宇佐海軍航空隊へ その1からの続き。

次に教覚寺へやってまいりました。
昭和20年4月21日以降、宇佐空は空襲で甚大な被害を受けて航空隊は壊滅し、
司令部等庁舎は隊の東側、駅館川の対岸の崖に掘られた防空壕への移動を余儀なくされます。
兵員たちは飛行場周辺にある国民学校や寺院に分宿していました。
教覚寺は空爆が激しくなってきたその頃に、射爆班の兵員たちが宿舎としていた場所。
本堂には70人もの隊員が寝起きしていました。
烹炊所は境内の隅に大鍋をすえ野外烹炊だったそうです。



$海とひこうき雲


↑広い本堂も、その当時は70人からの隊員で狭く感じられたとか。
しばしば敵機が来襲し空襲警報が鳴る状況下ではありましたが、上陸はあったそうで、
隊員たちは第二種軍装(白服)では敵機に発見されやすいので第三種軍装(草色の開襟服)を
着用し、隣りの長洲の町などへ繰り出し、息抜きをしたそうです。
(海軍ではすべて艦が基本なので、地上の航空隊であっても艦隊用語を使います。
航空隊の基地から外に出ることも「上陸」と言うのだ。 )




次に爆弾池に向かいました。
広大な麦畑の中なので果たして見つかるのか?と心配だったのですが、
あらかじめ本で調べた大体の場所と自動偵察装置(カーナビ)、
そして宇佐市の案内板のおかげで辿りつけたっす。

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↑爆弾池。
訪ねたときは水がたまっていませんでした汗
B29の空襲による時限爆弾でできた穴で、
戦後間もない頃は宇佐空には爆弾の穴が無数にあいており、
大きいものでは直径30mほどもありましたが、現在残っているのはこの穴だけ。
戦争による惨状を後世に伝えたいと言う土地所有者の強い思いによって、
残され保存されています。







次に宇佐空の施設跡などを巡ったッス。
下の3ヶ所は、この表示板の先は案内がないので、
よ~く探し回ったり下調べがないと見つけにくいかもです。

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↓レンガ建物。パラシュートなどの、
航空隊で使われる兵器の整備が行われた建物だそうです。
   
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二階の丸の印は、最優先で守る建物であることを示しているらしいっす。
建物の表面には機銃掃射による穴が無数にあいています。

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飛行場通信室(電信室)跡。
航空隊の敷地に隣接した麦畑の中にあります。
この上に受信用の鉄塔が建っていたそうでコンクリートの入り口は6ヶ所あり、
半地下の内部へ続いています。

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↓いちばん左の入り口は、
こんな感じでゴミでふさがってたので、入らなくて済むかと思いきや…

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↓真ん中はふさがってなく、おそるおそる中へちょっと入り撮影。
暗くて狭いところは苦手なんス(>_<)意外となかはカラッとしてましたが…。

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↓無線受信室の跡。この上にも受信塔が立っていたそうです。

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↓無線受信室の裏にコンクリート製の建造物の遺構がありました。
航空隊の何らかの施設の跡と思われます。
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もう一つ、基地の遺構にエンジン調整室跡というのがあるのですが、
道に迷って住宅地のなかの狭い道路をぐるぐる走り、それらしきものを見かけましたが
写真を撮り損ねました。庁舎などがあった場所の遺構は、
いずれ徒歩でゆっくりまわってみたいです。






↓宇佐海軍航空隊忠魂碑は
昭和20(1945)年に宇佐航空体内に建てられましたが、その後の空襲で倒壊。
畑に埋まっていたものを戦後柳ヶ浦高校の斜め向かいのこの地に移築したもの。
日独伊三国同盟に反対した海軍三羽ガラスの一人、米内光政が筆を執ったものです。
毎年4月16日に慰霊祭が行われます

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↓傍らには、
この地から特攻に出て行った21歳から27歳までの海軍予備学生74名の氏名が
刻まれている碑があります。

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宇佐海軍航空隊へ その3 へ続く