる・・・と思ってる自分の価値観を正すことでもあって。



だけど、それって言葉にするととても簡単なように思うけれど、


心の勉強をする中で、


自分の価値観が偏っていると尚更、

その

「許す」

って行為が、他人であっても自分であってもかなりキツイ作業になることは、

とても難しいことだということがわかってきたわけで。



その自分の価値観を作り上げてきたのは、

間違いなく、小さい頃の経験で。

親から与えられた、「躾」という「愛情」に包まれた、「暗示」で。

つまり、

「神様」のように思っていた、「親の言動」から、今の自分の価値観って作られているんだもんね。


それを書き換えるって行為はとっても辛いってことは、誰もが経験済みかもしれない。


また逆に、



杉のが昨日読ませていただいたブログの中にあったように、


「自分を虐待してきた親を許す」


これも、とんでもない無理矢理感がある作業だもんね。



それも許す。



どうしたら許せるのか・・・・・・。



というより、「許す」って、ただ「その行いを×から〇にする」って単純作業でもないように思っていて。



「厳しい躾が嫌だった」という理由で、親と祖母を殺害した高校生。

その子は、小さい頃虐待されていた、という報道もある。


その虐待がどれほどのものかはわからないけれど、

それも、

「親の愛」

だと言い聞かされてここまで育ったのだろうね。



昔とは違い、今は、


「虐待=いけない」


という「正しさ」が、しっかり教育のなかでも示され、


いくら親が「それは愛だよ」と言ったところで、


そんなもん愛じゃないわっ


と、気が付く子供たちも大勢いるだろう。


その中で、


それでも親を愛していた、小さい頃の自分を「無いもの・間違っていた」にして、親を殺害したいほど憎んでしまうことがあってもおかしくはない。



そしてまた、


「厳しすぎる躾」「虐待」を「愛」だと信じ育ち、


今、本当は親に愛されていなかったんではないかと、思い悩む大人も大勢いて。


親を愛していたからこそそう信じてきたのに、


その親の「価値観の押し付け」から、今、苦しんでいる大人も大勢いる。


その「価値観」を書き換えることは、

まるで、

親からの愛情を否定することだと思っている大人たち。




どちらも、


そこに愛があるのかがわからずに、今も悩んでいる姿なんだよね。





虐待ってね、



してはいけないことだけど、

そうなっちゃうこともあるんだよね。



それは決して



愛情がそうさせてるわけではないけれど、

愛があっても、そんなことしちゃう親もいるってことを少し理解するだけで、

なにか変わらないかな?


逆に、


厳しい躾は本当は愛なんかじゃなくて、

ただ、自分の価値観を子供に押し付けてきただけのことだけど、


でもそこに愛は間違いなくあって、

その価値観を塗り替えても愛が減ることはない、と思い直すことで、

少しは楽にならないかな?




「そりゃそんなこともあるわな、そやけどそりゃアカンやろ」


「小さい時の自分、頑張ったよな」


「そやのに親を愛していられた自分は、偉いよな」


「つうか、うちの親、かなりアカンがな」


「そやけど、うちのヘタレオカンも、それなりに頑張っとたんやろな」


「あんなんでも愛してくれとったんやろな」


「そやけど、あんな愛し方はあかんやん」



そう思うことは無理かな?


上手くいえないけれど、

つうか、

他の博識者のみなさんがなんとおっしゃってるかなんて杉のは知らないけれど、



そういう親を選んで生まれてきた自分。



それはきっと、



今、世の中で完全に×にされている親を、

誰からも、許して貰えない親を、


たった一人だけでも、


「それでも自分ちゃんと生きてるよ、そやけど、あんなことしたらアカンで」


って、抱きしめてあげるために生まれて来たんじゃないかな?


いやいや、実際に抱きしめなくても、そう思ってあげることじゃないかな?




だから、


今、親を愛せなくてもいいやん。


許さんくていいやん。


そんな親の気持ちなんかわからんくてもいいやん。


ただ、愛されなかった、という誤解。


それを解いて、


そんなヘンテコリンな愛情しか、持てない人もいる、


ってただ認めてあげるだけでいいやん。


だけど、そんな親の気持ち、わかるはずがないけどな。



それでいいと思う。





実際はさ、


わからんから、自分は親とは違う愛情を子供に捧げることができるのかもしれないね。


虐待の連鎖、というのは、結局、

そんな親を愛そうとか、許そうとか、わかってあげようとか、

そんなむちゃぶりを自分に課すことで、


親を愛せない自分。

親を許せない自分。

親に愛されなかった、という誤解。

だから、自分も子供を愛していない、子供に愛してもらえない、とう誤解。


そんな自分との戦いから始まるのかもしれないね。



そして、ここが大事。



自分が小さい頃、愛して愛されることを望んできたその親も、

それなのに、自分をこんなに苦しめてきた親も、

今はただ、憎いだけのその親も、



本当は、


自分と同じように、同じ思いで苦しんできたことに気づいてあげること。





それが許すことかもしれない。





それではまた。