Fix error code 200 "division by zero" in Turbo P | Institute of Reproducing Kernels

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Fix error code 200 "division by zero" in Turbo Pascal  

 

 

再生核研究所声明620(2021.6.6) 2300年以上の永い 神秘的な歴史を有する ゼロ除算は、本質的に解明された。その基本著書が出版され、ゼロ除算算法の国際雑誌の創刊が決まった。

ゼロで割れない という 永い世界の常識は 変えられるべきであり、新数学と新世界が現れた。それらの基本的な内容は 著書

INTRODUCTION TO THE
DIVISION BY ZERO CALCULUS
SABUROU SAITOH
January, 2021

https://www.scirp.org/book/DetailedInforOfABook.aspx?bookID=2746
https://www.amazon.com/dp/1649970889?ref=myi_title_dp
https://books.google.com.ua/books/about?id=BnkZEAAAQBAJ&redir_esc=y
https://play.google.com/store/books/details?id=BnkZEAAAQBAJ

に出版され、ゼロ除算算法の概念で、その雑誌名で、国際雑誌の出版が決まった。 雑誌創刊号には 次のような前書きが 添えられている:

Aller Anfang ist schwer
Preface for the first volume of the DBZC Journal:
Following the site:
https://romanpub.com/dbzc.php
we publish the first volume with the basic papers:

1.Saburou Saitoh: History of Division by Zero and Division by Zero Calculus (38 pages )
2.Hiroshi Okumura: Geometry and division by zero calculus (36pages)
3.Wolfgang Daeumler: The horn torus model in light and context of division by zero calculus (20 pages)
4.Jan Aldert Bergstra: Division by Zero in Logic and Computing (27 pages)
5.Sandra Pinelas: Division by zero calculus in ordinary differential equations (4 pages) - in Short Notes
6.Saburou Saitoh: An Idea of Fermat for the Stop and Division by Zero Calculus (2 pages) - in Short Notes

For the first volume, I would like to consider a special volume for the Journal starting.
In my idea on the division by zero calculus, the elementary mathematics is fundamental and will give a great impact to mathematics and human beings with a new world concept. Therefore, I would like to show its basic idea with many evidences and historical facts with Dr. Okumura and Professor Pinelas.
Dr. Wolfgang Daeumler is interested in his horn torus over 30 years as his hobby. We found that our division by zero calculus may be realized on his horn torus and so, with very exciting way, we can say:
From Riemann sphere to Daeumler - Puha horn torus
or
From Euclid - Riemann to Daeumler - Puha horn torus models.
Therefore, we used his Figure as the symbol of the division by zero calculus.
Meanwhile, Professor Jan Aldert Bergstra is the great leader on the division by zero with computer science over many years. His wide viewpoint on the division by zero is definite over the world.
These two great papers are special by their founders of the topics and so, I did not request any corrections by considering papers as arts by the authors over mathematics, however, I requested their best.

Saburou Saitoh
2021.6.3

以 上

2021.6.6.04:24

 

 

Reproducing Kernel Research Institute Statement 620 (2021.6.6) Division by zero, which has a long and mysterious history of more than 2300 years, has been essentially elucidated. The basic book was published, and it was decided to launch an international magazine on division by zero.

 

The common sense of his long world, which is unbreakable at zero, should be changed, and new mathematics and a new world have emerged. The basic contents of them are books

 

INTRODUCTION TO THE

DIVISION BY ZERO CALCULUS

SABUROU SAITOH

January, 2021

 

https://www.scirp.org/book/DetailedInforOfABook.aspx?bookID=2746

https://www.amazon.com/dp/1649970889?ref=myi_title_dp

https://books.google.com.ua/books/about?id=BnkZEAAAQBAJ&redir_esc=y

https://play.google.com/store/books/details?id=BnkZEAAAQBAJ

 

It was published in Japan, and the publication of an international magazine was decided under the name of the magazine under the concept of division by zero. The first issue of the magazine is accompanied by the following preface:

 

Aller Anfang ist schwer

Preface for the first volume of the DBZC Journal:

Following the site:

https://romanpub.com/dbzc.php

we publish the first volume with the basic papers:

 

1.Saburou Saitoh: History of Division by Zero and Division by Zero Calculus (38 pages)

2.Hiroshi Okumura: Geometry and division by zero calculus (36pages)

3.Wolfgang Daeumler: The horn torus model in light and context of division by zero calculus (20 pages)

4.Jan Aldert Bergstra: Division by Zero in Logic and Computing (27 pages)

5.Sandra Pinelas: Division by zero calculus in ordinary differential equations (4 pages) --in Short Notes

6.Saburou Saitoh: An Idea of ​​Fermat for the Stop and Division by Zero Calculus (2 pages)-in Short Notes

 

For the first volume, I would like to consider a special volume for the Journal starting.

