心理カウンセラーの風湖です。
サッカー元アルゼンチン代表の、ディエゴ・マラドーナさんが60歳で亡くなりました。
マラドーナさんは、アルゼンチン代表が優勝した1986年のワールドカップ(W杯)でキャプテンを務めました。
しかし、準々決勝のイングランド戦では、有名なルール違反である「神の手」ゴールを決め、それに対して本人の謝罪が無かったことも問題となりましたね。
それが良いとか悪いとかは別として、人間はどうして「ルール」を作るのでしょうか。
私は、集団の中でルールが自発的に出来てしまうことをとても面白く感じます。
たとえばそのサッカーで言えば、私達人間は、両手を自由に使える動物なのに、それをあえて使えないことにして、足でしか競技出来ないスポーツにしています。
そういう風変わりなルールが、集団の中に自然に生まれて来るというのが不思議ですよね。
「お祭り」や、「お葬式」などもそうですが、よくよく考えてみると、理不尽で不可思議なルールが、その地域の社会では常識としてまかり通っているのです。
その利点としては、集団の中でルールを加えることによって、やはりその社会が団結しますし、なにより人間関係がスムーズになるという点もありますから、それも納得です。
そう考えると、ルールが無い無秩序さ、ルールがなくなることのつまらなさ、というのもなんとなく理解できますよね。
それでも、あえて意地悪な視点で世界中のスポーツや社会の規則を見ていると、ルールでわざと不自由さを作って、「不自由が生む面白さ」を人間は楽しむ余裕を持っているようにも思います。
しかし私達は、先人達が作ったルールを当たり前の習慣として、毎日守りながら生きています。
もちろん、そこにはモラルや相手への優しさなども考えられてはいますが、よく考えると、もしかしたら「不自由さを正しさと理解させて、強要している何か」が存在しているのかもしれないのです。
ですがその上で、何の疑問も持たずに、日本の社会のルールを自分の常識や価値観だと思い込んでしまっていないかを、今一度考えてみることも必要なのかもしれません。
「〇〇しなければならない。」
「〇〇するべき。」
「なぜなら、それが当たり前なんだから。」
そのように考えて、自分の使命や役割を封じ込めてしまっていませんか?
人は、みんな天才プレーヤーなのです。
もしかしたら、人間の可能性や才能は、ルールを超えたところに存在するのかもしれませんね。