8月中旬の旅の記録のつづきであります。

広島県呉市・呉海軍墓地(長迫公園)にて。

自分が訪ねた時はお盆なのに人っ子一人いなくて、

かなり寂しいかなと感じたものですが…

秋分の日、第47回合同追悼式が盛大に開催され、

多くの人で賑わったようですね ニコニコ

 

 

 

 

こちらが、丘の入口に建つ

呉海軍墓地追悼歌「長迫の丘」の歌碑と

鎮魂の鐘でございます。

 

 

 

追悼歌  長迫の丘

松岡清徹作詞 實輝長良作曲

 

一、

潮路はるかに昇る陽に 旭日の旗なびかせて
祖国を讓りし勇士が 静かに眠る長迫の
丘に平和の錨が鳴る
二、

ゆるぎなき世の礎は 七ツの洋に散った華
勲讃える石碑にまたたく 星は長迫の
空に平和の鐘が鳴る
三、

精気あふれる 日本の未来を拓く同胞の
み霊安けと祈りつつ 友人集う長迫の
森に平和の錨が鳴る

 

 

 

このときはメロディの感じを知る由も無かったんですが

炎天下のなか碑の前に立ちつくし、その歌詞をつい口にだして

しみじみ読んだものでした。

 

作詞の松岡清徹氏は軽巡洋艦「球磨」の元乗組員で、

2術校の校歌も作詞しておりますね~。

 

 

 

 

軽巡洋艦球磨、

名の由来は自分的には少し懐かしい球磨川。

そして球磨だけに磨いた球…の碑でありました。

 

 

 

 

軽巡洋艦の球磨は水雷戦隊の旗艦として建造されました。

比島や蘭印での任務後、昭和19(1944)年1月11日対潜戦演習の為ペナンを出港、

その後英潜水艦タリーホーと遭遇、魚雷2発を受け球磨に搭載していた魚雷が爆発、

同日2357沈没。

このときの艦長は杉野修一大佐で、広瀬中佐に探された杉野兵曹長のご長男、

というのはまぁまぁ知られてる話。

 

この戦いに辛くも生き延びた杉野大佐は長門の最後の艦長へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

竣工後、江田島の兵学校で長く練習艦として使われるも、艦隊決戦の斬り込み隊として前例のない重雷装艦に改装された大井。4連装魚雷発射管を10基40門搭載していました。真珠湾攻撃では、連合艦隊の戦艦の護衛を行っています。

しかしその後、大井を視察した連合艦隊参謀長の宇垣纏少将がこれからは航空戦力の時代だ、と主張、重雷装艦を使用した海軍の計画に強い不同意を示し、海軍の戦術の変更を軍令部に求めます。その後一部の雷装が撤去された大井は俊足を生かして高速輸送船として活躍することに。

 

 

 

1944年7月19日、

哨戒任務中に米潜水艦フラッシャーの雷撃を受け

船体を切断されながら153名とともに沈没。

 

 

 

 

 

 

 

昭和20年8月9日午前6時、グラマン戦闘機50機が八戸に来襲、

海防艦稲木は八戸港蕪島沖で米軍グラマン編隊群との間に壮絶な戦いを展開、

ロケット弾を集中的にあびせられ「八戸の盾」となって沈没していきました。

 

 

 

 

 

 

 

 


風荒れ雨はくるうじも 草木は空にもえ出でて
やがて青葉にいろどられ 真夏の苦熱如何あらん
ますらたけおの胸の血は 青葉の如くもゆるなり

 

…と刻まれた重巡洋艦青葉の碑です。

 

 

 

↑先日の秋の夜長参拝の時に遊就館で撮った青葉。

ソロモンでの激戦を、何度となく傷つきながらも不死鳥のように蘇り戦い続けた青葉…

青葉といえば中曽根康弘 海軍主計中尉(その後少佐、てか元首相)が乗ってた艦です。

 

1942年(昭和17年)10月11日

難攻不落のヘンダーソン飛行場基地の砲撃に備えて青葉はガダルカナル島へと進んでいたのですが、前方に艦影が確認されます。これを先に揚陸作戦のために向かった日進隊と誤認した青葉は、その艦影に向けて「我青葉…」という発光信号を放ちました。
しかしそれが敵艦隊だったため、返ってきたのは砲弾の嵐でした。
 

初弾がいきなり青葉に直撃し、艦橋と主砲を破壊された青葉はあっという間に大破、この時に艦橋内にいた艦の幹部がことごとく死傷し、艦内はたちまち大混乱に陥ります。
その後も容赦なく攻撃を受けた青葉は、乗員の7割もの死傷者が発生するものの、弾薬庫と機関を守りぬいて煙幕を張りながら戦場を離脱。その道を作ったのは古鷹でした。旗艦の危機に、古鷹は探照灯を敵艦隊へ放ちながら突撃します。青葉の前に割って入った古鷹は、青葉を逃がす形で攻撃を一手に引き受けました。

古鷹は90発以上の砲弾を浴び、ついに航行不能となります。戦闘終了後、初雪が接舷して乗員救助を試みますが、古鷹は浸水により激しく傾斜していたため接舷できず、総員退去の後、軍艦旗を降ろした古鷹は艦尾から海中に没していったそうです。

 

10月15日午後、青葉はトラック泊地へ帰投。その際に山本五十六連合艦隊司令長官が本艦を訪問し、損傷状況を視察しています。命中弾は不発弾が多く、のちに修理時に検分した造船士官は「仮に全砲弾が炸裂していれば沈んでいた」と述べていいます。不発弾の多さに対し山本長官は「もふ此の戦には決して負けないと云ふ自信が出来た」と周囲に語ったそうです。これが戦艦青葉が「不死鳥の如く」、といわれた所以でしょうか。

 

 

 

 

 

 

重巡洋艦古鷹の碑。

1942年(昭和17年)10月12日、サボ島沖にて沈没。

 

 

 

 

 

 

合掌。つづく

 

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