昨年2019年10月某日、

珍しく出張にて、羽田から北九州へ

向かいました。

 

 

 

往復で利用したのはJALです。

北九州空港にはスターフライヤーの

黒い機体が駐機してました。評判良い

みたいなんで乗ってみたいっス ニコニコ

 

 

初となる北九州空港の構内にて。

メーテルのパネルが3枚展示されてました。

作者の松本零士氏は久留米の出身で

北九州育ちなんだそうです。

 

 

漫画家として大成するまで、

決して故郷に戻らぬ覚悟で、なけなしの金で

片道切符を買って小倉を旅だち、東京へ

向かった時の松本氏の情熱と覚悟が、

鉄郎の旅立ちに投影されているんだって。。

その時東海道や山陽道で走ってた蒸気機関車

C62が999号のモデルです。

 

北九州空港は沖合の人工島にあって、

橋で陸地と繋がっていました。空港から

リムジンバスでメガロポリスステーション、

じゃなく小倉駅へ(笑)

ノンストップ便だと33分710円で到着。

 

 

 

↑小倉駅近くから見た

八幡製鉄所のあたりです。

 

仕事関係は主に小倉の近辺、

宿泊してたのは小倉から電車で15分

くらいの門司港駅のあたりでした。

初日の仕事が片付き門司港駅へ。

鹿児島本線の始発駅です。

 

 

 

改札のあたりや

駅のホールはレトロな雰囲気ニコニコ 

 

 

 

駅舎外観もいい感じでした ニコニコ

大正3年完成(2019年復元)、門司港駅と

東京駅の2つが、現役の駅舎では国の

重要文化財です。

 

 

 

 

門司港はかつては

日本の三大港の一つで近代日本を支えた

場所です。(初めて知りました。他は横浜

と神戸。)

 

明治22年

石炭等を扱う国の特別輸出港として

指定され、その後日清戦争や日露戦争が

勃発。中国大陸が近いこともあって

軍需品や兵士たちを送り出す重要港になり、

米や兵器、軍服などを扱う商業が

目覚しく発展していった地です。

 

大正3年8月

日本は第一次世界大戦に参戦、

11月に支那の青島を攻略、門司は大戦景気に

沸き、その後は欧州航路の寄港地にもなり、

満州などへの貿易船や客船で大変な賑わいを

見せ、財閥が集まり大銀行や企業が支店を

出しました。

 


駅のまわりも

レトロな建造物が並んでおります。

レンガの街って趣きです。

 

 

 

 

駅周辺は門司港レトロと呼ばれ

海外貿易で栄えた時代の建造物を中心に

商業施設等が大正レトロ調に整備され、

観光エリアとなっとります。

 

 

 

歩いてすぐの海(関門海峡)の方へ。

向こうの橋が関門橋、その先は

山口県下関市ですね。

 

 

 

この場所から、

沢山の将兵が戦地へ出征していった

時代がありました。


 

海岸にひっそりと建つ、

出征兵士の碑です。

 

 

 

まさにこの場所でかつて

繰り返されたであろう、門司港岸壁で

出征兵士を送る光景です。

 

 

碑文

ご存じですか 先の大戦中ここ門司1号岸壁から200万人を超す将兵がはるか南方の戦線に、あるいは大陸の戦地へと赴いたことを・・そして半数の100万人の将兵は生きて再び故国の地を踏むことが出来なかったことも・・門司港の山河を日本最期の風景としてその目に焼きつけ、遠く離れた戦線に向かった多くの将兵を偲び、恒久平和を願う不戦の誓いを込めてここに「門司港出征の碑」を建設しました。近代日本黎明期から門司港の発展にこの港湾が重要な役割を果たしてきましたが、この碑が忘れてはならない歴史の語り部となりますように・・

門司港出征記念碑建設委員会

 

 

出征軍馬の水飲み場。

 

説明版より

昭和6年の満州事変勃発から第二次世界大戦にかけて、日本全国の農村から多くの農耕馬が軍馬として徴発され、この門司港から軍用船で戦地に渡りました。その数、百万頭に及ぶといわれています。そして、馬は、再び故国の地を踏むことはありませんでした。このため、馬にとって最後のお別れの水を飲んだところとなってしまったのがこの水飲み場です。当時は西海岸通り周辺に数ヵ所あったといわれていますが、今は一つだけが残っています。港町・門司の歴史を後世に伝えていくとともに、平和の尊さを忘れないよう、ここに保有するものです。

北九州市

 

 

自分の母方の祖父はかつて陸軍にいて、

大戦前から満洲に滞在し内地と行き来して、

終戦は南方で迎えました。もしかして

この辺に来たことがあるのかも知れない、

などと思いながら感慨深く散策しました。

 

つづく

 

 

 

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