なぜ靖国参拝は欧米で理解されないのだろう | Institute of Reproducing Kernels

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なぜ靖国参拝は欧米で理解されないのだろう

アメリカのアーリントン国立墓地やパリの凱旋門の下にある無名戦士の墓には、国の為に命を捧げた兵士への国民の感謝の念を代表して大統領が花環を供える等は諸外国では当り前の事である。

ところが、安倍首相がこの当たり前の事を行なうと海外から批判される事は、批判の的が「参拝」ではなく「靖国」にある事は間違いない。

「靖国」批判が偏見や誤解に基つくものだとしても、松本徹三氏の指摘の通り「日本人の心の問題なのに、何で中・韓の内政干渉を許し、彼等に媚びへつらわねばならないのか」という論議の繰り返しでは、誤解を解くどころか海外諸国との対話すら成り立たない。

対話不足の象徴的な事件が、安倍首相の靖国参拝への諸外国の厳しい批判で、中でも米国政府が「失望した」と言う声明を発表したのに続き、欧州連合の外務・安全保障政策上級代表も同様の内容の声明を発表して日本に自重を求めるなど、日本の孤立は深まるばかりである。

靖国とは何か? については、池田信夫、石井孝明、松本徹三各氏などの碩学による説得力ある考察記事があるが、これ等の論考は日本人には勉強になっても、余りに日本的、専門的に過ぎて一般的なパーセプションに影響される海外世論の説得には適当だとは思えない。

日本の論者の一部には、海外で靖国に興味を持っている国など無いと言う論議もあるが、米国内では靖国を巡るセミナーや討論会は活発に行なわれており、同じ様な経緯を経た慰安婦問題で日本に批判的な国際世論の広がりを見ると、「靖国」問題もなるべく早めに海外世論が理解しやすい形で論議を進める必要がある。

そこで今回は、感情論になり易い論点を避け、日本の法体系と「靖国」との形骸的整合性と言う観点からこの問題を論じてみたい。

欧米では日本を、「政教分離と信教の自由が憲法で保証された近代的立憲民主国家」と捕らえている。

ところが日本の実情はと言えば、法体系と伝統とが整合性に欠けても黙認され勝ちで、そのため近代的な日本と言うイメージとの「 パーセプション・ギャップ―感覚のずれ」が生まれやすい。

海外の世論対策には専門的知識や事実も重要だが「一般大衆の感覚的な認識」が世論を大きく左右する事を考えると、この「 パーセプション・ギャップ」を埋める事が重要である。

例えば、日本が憲法で信教の自由を認めた立憲民主国家でありながら、宗教法人の「靖国」に本人の意思に関係なく英霊を祭る権利を賦与する合理的な理由は何か?などの問題に答える必要が出てくる。

靖国の場合は通常の国立墓地とは異なり、「霊」と言う概念も曖昧な物を国家神道で戦死者の魂を敬っていう「英霊」として祭っているだけに、国際的に通する合理的な説明は特に難しい。

このような海外の疑問に答える為には、我々がアーリントン国立墓地と靖国との違いを理解する事が重要であろう。

アーリントンは1973年の「国立墓地法」の改正により、従来の陸軍省から在郷軍人省に其の管理が移管された国立墓地で、全米に131ある戦死者を中心に祭った国立墓地の一つである。

墓地と言えども国立である以上特定の宗教に偏する事は禁止されているが、それは無宗教を意味するものではなく、埋葬関係者の意志に従い宗教を自由に選べる事を意味し、祭儀に関してもキリスト教、ユダヤ教、回教、仏教などどの宗教の司祭も自由に其の祭儀を行なえる事になっている。

埋葬者についても、法律で定められた有資格者で国立墓地に埋葬を希望した者は全て受け入れる事と関係者の意志に反して埋葬してはならない事が法律で定められており、戦死者の配偶者や戦死時に未成年であった子供にも埋葬資格が有る事に定められている。

又、国の為に命を捧げたと言う意味は、その時の国家や政府の為に命を捧げたのではなく、憲法に定められた理念を守る為だと言う事が徹底している米国では、米国と理念を共にして戦った同盟国の軍隊に従軍して命を失った米国人にも埋葬資格を与えている。

このように世界最古の現行憲法を戴く米国では、死後も憲法理念で定められた機会平等、透明性、アカウンタビリテイーとの整合性が維持されている。

欧米人が考える国家の英雄に対する敬意の表明はこの様な環境を前提としており、安倍首相が靖国の参拝を「どの国の指導者も行なっている」英霊への尊崇の表現だと主張する場合は、埋葬基準が憲法と整合性がある事が前提でないと論議が紛糾する。

