先日、このご時勢ではまだまだ珍しい、声出しが可能なライブを見ていた。

元々僕はコール馬鹿とでもいったような、ひたすら推しの名前を呼んでライブを過ごすような人種だった。だからそのようなライブは血沸き肉躍るべきだった。

前日からの成り行きによる寝不足のせいか、ほかに何かあったのか、とにかくぼんやりしていて、そのようなライブの時にいの一番に声を出すはずのSEで何もせず佇む僕がいて、それでまったくいつも通りのライブと相成った。

曲中に声を出してみるものの、どこか空を斬るように手応えもない。声を出すということについてはすっかり諦めながら見ていた。

 

その代わり、そんなに立つこともない最前中央に恵まれ、のんびりと見るには格好の日だった。

しっかりやっているな、と思った。前日は主催無銭ライブで大いに気勢を上げてからの焼肉と酒、その翌日で、ともすれば全く上がらぬコンディションとメンタリティの中でただ流されてどうしようもないライブをしそうな状況の中で、各々が各々、最良とは言えないまでも、しっかりひとさいのライブをしていたように思う。

 

手放しで喜べるわけではない。

歌の上手い人、そうでない人、ダンスの得意な人、不得手な人。顔は総じてしっかり笑顔で出来ていて、それでも素晴らしいパフォーマンス、アイドル界で最上級のステージ、そんなふうに言えるものでは当然ない。

それでも、ある人は最初に比べれば雲泥の差、やはり初心者のステージというものは上達が手に取るようにわかるなあ、そんなように感じるし、ほかの者は最初からそれなりに形になっていてもやはり本人のさらなる上達、あとはメンバー同士の関係性なのだろう、お互いに意思疎通をし、目を合わせ、そして笑いあって、まさしくアイドルのライブとしてよくなっているよなあ、そんなようなことも感じさせてくれた。

 

以前の僕であれば、もっと違うことを思っていたのかもしれない。

今の僕はただその光景を目を細めて見ている。というのは美化ではないが、実際のライブ中の僕を歪曲している。

僕はもっちゃんのパートに合わせて光る棒を大いに振り回すし、振りコピは軽くするし身体は揺らしている。そんな静かに見ているわけではない。

しかし、上記の通り彼女たちの半年間の歩みに目を細め、大きなイベントの後の蹴飛ばしてしまいかねないような日常を踏ん張り切り気合を見せ、しっかりとステージに取り組む彼女たちを見て、ただぼんやりと良い気持ちでいた。

そもそもコールを諦めた自らにも、かつてであればだらしがない、と驚きあきれ怒りを抱いていたであろうし、ステージをそこまでふんわりとのんびりと眺めていることもなかっただろう。

かつては死ぬ気でステージに対していたこともあるし、その他、何といえばよいのだろう、まあとにかく、並々ならぬ気迫をもってライブを見ていた。

 

老後なのかもしれない。

世間的に老人ではないが、アイドルをたくとしてはもう老人なのだろう。

あるいは、ようやく成熟したと言うべきか。

本来をたくなどというものは、そうやってアイドルのことをにこやかに見ているべきなのかもしれない。

 

もう望むものがないのかもしれない、などというほど欲を捨て去れてもいないし、ひとさいに満たされているわけでもない。

それでも、望月さあやに対してはかなり満足している自分がいる。

具体的なエピソードは秘めておくが、昔から抱いていたパフォーマンスへの拘りはますます強く逞しくなり、なおかつ今のポジションもあって、ひとさい全体に対しての責任感を言葉の端々にひしひしと感じる。

そしてそれに関する思考回路が実に僕の理想通りだなあと感心する。言うことがない。

 

パフォーマンスに関しては自分が引っ張るんだ、という意識がある一方、今抱く劣等感は自らがひとさいの人気向上に貢献できていない、他のメンバーと比べてSNSのフォロワー数も少なく伸びも小さい、そんなところだ。