In my idea on the division by zero calculus, the elementary mathematics is fundamental and will give a great impact to mathematics and human beings with a new world concept. Therefore, I would like to show its basic idea with many evidences and historical facts with Dr. . Okumura and Professor Pinelas.

Dr. Wolfgang Daeumler is interested in his horn torus over 30 years as his hobby. We found that our division by zero calculus may be realized on his horn torus and so, with very exciting way, we can say:

From Riemann sphere to Daeumler --Puha horn torus

or

From Euclid --Riemann to Daeumler --Puha horn torus models.

Therefore, we used his Figure as the symbol of the division by zero calculus.

Meanwhile, Professor Jan Aldert Bergstra is the great leader on the division by zero with computer science over many years. His wide viewpoint on the division by zero is definite over the world.

These two great papers are special by their founders of the topics and so, I did not request any corrections by considering papers as arts by the authors over mathematics, however, I requested their best.

 

Saburou Saitoh

2021.6.3

 

that's all

 

2021.6.6.04: 24

 

 

再生核研究所声明621(2021.6.7) 数学界改革の提案、少数意見、世にも稀なる意見

ここでは始めに構想する あらまし、大局的な提案の方向を述べて置きたい。 発想の元は 下記の、無の心境からの 率直な意見で、世にも稀なる人物による 自由な意見の表明である。

再生核研究所声明619 新世界から ー 心境の変化を受けて

(新世界から、新しい精神で、数学界、社会、歴史に向かって 率直な 意見表明を始めるだろう。無の精神で である。
その心を 整えているが、
楽しい数学者
としての 発信を考えた。秀才、天才の数学者と違った視点からの発信である。
実際、数学界は 偏っていて、社会的な存在の視点から、暗い、小さな存在 になっていると考える。
新しい世界を拓く必要がある と考える。
2021.6.3.8:55)

そもそも数学界とはどのようなものだろうか。大局として数学が好きで、数学ができる人達によって構成されているとの世情で 一応優秀な人達によって構成されていると考えられているのではないだろうか。そのような精神が、数学者を不遜な態度にさせて、数学先生嫌い、数学も嫌いな生徒を 社会に送り込んで来ていると見られる。大いに反省させられる。
ゼロ除算の理解を求めてきて7年を越えてしまったが、理解の遅れに 数学界に何か問題があるのではないか との存念が湧いてきた。現代数学には基本的な欠陥があり、教育にも基本的な問題がある と公言しているにも関わらず、大勢として無視され続けられている現状が広く存在する。普通だと 問題提起の性質上の重要性から、数学界は真剣に 相当に 第1義的に 議論し、真相を明らかにすべきではないだろうかと考える。そうならない理由を考えてきている。

内容よりも そう言っている人物を無視すること、
基本的な問題なのに 真相を明らかにしようとしない姿勢、態度、
事の重要性を知っても 沈黙を守り、真理を社会的に明らかにしようとしない、
間違いや誤解に気づいても 改めず、それらを隠したり、無視の態度をとり続ける、
まるで研究業績を争って 競争心ばかりが強く、仲間中心で、自分たち以外の人たちを排除する狭い考え、
一般に数学界は 社会から超然としていて 社会貢献の意識が弱すぎるのではないだろうか。
数学界の数学教育界への貢献は 悪い教育が多く、マイナス面が多く、研究成果の社会貢献は さらに小さく、自分達の趣味的な研究が多いのが現状ではないだろうか。
数学を能力や入試の選別の手段に悪用しているような状況が強く見られる。
 これらの状況を総合的に評価すれば、数学界は 数学の社会貢献が期待される面で、それらの基本的な役割を果たしているとは言えず、独善的で 閉鎖的な社会を作り、全体的にはどうでも良いようなことに エネルギーを費やし、悪しき数学界を構成していると考えられる。

これらの各論を 今後 具体例で掘り下げて行きたい。数学史研究会でお聞きした 江戸時代のある和算家 弟子3000名を有していたという話しを 数学の社会的な在りようの観点から触れたい。社会との関りで、現状で宜しいでしょうか。数学教育は、数学の教育の在るべき理念の方向でなされているでしょうか。また数学の先生は 数学教育の在るべき理念に沿ったような 人物であると 言えるでしょうか。