又、三権分立の確立した欧米諸国では、憲法解釈の権限は裁判所にあり政府には憲法解釈権がない事が常識となっている。

その点で、靖国神社訴訟で傍論とは言え政教分離原則により違憲であるとした仙台高裁判決を不服とした岩手県が特別抗告したのに対して、これを棄却した最高裁の違憲判決が確定している事実は、違憲対象が玉串料とは言え首相の靖国参拝を国際的に正当化するには、個別具体的な法律よりその前提となる法理念を重視する「デュー・プロセス・オブ・ロー(法に基づく適正手続き)」を重視する欧米諸国を説得する障害になる可能性は大である。

更に、戦争犠牲者に冥福を祈ると言う点では共通の広島、長崎の原爆記念日で献ずる花輪は国費で賄われ、国民の前で弔文を読み上げ毎年不戦の誓いを新たにしているのに対し、靖国参拝での献花は「私費」で、しかも国民に隠れる様に突如参拝する事も欧米諸国には理解し難い行動で、その理由の説明を求めらられることは間違いない。

又、国民の信託を得ていない宮司が独断で合祀者を決定出来る事も、憲法との整合性とはかけ離れた存在で、これも明確に説明しなければ安倍首相の目指す説得が成功する公算は少ない。

安倍首相が靖国神社参拝自体が政治問題化していると残念がりながら、靖国参拝の際に「安倍政権の一年の歩みを報告した」と説明するに至っては、諸外国の首脳が国営墓地を参拝して「政治報告をする」事など聞いた事がないだけに、海外から見ると典型的な政治行事としか映らない危険性がある。

又、政権誕生一周年と言う「国家」とは無関係な日を参拝日に選んだ事もこの件を政治問題化していると解釈される根拠になる。

更に、国際論議で問題になるのはA級戦犯問題だけでなく、先述した通り、キリスト者を始め合祀を希望しない遺族の意志が無視されている事も人権問題として取り上げられる可能性は大きい。

仮に靖国のあり方は靖国神社が決めることで靖国の教義に従うべきだと言う論議が通るとすれば、日本は近代的立憲民主国家の看板を下ろす事にもなりかねない。

こうして見て来ると「これからも謙虚に礼儀正しく誠意を持って説明をし、そして対話を求めていきたいと思います」と言う安倍首相に課された宿題は山の様にあり、今回の参拝は余りにも準備不足が目立つ衝動的で軽率な参拝であったと悔やまれる。

元々、憲法と矛盾した伝統や慣習に従いたい安倍氏の「私情」と「憲法」に従う事を求められる首相としての「公的」な立場を一致させること事態が無理な話で、憲法との整合性の合理的な説明も無しに私的な信条を優先した靖国参拝が、他国の指導者と同じだと言う事には無理があり、今回の靖国参拝は日本を国際的な孤立化に追い込む行為であった事は間違いなく、「国益」に反すると言うほかない。

首相が参考にすべきは、伝統と法体系が微妙に入り混じっているグレートブリテン及び北アイルランド連合王国、通称英国の例である。成分憲法を持たず、その構成国が国教を定めながら連合王国としては国教を認めていない英国は、伝統と法体系の矛盾を巧みにそして合理的に組み合わせて国民的な合意を獲得し、ヨーロッパ人権条約などの国際条約の締結に際しては、国内的な伝統と条約との形骸的な齟齬を巧みに避けて両立させている。物事には順番があり、首相が本心から諸外国の理解を求めるのであれば、英国の例をつぶさに調べるなりして先ず相手を説得してから参拝すべきで、現在の安倍首相の説明では矛盾を隠す誤魔化しにしか聞こえず、他の海外諸国に通ずる説明の準備が整うまで参拝を慎しむのが国益に適う唯一の選択である。偶々この原稿を書き終えた時に、川本航平氏の「靖国参拝の是非をめぐる議論を続けよう」と言うアゴラの記事に接したが、この拙稿もその一環となれば幸いである。

注 : 参考までに、ここで言う海外諸国には中韓両国は、今回の論議の対象に含まない事を付記しておきたい。
http://blogos.com/article/79663/

この見識は高く、 鋭い点を指摘されていますね。 
確かに、靖国神社は、戦争遂行の一機関 の要素を歴史的に持っていることは、否めない。
単に、戦没者を敬う立場を越えている。