そもそもが劣等感の塊、これでも少しは自分に対して自信が持てるようになった…というほど自信があるわけでもないが、それでも自らをさほど否定はしないようになった…たまにするが。

数字は数字で仕方ないし、結果は結果で仕方ないし、ただ君が君をいくら否定しようとも僕らが肯定する、そうやって僕らもちづきのをたくたちは何年かを過ごしてきたし、これからも肯定を続けていく。

強いて言えば、だいぶマシにはなったものの、もう少しだけ自分を否定しないでほしい、肯定してほしい、とは思う。

今のもっちゃんに対する不満というか意見というか、思うことはせいぜいそのくらいだろう。

 

私は私の美学に忠実でありすぎるのかもしれない。

もっちゃんがそんなことを言っていた。

もっちゃんを突き動かすのがその美学であるなら、もっちゃんは年を追うごとにその美学に忠実になっているような気がするし、その美学に泣いて笑ってを全力で行っている気がする。

美学に殉じるように日々を過ごしている気がする。

 

その美学は他の人にどう映っているのだろう。

僕にはそれは道に殉じる、侍、あるいは武道家のようにも見える。例えば白い道着に身を包み、背をピンと伸ばして正座するもっちゃんが見える気がする。

きっと僕はその美学に惚れこんでいる。その美学にをたくとして殉じたいと思う。

それ以上も以下もなく、求めるものもないから、だからこそ美学にもっちゃんが殉じている限り、僕も求めるものがないのかもしれないし、満足しているのかもしれない。

だから、ただひとさいのステージをにこやかに見つめ、この間のワンマンでは5色に彩られた客席に目を細め、穏やかな気持ちで見られているのではないのだろうか。

 

究極的には今のままでもいいのか。

きっと答えは是でもあるし、非でもある。

もっちゃんには満足しているが、さらに大きな舞台でその美学に殉じ続けるもっちゃんは見てみたい。

そしていつか自信に満ち溢れてほしい。そこまでいかなくとも、せめて自分を少しは褒め、少しは満足できている、そんなもっちゃんを見たい。その時は彼女が自分を褒める10倍も20倍も褒め称えたい。

そんな日は確かに来てほしい、望んでいる。

 

ひとさいのもっちゃんのことは何度となくこのブログには書いてきたから、僕にとってのひとさいのもっちゃん、その現在地について書いてみた。

僕の理想であり終着点でありラストリゾート、そしてどうしようもない僕に舞い降りてきた天使。

そんなことは何度となく書いてきた。そしてますます深く、そうだと感じる。より惚れこんでいるのだ。

 

望月さあやさん、22歳のお誕生日、おめでとうございます。

22歳のもっちゃんにこうやって毎週のように、飽きるくらいに会えていること、まだ僕にとっては夢のようで、だけれどそれは現実で、だからなんだかふわふわしていて。まだ、ふわふわしていて。

それでいてもっちゃんはこんなにもしっかりしているから、頼もしくて。

 

報われてほしい。報われるべきと思う。

それくらいしかもう求めるものはない。

あとはただ波打ち際ではしゃぐ子供か、ただ海を日がな一日眺める、それくらいしかやることのない老人の如く、もっちゃんを、ひとさいを見つめ、今日はここが出来たね、前に比べて上手になったね、あら、そこはそうじゃないでしょう、何を言っているの、緩やかに一つ一つの出来事を見つめ、穏やかにただにこやかに過ごしていたい。

そんな穏やかな日々を、もういくばくかは少なくとも続けさせてほしい。出来るだけ長く浸らせてほしい。

きっとその日々が続けば、もっちゃんは今よりもさらに自らの美学に忠実になるのだろうし、僕はその美学にさらに深く惚れこんでいく。

そんな幸せな日々をこれからももっちゃんには与え続けてほしいのだ。

 

僕の勝手な思いはもっちゃんには関係がない。

君は君の道を進んでほしい。

つまるところ、望むのはそれだけなのだ。