下記は 日本数学会の中止のために 幻の ゼロ除算、数学教育 関係の 講演構想になってしまった。そのアブストラクトラクの一部を付記したい:
_______________________
第30回 工科系数学基礎教育研究会における講演
 (2020.3.17)  (タワー・スコラ 3 階 S304 教室) · (12:40~14:40)
 日本数学会 2020年度年会
       会場:日本大学理工学部(駿河台キャンパス)
       日程:2020年3月16日(月)より3月19日(木)
     アブストラクト: 群馬大学名誉教授 齋藤三郎
講演題名:
初等教育のカリキュラムの改正案と数学の研究教育体制について  - 教育原理、興味を持たせる教育
________________________

次に数学界の在りようについて: 社会を向いていない、数学の研究に注意が向き過ぎではないだろうか。社会的には スポーツ界ほどの影響も 世界に 影響していない。その他 いろいろなマスメデアから見ると 数学界の存在が 小さすぎるのではないだろうか。 数学を享受する文化の面から 見直す必要があるのではないだろうか。
人工知能を備えた計算機の発展は 数学をより 楽しむ、文化としての面が強まるのではないだろうか。利用する立場で 数学のある役割はどんどん減少すると思われる。研究の面でも、教育の面でも大きな変化が起きると考えられる。

数学を学んで、研究して、楽しい、役立ったと思える教育、研究を目指したい。
数学のための数学の精神が 強すぎではないだろうか。 共に楽しむ文化としての 数学を志向したい。

そのためには、数学の楽しい面を強調するような教育、数学を楽しむような教育を目指す。 学力は強くなくても 数学好きな生徒、学生を育てたい。

興味を持たせる教育法とは、活用できない学力を付けることではなくて、時間の余裕を与え 考えて本質を理解するような教育である。- 形式的な問題が解けるようにする訓練が多すぎるではないだろうか。特に数学で競争意識を駆り立てたり、能力を数学で評価するような世相は数学嫌いな生徒を世に出しているものと反省させられる。数学の知識や技術より、数学の心を大事に。競争より共感。個性の尊重。真智への愛。

社会的には、数学の基盤が弱くなっていると考えられる。 原理は、社会的に数学の良さ、数学者の良さを 示す必要がある、社会貢献は 高級大学でなければ 当然考える必要がある。ただ数学の研究だけでは 社会に受け入れられないのでは。 研究に走りすぎで、社会貢献に目をつぶっているように 社会的には 数学者はみなされているのではないだろうか。また、数学者が、尊敬されるような存在にならなければならないが、数学の研究の厳しさのために 逆に 数学者は 変わった人たちの集団と見なされているのではないだろうか。
社会を向いた数学を志向したい。もちろん、これは高級研究機関の在りようとは違う、多くの大学の在りようを 述べている。--  ただ神の意志に従って 真理の追究を行なう人たちの存在も 尊く、素晴らしい。

                                     以 上
 

再生核研究所声明 622(2021.6.14) 麻生財務相「微分積分いらない」発言 と 数学教育、教育について考える

まず、事実を次のように確認して、教育について考えたい。

麻生財務相「微分積分いらない」発言まさかの拍手喝さい?支持の裏にアキバの“あの演説”
5/26(水) 9:06配信



きっかけは麻生氏が昨年9月、ネットと通信制を活用した私立N高校(角川ドワンゴ学園)の政治部の特別授業(高校生のための主催者教育)に講師として参加した時の発言内容が最近、一部メディアで取り上げられたことだ。  麻生氏はこの時、日本の義務教育に触れ、「きちんとした教育はもう小学校までで十分じゃないかと。中学まで義務にする必要があるのかと」などと持論を展開。さらに「例えば、微分積分・因数分解とかやらされますけども、大人になってこのドワンゴの人だって因数分解を使った人だって居ないですよ。それが必要かね? 義務として」などと語った。 特別授業自体はユーチューブではすでに70万回以上再生されている。国会議員であり、かつ国家財政の最高責任者である人物が「微分積分や因数分解なんていらない」「義務教育は小学校まで」などと公然と言い放つ姿はクラクラしてしまうが、なぜか、この発言はネットなどで「さすが俺たちのローゼン閣下だ」などと注目されているというのだ。  麻生氏と言えば2006~07年の自民党総裁選で秋葉原の街頭演説に立ち、「秋葉原にお集まりのみなさん、自称秋葉原オタクのみなさん」などと呼び掛け、集まった聴衆から「ローゼン、ローゼン」と歓声が上がったほどの人気者。そのオタクたちが再び、麻生発言に反応しているらしい。 「『微分積分いらない』という麻生大臣の発言に『そうだ!』と好意的な反応を見せているのは、40~50代のかつてのオタクと言われた世代でしょう。1980年代に一世を風靡したアイドルグループ『おニャン子クラブ』のヒット曲『およしになってねTEACHER』の歌詞に『数学なんて チンプンカンプン まるで お手上げ 微分 積分 2次関数 絶対絶命 赤点ね』というフレーズが出てくる。麻生大臣はこのフレーズが頭に残っていて、思わず口にしたのだろうと。それが『やはり、オタクのツボを押さえている』と話題になったようです」(アイドル評論家)  
オタク人気はともかく、「微分積分いらない」と言い放つ麻生財務相の下で、国の借金はどんどん膨らみ続け、今や絶体絶命の大ピンチ。財務大臣としてはもちろん、国会議員としても赤点なのは間違いない。
また、次のような懸念が湧いてくるのではないでしょうか:

