心理カウンセラーの風湖です。
この1年間の間にコロナの影響で、仕事のやり方が変わったり、転職したり、移動があったりと、働き方が大きく様変わりした方も多いですよね。
それでも生きていくためには、やはり働いて、お給料をいただくことはとても大切なことだと思います。
しかし、自分の人生、それだけでいいのか、何のために働いているのか、どうしてこんなに努力邁進しているのに、生活が楽にならないのか。と、感じている人も多いのではないでしょうか。
「アリとキリギリス」という有名な童話があります。
夏に、アリが冬に備えてせっせと働く傍で、キリギリスは陽気にバイオリンを弾きながら遊んで暮らしています。
冬になって食糧がなくなると、キリギリスは困り果て、アリに助けを求める、という内容のお話です。
「働かざるもの食うべからず」という言葉は、キリスト教の新約聖書に出てくる一節です。
今も昔も、世界中でこうした言葉を使い、それがいつしか価値観に変わり、その考え方に共感する人も多いのではないでしょうか。
ただ日本人は、その「働く」という目的を少しだけ間違えて解釈している人が多いのではないかと感じます。
ただやみくもに必死に働いていれば、いつか生活が楽になるということとは、少し違うようですよ。
ところで、「働き者」とはどのような人のことを指す言葉なのでしょう。
「働く」という言葉の語源は、「はた」を「楽にする」ということなのだそうです。
周りのことを「はた」と言いますから、周りを楽にする、誰かの役に立つという意味になります。
私達がこの世に生を受けた目的とは、いかに「喜ばれる存在になる」かということです。
「喜ばれる存在になる」ということはすなわち、自分が身体を使って汗を流していると、周りを楽にさせてあげられる、ということなのです。
ちなみに、周りの人に迷惑をかけることを、「はた迷惑」という言葉で表すのだそうですよ。
したがって、自分で自分の達成目標を立てて、それに向かって努力したり、頑張ったり、必死になるというのは、働くことの本質ではないということです。
そして、お金を稼ぐという意味も、実はそこには存在していないのです。
働くと言っても、その働き方は人それぞれです。
毎日会社でデスクワークで働く人もいれば、農業や小売業で身体を使って働く人もいます。
オーケストラやミュージシャンとして働く人もいれば、作家や画家、アーティスト、カメラマン、デザイナーなど、自分の感性を活かして働く人もいます。
私達のようにカウンセラーとして働く人も、お寺の住職さんとか、教会の神父さん、牧師さん、アナウンサーや雑誌記者、ジャーナリスト…。
その人の仕事の内容によって、働き方も収入もさまざまだとは思いますが、どんな働き方にせよ、どんな収入にせよ、この世にいらない仕事は何ひとつないのです。
どんな仕事でも、「働く」ということは、その存在が誰かの役に立っている。
誰かを喜ばせることができるという意味では、幸せなことにつながるのです。
自分が誰かに喜ばれる存在だと感じることが出来るのであれば、ストレスは無いはずです。
「こんなに頑張っているのになぜなんだ!」と言いながらストレスで体を壊したり、周りに不平不満をふりまいているのでは、結局「はた迷惑」な存在でしかなくなってしまいます。
自分が誰かの喜びになっていると実感できるのであれば、名声や収入を得るというよりも、自然に生活が出来るだけのお金も幸せも、やがてすべてが与えられるのではないか、と、私は思います。