西鉄バスジャック事件加害者 | 少年犯罪事件史

少年犯罪事件史

2013年11月からスタートしました。少しずつ記事を書いていきます。

昭和58年3月 佐賀 生まれ 

共働きの両親と活発で社交的な妹との4人家族。

父親はサラリーマンで、学校のPTA活動にも積極的に参加するタイプ。
母親は、保健婦としてフルタイムで働いていた。
妹は、少年と正反対の自己肯定感あふれるタイプ。


少年は、小中学校と成績が優秀であった。

しかしそれは、本人の努力と言えば努力だが
劣等感から逃れるための努力ともいえた。

小さいときから運動が苦手であった。
体格も小さく、幼稚園・小学校では、大きい子に囲まれるような環境であった。

小学校中学年くらいから、同級生にからかわれたりするようになり

運動ではどうにもならず
勉強面で、自分の優越感を出すために
打ち込むようになっていった。

自分が上に立つことで、人を見下していた部分があったようである。


中学3年から、また下降気味になっていき
それに比例して劣等感が強くなってきた。

とはいえ、学年ではトップクラスの成績。
しかし、希望よりワンランク下の学校を受験したことは
プライドが高い少年にとっては、かなり屈辱的なことであった。


いじめ(と少年は受け止めている)から大怪我を負い
高校に入学しても、コルセットをつけながら
通学していたことが、面倒でもあり苦痛でもあった。

からだが思うようにならず、学校も休みがちになり

休めば休むほど、勉強がわからなくなるという
悪循環におちいるようになっていった。


そのまま不登校となり、自主退学。
そうならざるを得ない精神状態であったのだろうと推測はできる。


引きこもりがひどくなり、部屋に鍵をかけるようになる頃、
母親と妹に対しての家庭内暴力がひどくなる。

これは、いままで鬱積していたものが
「暴力」と言う形であらわれたのであろうが


母親は、それを受け止めるよりも
外部に助けを求める方に動いた。

病院や警察に相談をしていったのだが、それが少年の苛立ちを助長させた。


ここで、母親が少年を受け止める力があったのなら
また違う結果になったかもしれない。

しかし、受け止めることは、そう容易でないことも現実としてある。


唯一、父親だけが少年と向きあおうと懸命になっていた。
夜にドライブにさそい、なんとか少年を外の世界にだそうと働きかけていた。


少年をドライブに誘い出すことによって、
せめてその時間だけは母親と妹が安心して家にいられる時間を持つことができるからと
のちに父親は言っていた。


このことは少年にとっては、ささやかな「光」となる。

なんどか誘われるうちに、今度は自分から


ドライブをしたい


と、父親を誘うようになる。
ある時は京都、もっと遠くの名古屋まで、日帰りで行くこともあった。

少年は、小さいときに言えなかったわがままを
ここぞとばかりに、まるで親をためすかのように言い続けた。

そして、父親はそれを可能な限り受け入れて行き、少年に向き合い続けた。



バスジャックで通ったルートは、父親とドライブをしたルートと
全く同じである。少年は、父親との思い出の道を走ろうとしたのである。

そして、乗客には「自分の宝物」といって
高速道路の領収書を見せびらかす。


それは、父親とドライブした時の領収書であった。


父親とのドライブの時期があったから、その時は
多少なりとも犯行をしないでいられる状況だったともいえる。


しかし、ドライブで出かけている間に
鍵をあけて母親が部屋に入り
犯行声明文のようなものを発見してしまう。


ナイフも購入していることが分かり、少年の心はどうにもならない状態のようであった。

警察や精神科医が介入し、精神科病棟への措置入院となった。


このことで、少年のこころは再び閉ざされてしまった。

両親に裏切らたと、激高している。

それとともに
自分がされたいじめを放置していた学校にたいしても怒りを膨らませていた。


このあたりから、彼のなかで
具体的な計画が立てられ始めた。

精神科医師をだまして、外出にこぎつける。
その後、決行すると決断した。




精神鑑定の結果、

解離性同一性障害と診断され

統合失調症を発病する恐れも無視できないとの診断であった。



西鉄バスジャック事件