Hideaki Tanakaさんが回答を待っています:
科学や技術が発展していけば、それを理解するために必要な知識量も増えていくように思います。いつか人間が技術の最先端を理解できなくなる未来が来たりするのでしょうか?


偶然 数学教育の在りようについても 意見表明をして行くと述べたばかりである:

再生核研究所声明621(2021.6.7) 数学界改革の提案、少数意見、世にも稀なる意見

麻生氏の意見に共鳴する方は、驚くほどに多いのではないかと考えます。上記で提起されている問題は 極めて重要であり 多くの問題があるので、とりあえず、大局的に思い浮かぶ考えを纏めて、第1歩としたい。
その前に、コロナ禍に遭って、日本がワクチン開発とインターネット、情報化、デジタル化で いつの間にか世界から想像もしていなかった程に遅れをとっている現実を思い知らされて びっくりされているのではないでしょうか。これほど 何時の間にか遅れをとってしまった現実。どうしてかと反省させられる。思い浮かぶのは 原発事故、災害の多さの強い影響で、国力が減じていること。人的な本質的な問題は 教育の後進性、悪しき教育の影響が強く感じられる。おかしな教育の根本は 大學の法人化、評価評価の世相、共通テストの、入試の在りようにあるのではないだろうか。これらは あまりにも大きな問題なので、簡単に本質を触れたい。法人化と評価で、大學は忙しくなり、教育、研究どころではないような、異常な大學になってしまったと考える。宣伝ばかりに熱が入って、本末転倒の悪しき状況に置かれていると見られる。
さて教育内容の件であるが、麻生氏の発想の観点から、まず、状況として、AIやインターネットの発展、普及に伴って世界が大きな変革の時代を向かえている現実である。それらで、経済、社会の大きな変化は 相当に普遍的に及ぶと考えられる。そのような時に、教育の目標はどのように在るべきかが 大きな問題になる。これは従来の発想を超えて 絶えず創造的に考えて行かなければ 時代遅れの、変な教育になってしまうだろう。教育界は絶えず、新しい教育について検討、先取していく必要がある。姿勢に保守的な傾向が強い日本では 大いに警戒が必要であると考える。
入試、基本科目として、英語、数学が重視され、また知識の積み重ねを重視してきたが 果たして それで良いだろうか。 翻訳機能が格段に発展、直ぐに会話も相当に自由にできるようになるだろう。多くの数学の問題は 計算機が答えてくれ、やがて推論や証明に  検証すら可能な時代を迎えている。英語も、数学も必要ないと発想できる面が確実に増えて行くだろう。多くの知識は 検索機能で 幾らでも詳しい情報が簡単に得られる時代である。それゆえに教育の内容は 絶えず検討、更新されて行く必要がある。
この問題は大きいので、抽象的に考え方の要点を述べたい。

教育とは何か を絶えず、問うて行くこと、
教育効果とは 何かを問うて行くこと、
教育には 個人の個性を活かすことも大事なので、あまりにも 型にはめないで、自由の尊重も考えたい。
多様性の視点は 基本的に大事なので、統一的な扱いには気を付ける、 
単なる知識より、考え方や背後にある精神を 大事にする。例えば 数学などいろいろな問題を解ける、あるいは知識や基礎力ではなくて、数学的な精神面の教育が大事ではないだろうか。論理的な思考や、哲学的な思考、根本を究める態度などである。量より質の教育を志向したい。
感性や、情念、自然性の尊重、
共感、共鳴、共生、友情の育成、伝統と文化の尊重、
徳育、宗教、哲学などは重視されなければならない。何のための人生か、人生とは何かを追及していく心の育成など。
芸術、文芸などは 重視されなければならない。

麻生氏の発想は極めて大事、尊重し、数学界は大いに反省して、数学教育の在るべき方向を模索して 社会に受け入れられ、評価されるような教育を考えて行きたい。

共通テストや大學の法人化など、悪しき方向で、マイナスの大きな 愚策に当たるのではないだろうか。変な勉強、押しつけ教育は改善して行きたい。歴史上、入試の在りようなど すっかり変わり、変な時代が有ったと 回想される時代が来るだろう。

