心理カウンセラーの風湖です。

私の夫は、13年前の交通事故で頭を強く地面に打ちつけてしまい、その激しく揺さぶられた脳が頭蓋骨に激突して弾け飛び、脳内のほとんどがボロボロに分離してしまいました。

そこから脳の萎縮が始まり、全ての記憶、感情、要求、感覚が失われてしまいました。ですから身体もほとんど動きません。社会生活が出来ない為、今は完全介護の障害者施設で生活しています。

夫の病名は「高度脳機能障害」と言います。
記憶をすることが難しくなる病気です。

同じ病名でも軽い症状の方は普通に生活は出来ているようです。しかし、私の夫は様々な病状が重なってしまって、非常に重い症状で固定されてしまいましたから、毎日のほとんどをじっとしたまま過ごす、いわゆる植物状態になりました。

そして何より驚いたのは、夫の人格が全く変わってしまった事です。

事故を起こす前の夫は、穏やかで優しく、静かな性格でしたが、事故後の夫は時々短気でわがままで、気に入らない事があると大声で癇癪を起こしたり、時には暴れる様な仕草をしたりする様になりました。

認知症の方にも時々現れるそうですが、いわゆる多重人格に似たこのような症状は「解離性人格障害」と呼ばれるそうです。
記憶障害の一種なのだそうです。

記憶を思い出せないから「人格」が変わってしまうのです。そして、記憶障害が起きて特定の記憶が抜け落ちると、残った情報に辻褄を合わせるように別の人を演じるようになります。

つまり、私達が自分の性格だと思い込んでいる人格とは、自分の記憶から自分自身で作り出している物だと言えるのですね。

夫は、記憶の痕跡自体はあっても、どの情報を読み出すかのスイッチが機能していないために、多重人格のような症状が現れるようです。

私が夫と会って話をしていても、子供の頃の記憶はあるのに、それが過去の事なのか、数年前の事なのか、今の事なのか分からないようです。

夫は56歳ですが、彼の記憶は、ずいぶん昔の少年の頃から止まったままのようです。
恋愛結婚をしたはずの妻である私の記憶もすっかり無くなってしまいました。

ですから、私が夫に会いに行く時は、毎回必ず「はじめまして」から始まります。
最初は寂しさを感じましたが、最近では少しホッとする時があります。

それは、夫が私を見る時に「知らない人がいるけど誰なのかなぁ。」という表情はするのですが、「どこかで会った事があるような気がする。」と思ってくれているような笑顔を見せてくれる事です。

健康な私達でも、名前は全然出てこないのだけれど、前に楽しい会話をしたような気がする、という親近感を感じる事がありますよね。

それと似た感情が、私を見つめる夫にもある事がなんとなく伝わって来るのです。
何故か懐かしい様な、親しみを感じるという感覚の事を、「親近性(ファミリアリティ)」というそうです。

ですから、夫がこの病気と闘って行くに従っていろいろな物を失って行く中で、長年連れ添った妻が「良いヤツ」だという認識はまだ失われていないという事に、少し心が和みます。

そしてもうひとつ、夫を見ていて気付く事があります。それは、自分の年齢を知らない(記憶に残っていない)という事は、その見た目にも影響を与えるという事です。

年齢を重ねて行くたびに、鏡に映る自分の顔を見ながら、ため息とともにその見た目を年齢のせいにしていませんか?
私は、年齢の記憶だけは忘れても全然大丈夫なのでは無いかと思うのです。

実際夫と会うと、私はどんどん歳を重ねて行くのに、夫は自分が少年だと思い込んでいますから、いつまでも目をキラキラと輝かせて肌もツヤツヤです。

忘れてしまっている記憶は、無理にでも思い出さない方がいい場合もあるという事ですね。

今でも夫は私の心の支えなのです。

彼が私に残してくれた記憶とともに、私は心理学を通して生きていく希望を伝えて行くつもりです。