君は明日の望月さあやを見るべきだ。
これは5年をかけた愛と憎しみの物語だ。
憎しみなのか哀しみなのか、もはやただの一つの対バンなのか。
ただの一つの対バンだろう。
で、あるなら。
僕は明日の望月さあやを見るべきだ。
これは望月さあやの物語であり、それ以上に、僕の物語だ。
望月さあやと槙田紗子が重なり合う、いや、路上ですれ違うくらいの話かもしれない、僕が勝手に意味を見出し、もっちゃんをたきつける、負けたくないと願う、勝ち負けとは何か、アイドルのライブにおける真剣勝負とは何か。
いったい何を問う日か。どんな気持ちになる日か。大仰に過ぎるだけかもしれない、なんてことはなく通り過ぎていくのだろう。
「感慨」はないです、一つの「対バン」なので。
僕が語らねば誰も語るまい。
語らなくてよい物語でもある。もはや、今の望月さあやには関係のない話だ。
だから、僕が僕のために語るのだ。
アイドルなんて、そんな自分にとっての個人的な物語をただ楽しむものだろう?君にとってのそのアイドルと僕にとってのそのアイドルは重なるところがあっても、どこかできっと違う。君には君の、僕には僕のその子がいる。
僕にとっての望月さあや、僕の視点からの望月さあや、もっちゃんが僕にとってどのような存在か、どんな歴史の上に居る存在か、だからこそ明日を何か震えるように、何かの緊張感を持って迎える、そんな理由を書いていく。
このブログでは既に散々に触れてきた歴史の話であり、その歴史を清算する、いや、そんな大それたものではない、やはり単にすれ違うくらいの大したことのない話だ。
僕の12年をかけた物語だ。
2010年12月30日から2021年5月30日まで、槙田紗子には大変にお世話になり、惚れこみ、推した。
アイドルとしての彼女は今思うと、そこまで褒められたものでもない部分も実に多くあった気もするが、それでも当時の僕にとってはアイドル・槙田紗子は誇りで、彼女を推せてよかったと思った。
そして一度、底まで落ちてからの異様な生命力を見て、また彼女を推せてよかったと思っていた。
この声がもはや彼女に届くこともないのだが、今でも彼女に対してのある種の信頼はある。彼女なら、間違いないものを作ってくれるだろう、今でもそう思っている。何か妥協したものを作るようであれば、それは僕の愛してきた彼女の仕事とは思えない、そんなものは許せない、今でも、そう、思っている。
それが結局僕の買い被りすぎかもしれないし、彼女が夢と言ってきた、その夢をかけた、彼女の思いが結実したはずのその作品は、そう大したものでもないのかもしれない。それはきっと僕には判断ができない、つまり大したものでないのならそれを正義だと信じ心酔してきた僕が盲目である、僕の眼が節穴である、そういうことだろうから。
さこが夢を叶えたら、どこかで知っててくれたらうれしいなー。
知るなんてよそよそしいものではない、どこまでも追っていく、そう思っていたものだが、まさしく風の噂で聞く、そのくらいのものになってしまった。
そんな未来は想像だにしなかった。それもまた面白くはある。
その心血を注いでいる作品はさておき、彼女は振付師としては当代随一の売れっ子である。
このような未来を彼女がアイドルの時に描いていたわけではなかったが、地獄の底から生還してここまでのし上がった彼女を見ると、僕の眼は節穴ではなかったと、誇らしくもなる。
その振付師としての彼女の、最初期の作品であり、彼女がその礎を築くのに少なくない貢献をした、そして、振付師としての彼女を育てることにもなっていた、そんな存在がASTROMATEであり、おそらく当時は自慢の教え子であったはずなのが、ほかでもない望月さあやだった。
あれはかつての、そう、サコフェスだった。明日もサコフェスだ、ただの対バンだ。
もっちゃんと、同僚のまひろ(現・朝比奈真尋、Transparents)はそれぞれ両翼として、さこのステージに花を添えた。PASSPO☆で彼女が振りを作りそれゆえに彼女の代表曲という扱いもされていた、MASK、FAKE、Not in theory(この曲は数度しかやらずにさこの活動休止をもって披露される機会もなくなったため、そのサコフェス当時も世界中でただこの3人がパフォーマンスできた、そんな曲だ)、それをその3人で披露していた。両翼を評して「ダンスモンスター」と言っていたのも昨日のように思い出す。
先生にとっては自慢の教え子であり、教え子にとってはアイドルというもの、アイドルのパフォーマンスというものを叩き込んでくれた、尊敬に値する先生だったはずで、両者はまさしく蜜月関係、そうだったはずだ。
好きなように暴れ、傷つけ、それこそ不器用にどうしようもなく過ごしていた僕をさこは笑いながら、こう言っていた、
「さあやは本当にいい子だから優しくしなくちゃだめだよ」
と。