付記:

下記は 日本数学会の中止のために 幻の ゼロ除算、数学教育 関係の 講演構想になってしまった。そのアブストラクトの一部を付記したい:
_______________________
第30回 工科系数学基礎教育研究会における講演
 (2020.3.17)  (タワー・スコラ 3 階 S304 教室) · (12:40~14:40)
 日本数学会 2020年度年会
       会場:日本大学理工学部(駿河台キャンパス)
       日程:2020年3月16日(月)より3月19日(木)
     アブストラクト: 群馬大学名誉教授 齋藤三郎
講演題名:
初等教育のカリキュラムの改正案と数学の研究教育体制について  - 教育原理、興味を持たせる教育
________________________

次に数学界の在りようについて: 社会を向いていない、数学の研究に注意が向き過ぎではないだろうか。社会的には スポーツ界ほどの影響も 世界に 影響していない。その他 いろいろなマスメディアから見ると 数学界の存在が 小さすぎるのではないだろうか。 数学を享受する文化の面から 見直す必要があるのではないだろうか。
人工知能を備えた計算機の発展は 数学をより 楽しむ、文化としての面が強まるのではないだろうか。利用する立場で 数学のある役割はどんどん減少すると思われる。研究の面でも、教育の面でも大きな変化が起きると考えられる。

数学を学んで、研究して、楽しい、役立ったと思える教育、研究を目指したい。
数学のための数学の精神が 強すぎではないだろうか。 共に楽しむ文化としての 数学を志向したい。

そのためには、数学の楽しい面を強調するような教育、数学を楽しむような教育を目指す。 学力は強くなくても 数学好きな生徒、学生を育てたい。

興味を持たせる教育法とは、活用できない学力を付けることではなくて、時間の余裕を与え 考えて本質を理解するような教育である。- 形式的な問題が解けるようにする訓練が多すぎるではないだろうか。特に数学で競争意識を駆り立てたり、能力を数学で評価するような世相は数学嫌いな生徒を世に出しているものと反省させられる。数学の知識や技術より、数学の心を大事に。競争より共感。個性の尊重。真智への愛。

社会的には、数学の基盤が弱くなっていると考えられる。 原理は、社会的に数学の良さ、数学者の良さを 示す必要がある、社会貢献は 高級大学でなければ 当然考える必要がある。ただ数学の研究だけでは 社会に受け入れられないのでは。 研究に走りすぎで、社会貢献に目をつぶっているように 社会的には 数学者はみなされているのではないだろうか。また、数学者が、尊敬されるような存在にならなければならないが、数学の研究の厳しさのために 逆に 数学者は 変わった人たちの集団と見なされているのではないだろうか。
社会を向いた数学を志向したい。もちろん、これは高級研究機関の在りようとは違う、多くの大学の在りようを 述べている。--  ただ神の意志に従って 真理の追究を行なう人たちの存在も 尊く、素晴らしい。

                                     以 上

 

 

再生核研究所声明 623(2021.6.13) 数学界の大罪、数学者の大罪
(これは2021.6.11.4:00 時前 ひとりでに 突然湧いてきた考え、構想である)

数学と数学者を愛するには、それらの弱点を辿って焦点を合わせて反省、改善して行くのも良い発想ではないだろうか。構想は広く広がり個々の問題も多いので まずは中枢的な事に触れたい。新世界から従来の世界をみると、いろいろ問題が次々に湧き、改善すべきは極めて多いように感じられる。
根本を見るには、もっとも典型的な事実、良く知られている顕著な実例を見ることが良いのではないだろうか。そこでまずは、ピタゴラスと数学の王ガウスに触れたい。あまりにも有名な数学の定理、業績で共に有名である。ところが、暗いイメージが 実は存在する。そしてその暗いイメージが 数学界の中に 歴史的にも深く、内在しているように感じられるから、大いに問題である。 問題とは、双方とも数学を極めて愛していたが、何と自分の都合の悪い事実の発見者を抹殺してしまったという事である。ピタゴラス学派は有理数という美しい世界観を奉じていたが、そうでない無理数の発見者をその世界観に反するので、そのような発見は都合が悪いので、海に落として殺害してしまったという。ガウスは人生を掛けて 2000年来の懸案の平行線の存在問題から、凄い非ユークリッド幾何学を発見した若い数学者を冷たく扱い、若い数学者を非業の人生に導いたということである。
若き数学者 ヤーノス ボヤイ は、数学の王ですら、まだ名誉が足りなく、更なる名誉を求め、名誉を独り占めにするのか と嘆えたという。それが世界史上の天才の行為に見られる事実である。これらの焦点は、数学の真理の追究、事実よりも、己の欲、俗に表現すれば世の名声の方が大事だと考えていたことを示してはいないだろうか。このような他の事実として、微積分学の発見者ニュートンとライプニッツの発見先取性を巡っての生涯にわたる裁判闘争にも見られる。 それらは 数学界の大事な、注目すべき、事実と考えられる。それらの現象は 深く現在にも及んでいると反省させられる。数学界は 能力争い、業績争いをやっているようにも見えるだろう。 実際、数学界のニュースは 如何に優秀か等を語り、凄い業績を挙げた、素晴らしい研究成果だと囃子立てている。それらに対して、凄い友人の言葉が何時も思い出される。数学者はずるい、われわれにとって 何の意味もない結果を たいそうなことをやっているように お互いに、褒めあっている等と 表現されてしまった。 最近では、