再生核研究所声明 5 (2007/04/08): 
靖国神社問題に対する提案:

戦後、60年以上も経た現在においても、機会あるごとに靖国神社問題が取り上げられ、多くの議論が繰り返えされているのは、極めて残念なことである。これでは日本が論理的な思考能力が足りないと言われても仕方がないと考える。声明1の 「公正の原則」 に従ってあるべき姿を提案したい。

1) 先ず、近代に確立した, また確立されなければならない 「政治と宗教の分離の原則」 に 厳格に従うべきであり、よって公人としての参拝は厳格に禁止されるべきである。また同時に 靖国神社に対する国の政策による活動及び補助も当然禁止されるべきである。
2) しかし、国や社会を良くしようと考える公人たる者が 国の為に殉じた人達に敬意を表わしたいと考えるのは極めて自然であるから、私人としての参拝はこれを禁じるべきではなく、参拝に当たっては個人の立場である事を明確にすること。さらに、戦争で傷ついた諸外国の人たちの心情を察し、これらは慎ましく行い、マスコミなどは双方の気持ちを汲んで 報道に当たっては慎重に扱うように期待したい。
3) 靖国神社の宗教法人としての自主性を重んじ、神社は法人としての責任で運営されるが、法人としての神社は 戦死者を祭っている事に鑑み、常に祭られている人やそのご遺族の方々の心情と国民の意思を最大限に尊重していく事が望まれる。しかし、法人は一法人であり、その法人が運営する宗教に対する個人の対応は 全く個人の自由であり、靖国問題は一法人と個人の自由な関係と捉えよう。
4) 3)の観点で、特に所謂戦犯についての合祀については これを疑問視する考えが諸外国ばかりではなく、日本人の間でも起きることは 日本人の心情と日本の歴史に基づいても理解される。戦いを指揮した者は敗戦に至った場合には責任を果して来ていると考えられる。さもなければ、その指揮下で亡くなった者の立場はどのようになるでしょうか。従って、この点については神社の検討の余地があると考える。-- しかし、戦犯とよばれる人たちも同じ犠牲者であるという立場にも正当性があると考えるが、この点については、国民と被害を受けた諸外国の人々の心情に よく配慮する必要があると考える。
5) 第2次世界大戦について、十分な反省と謝罪の気持ちを表明していき、もろもろの各論的な問題についての無用な繰り返しやぶりかえしをせず、明るい未来の友好親善の視点を強めていくように努力していくことが望まれる。特に 多くの戦争はどちらが悪いかの問題ではなく、戦争そのものが悪であり、双方に悲惨な状況を生み出していくものと考えて行きたい。
6) 戦死者のご遺族の方々は 上記第1―2項についてご不満の念を抱かれるのではないかと考えます。 そこで、日本国の首相は新年に当たって伊勢神宮を参拝するという美しい伝統を持っているのに鑑み、同じように靖国神社を参拝するような伝統を自然な形で作られたら如何でしょうか。ご提案致します。

以上

2.7 第二次世界大戦と日本の良心(2007/4/12):

