心理カウンセラーの風湖です。




 「夫はとんでもなく頑固な人なんです。もう、我慢の限界なんです!」




 夫婦喧嘩が絶えないというその女性は、もう長い期間、自分だけが我慢をし続けてきた、と訴え、怒っていました。




 「我慢」という言葉は、「忍耐」や「辛抱」という意味で使われていますが、実はそうではなく、本来の仏教用語では「我が慢心すること」なのだそうです。




 つまり、「我慢する」とは、「うぬぼれる」「傲慢になる」ことが本来の意味だというのです。




 「自慢」という言葉と字も似ていますよね。

 驚いたことに、「我慢の限界」というのは、「

うぬぼれの限界」ということになるのです。




 そうなると、この本質的意味での「我慢」の意味は、目から鱗というか、非常に興味深いものだと思います。





 「我慢」の本来の意味から考えてみると、「我慢する」こととは…、


 「侮辱された」

 「軽く見られた」

 「メンツを潰された」

 「プライドを傷つけられた」

 「バカにされた」

 「良い扱いをされなかった」

 「自分の意見や提案を聞いてもらえなかった」


 というところから始まるということになるのです。




 それは、

 「自分はたいした存在である。」

 というプライドから生まれる言葉なのかもしれません。




 「桶裏の水、飯裏の飯」

 という言葉があります。




 これは、水はいつか水桶に納まる。米はいつか米びつにおさまる。という意味です。

 つまり、すべてのものは、いつか納まるべきところに納まる、ということなのです。




 「自分はたいしたものではない。」

 「たいした存在ではない」

 と思うと、「自分は」「自分だけは」「自分こそ」と、考えていた多くのことがどうでも良くなってきますよね。




 それは、「傷つく自分」も、「不愉快に思う自分」も存在しない状態になるということです。




 「自分がしっかりしなければ。」

 「この部署には自分が必要だ。」

 「自分がいなければこの会社は成り立たない。」



 という風に人は考えがちですが、本当にそうなのでしょうか。




 結果にこだわって行動していると、それまでの自分の努力の証明が欲しくなってしまいますね。

 そうすると、結果ばかりが気になって、常に自分を苦しめてしまいます。





 こだわりを捨てて、自分自身のために、楽しく種まきだけをしていきましょう。

 それだけで、花を開くのを見るのも、実が成るのも、自分で確認しなくても、それを見た誰かが喜んでくれたら、それで良いのです。




 美しく咲いたあなたの結果は、そろそろ次の人に委ねましょう。

 それで良いのです。

 そう考えれば、目の前で結果がすぐに出て来なくても納得できます。




 我慢しても、納得のいく結果はすぐには現れない場合も多いのです。

 それよりも、どのように生きれば素敵か、魅力的か。

 今の自分の生き方だけを見つめて、前を向いていきましょうね。