再生核研究所声明 622(2021.6.14) 麻生財務相「微分積分いらない」発言 と 数学教育、教育について考える(検討中)

等のニュースの話題さえ出て居る。このような状況だと厳しい社会状況下では 数学界の存在は影が薄くなり、素晴らしい数学自身に、また数学の真理の追究の素晴らしさなどにも 深刻な悪い影響を与えるだろう。良い、発想の転換は、数学の美しさ、重要性、楽しさを表現し、数学の研究の楽しさを、能力の優劣や業績争い、競争意識を越えて表現して行くことではないだろうか。
上記に挙げたような典型的な例は、数学者は 人物としてはたいしたことはなく、子供のような存在で、場合によっては自己中心の視野の狭い、変な人達の集団と 数学界は見られているのではないだろうか。。
数学の世界で、能力、能力、業績、業績、名誉、名誉と発想しないで、数学の美しさ、重要性、研究の楽しさの表現を重視した方が、数学と数学界にとって良いのではないでしょうか。
その様な文脈で、いろいろな学会で、若い研究者に いろいろな賞を乱発して、若い研究者の深い研究や良い研究課題に取り組む深い姿勢の涵養を妨げ、競争心を煽り立てるような悪い状況に繋がるのではないかとも危惧される。賞に関心が懐き過ぎでは 学会の末期的症状の現れとも言えるのではないだろうか。 数学の研究は真智への愛でなければならない。 純粋の愛が中心である。それはどうなっているか。神の意思は どうなっているかと深く問うことである。

付記:

下記は 日本数学会の中止のために 幻の ゼロ除算、数学教育 関係の 講演構想になってしまった。そのアブストラクトの一部を付記したい:
_______________________
第30回 工科系数学基礎教育研究会における講演
 (2020.3.17)  (タワー・スコラ 3 階 S304 教室) · (12:40~14:40)
 日本数学会 2020年度年会
       会場:日本大学理工学部(駿河台キャンパス)
       日程:2020年3月16日(月)より3月19日(木)
     アブストラクト: 群馬大学名誉教授 齋藤三郎
講演題名:
初等教育のカリキュラムの改正案と数学の研究教育体制について  - 教育原理、興味を持たせる教育
________________________

次に数学界の在りようについて: 社会を向いていない、数学の研究に注意が向き過ぎではないだろうか。社会的には スポーツ界ほどの影響も 世界に 影響していない。その他 いろいろなマスメディアから見ると 数学界の存在が 小さすぎるのではないだろうか。 数学を享受する文化の面から 見直す必要があるのではないだろうか。
人工知能を備えた計算機の発展は 数学をより 楽しむ、文化としての面が強まるのではないだろうか。利用する立場で 数学のある役割はどんどん減少すると思われる。研究の面でも、教育の面でも大きな変化が起きると考えられる。

数学を学んで、研究して、楽しい、役立ったと思える教育、研究を目指したい。
数学のための数学の精神が 強すぎではないだろうか。 共に楽しむ文化としての 数学を志向したい。

そのためには、数学の楽しい面を強調するような教育、数学を楽しむような教育を目指す。 学力は強くなくても 数学好きな生徒、学生を育てたい。

興味を持たせる教育法とは、活用できない学力を付けることではなくて、時間の余裕を与え 考えて本質を理解するような教育である。- 形式的な問題が解けるようにする訓練が多すぎるではないだろうか。特に数学で競争意識を駆り立てたり、能力を数学で評価するような世相は数学嫌いな生徒を世に出しているものと反省させられる。数学の知識や技術より、数学の心を大事に。競争より共感。個性の尊重。真智への愛。