この感想は、私と同じ年代の人たちには、圧倒的に支持される自信があります。
「声明」は、軽い現代の常識的立場の整理だと思いました。この程度の見解が「第2次世界大戦について、十分な反省」をした結果だかどうか、頼りないようにおもいました。この声明案の基本的な問題は、「第二次世界大戦をどう考えるか」「いわゆる戦犯をどう考えるか」の二つに絞られると思います。 小学校入学が満州事変、中学入学の時が日中戦争、4年の時に第二次大戦、高専卒業の時に終戦。正に戦争とともに大きくなりました。戦中派として「第二次世界大戦をどう考えるか」という問題についての回答は、「声明」が考えている現代の一般的常識とはかなり違います。
話を進めるために、是非「世界史」を勉強してください。といっても、私の勉強の中心は、
次の資料を折に触れ、繰り返し見て、私の若き日の記憶と照らし合わせるだけです。「総合世界史図表(第一学習社)1987」「総合日本史図表」「コンサイス世界史年表」「世界年表(河出書房)」それに高校の教科書です。今日もこの返事を書くために世界史図表をめくりなおしました。
世界史はまさに戦争の歴史です。とったりとられたり、栄枯衰盛、食うか食われるかの争いです。この図表(全240頁)の半分ほどの120頁以降、欧米各国の世界侵略のすさまじさが記録されています。スペイン、イギリス、オランダ、フランス、アメリカ、それにロシアなどいわゆる当時の先進諸国が、インド、アフリカ、カナダ、アメリカ、南米、中央アジア、シベリア、にむけた目に余る身勝手な侵略戦争の歴史です。中国だってその渦のなかで、周辺諸国を侵し、欧米からは侵される、不思議なお混乱のなかにありました。これらの大国は、17世紀から20世紀にわたって、世界各地を恐るべき勢いで、傍若無人に侵略しまくって、植民地にしてしまいました。
 20世紀に入った頃、スペインはフィリッピンを、オランダはインドネシアを、イギリスはインド、ビルマ、マレー半島、それにオーストラリアを、フランスはベトナム、カンボジャ、ラオスを、つまり東南アジアの全域を侵略しつくしていました。アメリカも遅ればせながら、スペインからフィリッピンを奪っています。太平洋の島々もイギリス、フランス、アメリカの領地にくみこまれてしまいました。その上、勢いをつけたイギリス、ドイツ、フランス、ロシアなどが、競って中国侵略を着々と実行していました。日本に対しても、中国に対する侵略と同じ手法で、治外法権の外人居留地をもうけたり、不平等条約を押しつけたり、で明治維新以来、侵略の初期段階にあったと思っています。ロシアと中国の清朝も、中国東北地区から韓国へと勢力を拡大すべく圧力を強めていました。
このような欧米諸外国からの侵略に対する危機感や対抗意識が、私の若い頃の日本の底流にあったと思っています。諸外国はみんなお行儀がよいのに、日本だけが侵略者でした、などとはどのようにひっくり返っても言えません。第二次世界大戦の本質は、世界列強の世界侵略に対する日本の切ない反逆です。
次に「いわゆる戦犯をどう考えるか」です。第二次大戦を前述のように考えているから、戦争裁判がまともなものであったとはとても考えられません。国際紛争には常に二つの正義が存在します。
どちらがより悪い侵略者だったかを考えるべきです。非は明らかに諸外国にあると私は思っています。 どちらがより悪い侵略者だったかを純客観的に考えられる人はいません。非はいつも相手側にあるものです。しかも勝敗がつけば、必ず敗者側に押しつけられるものです。それが正しいなどというわけにはいきません。たった1回の東京大空襲で非戦闘員の一般市民を徹底的に殺戮して10万人の死者を出し、同じ非人道的な殺戮をあちこちの都市でおこないました。その上、1発の原爆で広島20万人の非戦闘員を殺戮したことも許せません。このような桁外れの悪逆非道を犯した犯人を裁かないで、戦争裁判の正当性を主張することなどはとても承伏できません。戦犯問題は茶番です。
戦中派の私の第二次世界大戦と戦犯についての基本的な考え方です。靖国問題などは、わたくしにとって、どうでもいいことです。うまく処理してくれることを願うだけです。

第二次世界大戦と日本の良心の返事
どうも歴史的事実とズレているようです。
第一次大戦終了以降の国際社会は日本も締結した不戦条約に見られるような自衛以外の戦争の違法化に進んでいました。
そもそも1920・30年代の日本は、すでに世界有数の軍事力を持った国家であり、1932年の脱退まで国際連盟の常任理事国でした。
欧米の侵略におびえた幕末期と同じ危機感で国際情勢を語るのは明らかにおかしいと思います。
中国に対する主権侵害を禁じた九カ国条約も締結されており、帝国主義の時代は終焉していました。
このような時代に第一次大戦以前の感覚で中国への侵略を行った日本は残念ながら時代錯誤であったとしか言いようがありません。
また、太平洋戦争の主な発端は中国への侵略によって経済制裁を受けた日本が、戦争継続のため資源を南方に求めたことです。
「ABCD包囲網」というのは日本の自業自得です。
1943年の大東亜政略指導大綱では占領地の「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」を帝国領土に編入することが
決定されるなど「アジア解放」の大義名分とはまったく異なる実態を見ることができます。
要するに太平洋戦争は、東南アジアの欧米植民地を日本の統治下に置き、重要資源産出地にいたっては日本領土とするための侵略戦争であり、
そうした意味での「大東亜の新秩序」の樹立です。

再生核研究所声明 139 (2013.10.22): 
正義とは 戦争における; 短期的には 勝者が決めるが、世界史が評価の大勢を定める

(2013.10.10.16:35 休んでいるとき、構想を練る。これは声明に関心を擁く人からの 要望による。)

