終戦から69年です。
先の大戦で戦い、尊い命を失われた御英霊へ心より追悼の意を表します。

黙祷










(今年六月 靖国神社にて)









さて、筑波海軍航空隊のつづきでございます。
終戦の日に、あるお話をひとつ紹介させていただきます。





昭和20年のこと。

作家の山岡荘八氏は、海軍の報道班員として鹿児島の鹿屋基地に配属されます。
野里村、そこには桜花や零戦で特別攻撃をする「神雷部隊」がいて、
その多くは学鷲とよばれる予備学生たちでした。

みな自分から志願した者で、もはや動揺期は克服していて屈託なく明るい。
山岡氏は、この「必死部隊に漂う底抜けの明るさ」がなぜ隊員達にあるのか?
いつか解きたいと考えていました。
和綴じの署名帳を持って隊員たちに揮毫を求めたりしながら積極的に話しかけ、
隊員たちの行動や考えを知ろうと努めます。



その中で出会った西田高光中尉(予備13期)。
あるとき山岡は思い切って、当時は禁句であったこんな質問をしてみました。

「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのか?負けても悔いはないのか?」
「そんな心境にどうやってなったのか?」

その問いに、西田中尉が答えます。
西田中尉は入隊以前、19歳の若い教師として郷里大分の国民学校に奉職。
68名の教え子に兄と慕われる人物だったそうです。

「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。
しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです…」
「おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、
その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに…」






西田高光 海軍中尉
神風特別攻撃隊 第五筑波隊長として
昭和二十年五月十一日、鹿屋基地から出撃。




西田中尉の出撃の2日前、死装束となる新しい飛行靴が配給されました。
すると、彼はすぐに部下の片桐清美一飛曹を呼び出し、
「そら、貴様にこれをやる。貴様と俺の足は同じ大きさだ」と言った。

いかにも町のアンチャンという感じの片桐一飛曹は顔色を変えて拒みます。
「頂けません。隊長のくつは底がパクパクであります。隊長は出撃される・・・要りません」
と。

すると
「遠慮するな。貴様が新しいマフラーと新しい靴で闊歩してみたいのをよく知っているぞ」
「命令だ。受取れ。おれはな、靴で戦うのでは無いッ」

五月十一日の朝、
西田中尉はボロボロの飛行靴をはいて、500キロ爆弾と共に大空へ飛び立って行きました。
山岡氏は見送りの列を離れ声をあげて泣いたという。





西田中尉出撃の2日後、中尉の母と兄嫁が基地に訪ねてきました。
真実を話せなかった山岡氏は、中尉は前線の島に転勤したとウソを告げ、
休息所となっていた小学校にに案内しました。
しかしそこには「西田高光中尉の霊」が祀られ香華がそなえてありました。

あわてた山岡の耳元に兄嫁が「母は字が読めません」とささやきます。
場を取りつくろったつもりで2人を控室に伴い、お茶が出されたその時でした。

「ありがとうございました。息子がお役に立ったとわかって、安心して帰れます」

山岡氏はいきなりこん棒でなぐられた気がした、という。
文字は読めなくても母親の勘ですべてを悟った中尉の母。
丁寧に挨拶し、兄嫁を励ましながら涙一滴見せずに立ち去ったそうです。





以上です

「その後の日本人」「民族の誇り」。
そこまで見据えて飛び立って行かれた方が、かつて沢山いたのですね。

今日の日本の繁栄が、こうした戦陣に散り戦禍に斃れた方々の
尊い犠牲の上に成されたものであることを決して忘れてはならないし、
感謝していかなければならない。

そう思っております。
















来週は、旅にでます。(^_^)/~~