さこはASTROMATE解散後もいくつも振付師としての仕事を重ね、並行して人脈も広げ続け、そしてついに自らがプロデューサーとなって、理想とするアイドルを作るべく、動き出した。そしてそのメンバーを集めるためのオーディションを行った。
自らがアイドルでなくなった後のサコフェスを見て奮い立ったもっちゃんは、そのオーディションを受け、最終審査で落ちた。
さこは自らが理想とするアイドルを作るために、もっちゃんを選ばなかった。
それが2021年5月30日だ。
さこの眼は節穴だと断じる。パフォーマンスで判断したとしても、そうでないとしても。
もっちゃんを選ばない時点で節穴なのだ。さこがさこであるがゆえ、どこかでそんな結末もよぎってはいたが。
どうして今のメンバーを選んだのか、それを聞く機会は僕には永久に訪れない。聞こうと思わないからだ。
アイドル未経験者のみがメンバーとして選ばれた。それが理由なのか、聞く機会は永久に訪れない。
それが理由だったところで、そうでなかったところで、いかなる理由があろうと、何になろう。
先生と教え子、そのような関係は一度終わりを告げた。
嵐のような、どうにかなりそうな中でそれでも必死に自らを再構築しようとする夏が過ぎ、秋には大きな舞台を経験して、それでも、年が明けるともっちゃんはアイドルとして帰ってきた。
帰ってくると思わなかった。やっぱり、アイドルであるもっちゃんが見たかった。嬉しかった。
振付師としてますますさこは階段を登っていく。もっちゃんは再び試行錯誤し傷つき、満足する部分もそんなはずではないと思う部分も日々経験しつつ、それでも前に比べてさらに充実しながら、アイドルをしている。
これが、歴史だ。
今のひとさいはもっちゃんが望む舞台たり得ているだろうか、理想とするアイドルへの道が拓かれていようか。
もっちゃんは思う存分努力が出来ているだろうか。
さこと歩み続けることができたIFの世界と、どちらが…という問いはあまりに無意味だ。
もうさこを追いかけていない僕からすれば正確なところはわからないので、おそらくなのだが、明日のサコフェス、ひとさい以外はすべてさこが1曲でも振り付けを行ったところばかり出ている。それでこのメンツを集められるのだから、さこの勢い、振付師としての充実ぶりもわかろうものだ。
何故ひとさい?なんてことはない、MCの高見奈央のバーターだろう。さこと彼女は(さこは途中退場組とはいえ)アイドル戦国時代などという教科書上の時期を過ごしていた戦友でもある。彼女はひとさいのデビューライブのMCも務め、最近では彼女がMCを務める対バンにも連続で呼ばれている。
つまりはそんな運命のいたずらだ。
そしてオープニングアクト、明日の前半に出てくるグループから何人かずつ選んだスペシャルコラボ、そこでもっちゃんが選ばれていた。
ひとさいから選ばれるのであればもっちゃんだろうとは思う。どんな理由で選ばれたのかは知らない。さこのご指名かもしれないし、なんてことなく単にもっちゃんが出るだけかもしれない。
もっちゃんと、1度か2度、サコフェスの話をした。
僕に合わせてくれて、負けたくない、そんなことも言っていたが、もっちゃんの本心などわからない。
どのような思いで明日のステージに臨むのか。特別なステージなのか、ただの対バンなのか。オープニングアクトで選ばれ、その分はしっかり務めなければならない、それだけのただのステージかもしれない。
真剣勝負だと思うが、もっちゃんにとってすべてのステージは真剣勝負、もっちゃんは常に全力だ。
それでも、僕は明日に特別な意味を勝手に見出していたってよいだろう。
この世で一番、僕こそがその権利がある。そう自惚れている。
愛と憎しみに満ちた5年、12年、いや、もはや憎しみなのだろうか、哀しみなのだろうか、運命というものの強さ、宿命というものの逃れ難さ、本当に一筋縄ではいかぬ、そんな面白さ、それを一番勝手に感じているのが僕だ。
恩讐の彼方の、明日のただの対バン。
僕はひとさいが終わったら特典会会場に行き、それが終わればライブ会場に戻ることもないだろう。唯一、まだ復活してから話をしたこともなかった小坂ねね(可憐なアイボリー)に、会いに行くかもしれない。
それだけのことだ。
君は明日の望月さあやを見るべきだ。
この歴史を受けて光り輝く、今を生きる、もがき続ける望月さあやの戦いを見ろ。
もっちゃんを見てきた者として、もっちゃんを少しでも愛している者には、明日の望月さあやを万難を排して見に行くことを推奨する。
見られないなら、仕方ない。そんなことはある。見られる可能性があるなら、ぜひ見ることを勧める。
もっちゃんはいつも全力だ。明日が特別ではない。明日もまた鍛え上げた、磨きぬいた、妥協のない、素晴らしい望月さあやを見せてくれるだろう。
「感慨」はないです、一つの「対バン」なので。