まず、用語を確認して置こう:
正義(せいぎ、希: δικαιοσύνη、羅: jūstitia、英: justice、仏: justice、独: Gerechtigkeit)とは、倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正ないし衡平にもとづく道徳的な正しさ[要出典]に関する概念である。 正義の実質的な内容を探究する学問分野は正義論と呼ばれる。広義すなわち日本語の日常的な意味においては、道理に適った正しいこと全般を意味する。以下では、専ら西洋における概念(すなわちjusticeないしそれに類似する言葉で示されるもの)を記述する。東洋のそれについては義のページを参照。
定義[編集]
正義とは、それ自体に鑑みれば、社会における物および人に関する固有の秩序である[要出典]。この概念は、哲学的、法的あるいは神学的な影響の下で、歴史上絶え間なく論じられてきた。正義に関する問題の多くは、西洋における正義概念に依拠している。例えば、「正義とは何であるか」「正義は個人および社会に何を要求しているか」「社会における財と資源の本来的な配分方法(平等主義、才能主義、身分主義)は何か」などである。これらの問いに対しては、政治および哲学に関する多様な観点から様々に答えうる。 正義の概念は、多くの正義論によって極めて重要な概念であるとされている。例えば、ジョン・ロールズは次のように述べている[1]。「正義とは、思想体系が真であることとしての、社会制度の根本的な徳である」。正義は、親切、慈悲、慈愛、寛大さあるいは共感などのその他の徳と区別され、そしてそれらよりもより基本的な徳であると考えることもできる。正義は、とりわけギリシャ哲学やキリスト教においては、運命、輪廻あるいは神の予見のように、自然の摂理や超越的存在によって規律された生ないし生き方と結び付けられることがしばしばであった。しかし、現代の正義論においては、このような宇宙論的・宗教的世界観を離れて、正義を社会制度の根源を為す価値である公正さと結び付けて人間社会の枠組みの問題であると捉える傾向が強い。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9より)
また、

義 
 「己の威儀なり。我+羊の会意」 ・・・ 「羊+我声」 と改めたほうがよい。
 「羊」 を含むのは、祥・善 に羊を含むのと同じく、ヒツジを神に捧げるギセイに常用した習慣に基づく。
 もともと宜 と同じく神への供物が くっきりとかどばって美しく揃っていること。
 <書経、文侯之命> の「父義和」の鄭注に、「義とは匹(そろう)なり」とあるのは、なお原義に近い。
 <礼記、中庸> に「義とは宜なり」とある。また<礼記、祭義> に「義とはこれに宜(よろ)しきなり」ともある。
 転じてすべてかどあるさまを義・儀 という。娥(美しい女) とも同系。※ 『漢字語源辞典』(学燈社) p.592。

また、
ここで再び唐漢氏に登場願う。彼曰く、

甲骨文字「義」


金文「義」
「義」という字は、羊と我という文字から成り立っている。ここで「羊」はこの種の頭上にある大きく湾曲した角を指す。その意味は羊の統率指導権や交配優先権を表すものだと解釈されている。そして「我」というのは古代の長い柄の一種の兵器のことであるが、形が美しく作られ実際の戦闘には不向きで、軍隊の標識用に作られたものだとしている。したがって「義」という字は、本来は「羊」の頭を指し自分あるいはグループの権力、戦闘に向かう集団の権力の誇示に並べたものであろうということである。
このことから「義」は情理・正義に合致した名目の立つ出兵を示し、公正適切な言行を指すようになったということである。
 このことから考えると先ごろのアメリカ・イギリスなどのイラク攻撃には一体いかなる「義」が存在したのだろう。一旦この「義」が地に捨てられてしまうと、後は強肉弱食のカオスの世界しか残らない。
 このことを「天地人」の作者は最も言いたかったのではないだろうか。
http://kanji-roots.blogspot.jp/2010/05/blog-post_26.htmlより
また、
「義(ただしい)」は、犠牲として神に捧げる「羊」と、これを切る鋸(のこぎり)「我」の合体した文字。「義」には悲劇がつきまとう。【『一日一書』石川九楊(二玄社、2002年)】

上記のように “正義” は 実に曖昧な言葉であることが分る。 義の語源から、戦闘を大義名分にするときに掲げる言語で、重い意味を有する言語ではないだろうか。そこで、正義の意味をきちんとさせたい。 きちんとした解釈を与えたい。
まず、世の道徳や、法や慣習が確立している範囲ならば、正義は 次の 公正の原則 で定められるのではないだろうか:
再生核研究所声明 1 (2007/1/27): 美しい社会はどうしたら、できるか、 美しい社会とは:
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。(公正の原則)

