鎌倉今昔 前編 | 洋左右的人生

鎌倉今昔 前編

 

          ヨット、サーファー、春の海

気持ちの良い昨日の日曜日、鎌倉に出かけた。

東京を出たのは、去年の5月以来になる。

小田急線成城学園前駅から急行に乗り、町田駅で江ノ島線に乗り換え、

藤沢駅で下車、江ノ電に乗り、鎌倉を目指した。

霞の向こうに江ノ島を見る。1964年の東京五輪のヨット会場となり、

ハーバーが整備されたこともあり、その後ヨットが急激に増えた。

東京に来るまで泳げなかった私は、島の裏側で、祖父に海に投げ込まれて、

泳ぎを覚えた。後の戸塚ヨットスクールのような滅茶苦茶なやり方で、

溺れまいと必死でもがき、いつの間にか平泳ぎができた。それからはクロール、

背泳ぎなどを覚え、高校の時は遠泳までこなすようになった。

 

稲村ケ崎から江ノ島にかけては、波の浸食で砂浜がほとんどなくなっている。

砂浜の減少は日本全国で起きているという。

中学生の頃、この辺りでパラソルを開き、稲村ケ崎の岩場でサザエを採ったりしたが、

その面影はない。

 

1945年(昭和20)8月15日、母は東京で勤労動員の後、皇居に行かされ、

玉砂利に正座して玉音放送を聴き、宮城に向かって、頭を垂れ、

天皇に敗戦を詫びた。

その夜、鎌倉に戻ると、この相模湾の水平線を米国の軍艦が埋め尽くし、

勝利を祝うかのように、イルミネーションを灯していて、

母はその美しさに見入ったという。

写真を撮ったのは、鎌倉高校前駅の正面の海。

ここで、次の電車が来るまでの間、マスクを外し、潮の香を思い切り吸い込んだ。

海風はやや強かったが、日差しがその風を温風にしたかのように、

心地よく、ジャンパーを脱いで風に吹かれた。

 

この駅の隣にある踏切は漫画「スラムダンク」に登場してファンの聖地となり、

コロナ以前は、多くの台湾人がこの駅で下車して、踏切で写真を撮っていた。

今は外国人の姿はほとんどなく、この日の江ノ電も座席が8割ほど埋まる程度で、

空いていた。

江ノ電は現在4両で運行しているが、当初は2両で

東京五輪前後には「廃止」も検討されたほど、乗客がいなかった。

そもそも鎌倉は、海と山に挟まれた小さな町で、名所と言えば

大仏と鶴岡八幡宮くらいで、観光地ではなかった。

江ノ電廃止については、川端康成や小林秀雄、中村光夫などいわゆる

鎌倉文士たちが存続を訴えたこともあり、廃線を免れた。

その後、江ノ電の極楽寺駅周辺を舞台にしたドラマ「俺たちの旅」が

1975年秋から放送されると、江ノ電沿線や鎌倉には観光客が押し寄せ、

現在の賑わいの発端となった。

私が子供の頃、祖父の家が極楽寺にあり、夏休みはここで過ごした。

その当時、この駅は無人駅だった。

JR鎌倉駅前、人出はまばらで、シャッターを下ろしている店も目立った。

 

次は小町通と周辺を散策しながら、あの頃と今の鎌倉を記します。