社会的には、数学の基盤が弱くなっていると考えられる。 原理は、社会的に数学の良さ、数学者の良さを 示す必要がある、社会貢献は 高級大学でなければ 当然考える必要がある。ただ数学の研究だけでは 社会に受け入れられないのでは。 研究に走りすぎで、社会貢献に目をつぶっているように 社会的には 数学者はみなされているのではないだろうか。また、数学者が、尊敬されるような存在にならなければならないが、数学の研究の厳しさのために 逆に 数学者は 変わった人たちの集団と見なされているのではないだろうか。
社会を向いた数学を志向したい。もちろん、これは高級研究機関の在りようとは違う、多くの大学の在りようを 述べている。--  ただ神の意志に従って 真理の追究を行なう人たちの存在も 尊く、素晴らしい。

                                     以 上

 

再生核研究所声明 624(2021.6.18): 麻生財務相「微分積分いらない」
; 微分積分を考える-その楽しさと重要性

数学教育の反省から、下記に同調するような声明を発表した:
再生核研究所声明 622(2021.6.14) 麻生財務相「微分積分いらない」発言 と 数学教育、教育について考える

ここでは 数学を愛する者として、麻生氏を数学に惹きつけるような方向から、所信を述べたい。 数学界が麻生氏の発言に真摯に回答しなければ、数学の教育と研究に責任をもつ者の責任が問われるのは 当然である。対話拒否は、無視に繋がるからである。広く意見を交わして より良い世界を開拓していこうとするのは、善良な市民の義務である。

万物流転と言っても、われわれは 広がりや変化の中で生きている。広がりと言えば、 長さ、面積、体積、が関係しており、動きとなれば、力や速さ 勾配などが関係している。それらは 物理的な世界ばかりではなく 生命内や 心の世界でも、そうである。 それらを正確に表現すれば、 実は微分積分学に至ってしまう。 実際、積分論とは、長さ、面積、体積の概念を表現する数学で 解析学の基本になっている。 それらは少し、大域的な性質であるが、何とそれが局所的な 勾配、傾きの考えと 深い関係があり、それは微分法に結びつくが、積分法と微分法が 微積分学の基本定理として 美しく結びついているから、凄い。
ニュートンの万有引力の法則、運動法則は 天上宇宙も 地球上も 心の世界も 記述するから、 ニュートンの偉大さは 世界史上の画期的なものである。 余りに偉大で、 想像もできな程である。 それは数学的には 微積分学の基本性、 重要性を言っている。 実際世界の理数科系では 世界中で、学ばれる必須の科目と考えられている。実際、言葉が無ければ お互い意思疎通が難しいが、自然科学の言語、数学、微積分学が無ければ 自然を語ることが、自然を表現することが難しいだろう。 ー 数学は自然の言語であり、神の言語でもあり、美しい普遍な言語は 神の存在すら示していると考えられる。
コロナ禍で感染状況は グラフで毎日報告されているが、そのグラフの変化の様子が、微分法で、総感染数の表現を与えるのが 積分法であるから、そのグラフの正確な理解には 既に微積分学が必要である と考えられる。
公式の適用や具体的な問題は 計算機やAIが 解答してくれると言っても、計算機やAIに聞くには そもそも聞く基本的な考えがなければ 問題提起さえできないのではないでしょうか。
それゆえに 我々は計算機を、AIを利用できるだけの基礎的な概念を得る必要性が、広く求められるのではないでしょうか。
人間は 計算機やAIより、上位にあって より賢く、背後の意味、意義を深く捉えて行かなければならない。それらは創造性や自由な発想に繋がり、より賢く 真智への愛が大事で、それは 人間の真の 人間的な歓びである とも言える。
積分法は無限に分けて 無限に加えていくなど、考え型、新しい概念を、含んでいるから、 その楽しさは 普遍的なもの ではないだろうか。微分法とは無限に小さな量の比に関係していて、その発想は深い。
教育が、貧しく行なわれ、形式的な学習に追われれば 何のための学習か、何のための数学か分らず、空しい学習になってしまうだろう。 魂の入った学習が深く、楽しく行われなければならない。それは本質を求める心から、始まる。

次が、声明 622 の後半である:

さて教育内容の件であるが、麻生氏の発想の観点から、まず、状況として、AIやインターネットの発展、普及に伴って世界が大きな変革の時代を向かえている現実である。それらで、経済、社会の大きな変化は 相当に普遍的に及ぶと考えられる。そのような時に、教育の目標はどのように在るべきかが 大きな問題になる。これは従来の発想を超えて 絶えず創造的に考えて行かなければ 時代遅れの、変な教育になってしまうだろう。教育界は絶えず、新しい教育について検討、先取していく必要がある。姿勢に保守的な傾向が強い日本では 大いに警戒が必要であると考える。
入試、基本科目として、英語、数学が重視され、また知識の積み重ねを重視してきたが 果たして それで良いだろうか。 翻訳機能が格段に発展、直ぐに会話も相当に自由にできるようになるだろう。多くの数学の問題は 計算機が答えてくれ、やがて推論や証明に  検証すら可能な時代を迎えている。英語も、数学も必要ないと発想できる面が確実に増えて行くだろう。多くの知識は 検索機能で 幾らでも詳しい情報が簡単に得られる時代である。それゆえに教育の内容は 絶えず検討、更新されて行く必要がある。
この問題は大きいので、抽象的に考え方の要点を述べたい。