1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。 
4) それは安定的に実現可能か。

ところが、合戦や戦争では いわゆる約束ごと、ルールを越えて 行われるので、世の一切の法やルール、慣習を越えている。それで、その戦いを正当化する言語、正義は、極めて難しい言語であると言える。ルールは何も無く、ただ戦争の勝利者が正義を定められる と考えるべきである。これは既に 定着している 勝てば官軍 の諺に表現される。合戦には 不意打ち、だまし討ち、陰謀などは常識であり、侵略どころか、虐殺、皆殺しなども世界史には存在する。第二次世界大戦でも 戦闘力のない 敗戦真近かの国に 非戦闘員、民間人の大量虐殺を始めから意図した原爆投下などが 存在するが、戦争だから仕方がないと 世界では受け止められている。 非戦闘員は 巻添えにはしない などの慣習や道義など、一切のルールは 機能していないのが 世界史である。 ― (いわゆる戦時における 慰安婦問題などが 問題にされているが、原爆投下などの 大きな非道に目をつぶって、そのような問題を論じているのは、誠におかしいのでは?(再生核研究所声明 101 慰安婦問題 ― おかしな韓国の認識、日本の認識))。
そこで、勝てば官軍 の現実を受け止め、勝利者が正義を定める としたい。戦争、合戦は 無条件の戦いであり、生きるか死ぬかの 究極の選択と考える。これは生物界に厳然と存在する、食うか食われるかの戦いであり、究極の局面である。(そのような戦争は したくはない。戦争は ゲームのようなものではない、兵士は 権力者の消耗品ではないと言うことである。)。大和朝廷の平定、アレキサンダー大王の遠征、南アメリカへの侵略、北米の支配などなども いろいろ批判されるべき点が有っても、いわば自然法に基づいた 強い者が正義を定める を述べている。
その原理は、今でも同じで、戦いには法は無く、総合的な力が世界を動かしている現実がある。イラク進攻を見れば、歴然であり、法も無く、国連安保理事会も 未だに機能していない。若いアメリカ合衆国は 力の信仰、自由競争による自然法的発想が、もっとも強い国であるように見える。
これで、正義 は 確定し、正確に定義された。
それで、戦争に 正義を掲げるのは、この意味で意味を失うことになる。― もちろん、対立する双方が大義を掲げるのは、当然である。―
世界史は 勝利者によって書かれ、作られて来たと言えるが、その勝利者は、その時代における総合戦による勝利者であって、単に軍事だけで世界が動いたのではないと言える。植民地支配をしたり、侵略して来たのは、勝者として、それだけの力を有していたと、評価できる面が有ることを 認めざるを得ない。自然の生物界の現実が そうであると考えられる。自己防衛は あらゆる生物に与えられた、本能であり、当然の義務、基本的な義務であると考えられる。国防の戦略や災害に対する対策が無い国などは、国家の基本を疎かにしていると批判されるだろう。
再生核研究所は それでは 軍備拡張で富国強兵を考えているのかと言えば、逆である。現在の世界の状況を総合的に理解して、世界史を進化させて、和によって、夜明け前の暗い時代を 終わらせ、明るい時代を築こうと いろいろ世界の平和の問題についても 具体的に 提案を行っている:

再生核研究所声明8: 日本国の防衛の在り方について
再生核研究所声明10: 絶対的な世界の平和の為に
再生核研究所声明 25: 日本の対米、対中国姿勢の在りようについて
再生核研究所声明 53: 世界の軍隊を 地球防衛軍 に
再生核研究所声明 111: 日本国憲法によって、日本国および日本軍を守れ、― 世界に誇る 憲法の改悪を許すな

また、戦いに勝利しても、永い歴史のうちでは、文化力で敗北して、結局は 事実上、逆に支配されてしまったような現象は 世に多いのではないのだろうか。幾ら戦争だからと言っても 何をやっても良いでは、戦争には、戦いには勝てず、人間存在の原理や文化、慣習の尊重などは、官軍になるためには 時代に受け入れられる、それなりの大義名分が必要ではないだろうか、全体的な評価は、世界史が 判断するだろう(再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判)。
これからの戦争では 完全な勝利を得るものは無く、共倒れの可能性が高いのではないだろうか。大きな本格的な戦争に至れば、人類絶滅の可能性が高いのではないだろうか(再生核研究所声明 137: 世界の危機と 権力者の選出)。

以 上