教育とは何か を絶えず、問うて行くこと、
教育効果とは 何かを問うて行くこと、
教育には 個人の個性を活かすことも大事なので、あまりにも 型にはめないで、自由の尊重も考えたい。
多様性の視点は 基本的に大事なので、統一的な扱いには気を付ける、 
単なる知識より、考え方や背後にある精神を 大事にする。例えば 数学などいろいろな問題を解ける、あるいは知識や基礎力ではなくて、数学的な精神面の教育が大事ではないだろうか。論理的な思考や、哲学的な思考、根本を究める態度などである。量より質の教育を志向したい。
感性や、情念、自然性の尊重、
共感、共鳴、共生、友情の育成、伝統と文化の尊重、
徳育、宗教、哲学などは重視されなければならない。何のための人生か、人生とは何かを追及していく心の育成など。
芸術、文芸などは 重視されなければならない。

麻生氏の発想は極めて大事、尊重し、数学界は大いに反省して、数学教育の在るべき方向を模索して 社会に受け入れられ、評価されるような教育を考えて行きたい。

共通テストや大學の法人化など、悪しき方向で、マイナスの大きな 愚策に当たるのではないだろうか。変な勉強、押しつけ教育は改善して行きたい。歴史上、入試の在りようなど すっかり変わり、変な時代が有ったと 回想される時代が来るだろう。

付記:

下記は 日本数学会の中止のために 幻の ゼロ除算、数学教育 関係の 講演構想になってしまった。そのアブストラクトの一部を付記したい:
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第30回 工科系数学基礎教育研究会における講演
 (2020.3.17)  (タワー・スコラ 3 階 S304 教室) · (12:40~14:40)
 日本数学会 2020年度年会
       会場:日本大学理工学部(駿河台キャンパス)
       日程:2020年3月16日(月)より3月19日(木)
     アブストラクト: 群馬大学名誉教授 齋藤三郎
講演題名:
初等教育のカリキュラムの改正案と数学の研究教育体制について  - 教育原理、興味を持たせる教育
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次に数学界の在りようについて: 社会を向いていない、数学の研究に注意が向き過ぎではないだろうか。社会的には スポーツ界ほどの影響も 世界に 影響していない。その他 いろいろなマスメディアから見ると 数学界の存在が 小さすぎるのではないだろうか。 数学を享受する文化の面から 見直す必要があるのではないだろうか。
人工知能を備えた計算機の発展は 数学をより 楽しむ、文化としての面が強まるのではないだろうか。利用する立場で 数学のある役割はどんどん減少すると思われる。研究の面でも、教育の面でも大きな変化が起きると考えられる。

数学を学んで、研究して、楽しい、役立ったと思える教育、研究を目指したい。
数学のための数学の精神が 強すぎではないだろうか。 共に楽しむ文化としての 数学を志向したい。

そのためには、数学の楽しい面を強調するような教育、数学を楽しむような教育を目指す。 学力は強くなくても 数学好きな生徒、学生を育てたい。

興味を持たせる教育法とは、活用できない学力を付けることではなくて、時間の余裕を与え 考えて本質を理解するような教育である。- 形式的な問題が解けるようにする訓練が多すぎるではないだろうか。特に数学で競争意識を駆り立てたり、能力を数学で評価するような世相は数学嫌いな生徒を世に出しているものと反省させられる。数学の知識や技術より、数学の心を大事に。競争より共感。個性の尊重。真智への愛。

社会的には、数学の基盤が弱くなっていると考えられる。 原理は、社会的に数学の良さ、数学者の良さを 示す必要がある、社会貢献は 高級大学でなければ 当然考える必要がある。ただ数学の研究だけでは 社会に受け入れられないのでは。 研究に走りすぎで、社会貢献に目をつぶっているように 社会的には 数学者はみなされているのではないだろうか。また、数学者が、尊敬されるような存在にならなければならないが、数学の研究の厳しさのために 逆に 数学者は 変わった人たちの集団と見なされているのではないだろうか。
社会を向いた数学を志向したい。もちろん、これは高級研究機関の在りようとは違う、多くの大学の在りようを 述べている。--  ただ神の意志に従って 真理の追究を行なう人たちの存在も 尊く、素晴らしい。

                                     以 上