雨である。

この先の天気予報などを見ても、まるで梅雨のごとく怒涛の曇り・雨ラッシュが展開されている。5月もまだ中旬にやっとこさ足をかけたばかりだというのに、この空模様はどうしたことか。


「雨の」なんちゃら、なんて表現がある。例えば、「雨のナカジマ」。元F1ドライバーの中嶋悟氏が呼ばれていた名前である。

こういう場合、得てして通常状態では実力が劣るも「~の」という条件をつけることによって輝くことを示すことがある。例えば「雨のナカジマ」は、雨だと車が滑るがその分ハンドルが軽くなって操縦しやすくなる、つまり雨によって体力の不足を補うことが出来る、そのようなことがウェットコンディションを得意としていた理由であった、らしい。

もっとも、「雨の」を単に、「じゃあ普通の状態ではダメなんでしょ」と切り捨てるのは早計である。現に、雨の中でのレースほど難しいものもない。視界も悪いしマシンコントロールも非常に難しい。「雨のナカジマ」を、「マシンの挙動に対する感覚の鋭さがこれを成し遂げさせている」と評価する向きもある。

また、「音速の貴公子」ことアイルトン・セナも、「レインマイスター」と呼ばれるほど雨のレースを得意としていたらしいが、そちらについては誰も「実力の不足」を指摘する者はいないだろう。


似たような表現で「夜の」なんちゃら、がある。ただ、こちらの方はどこかの世界での実力をはかる言葉として使われた例を、寡聞にして知らない。

せいぜい、「夜のお菓子(=うなぎパイ)」「夜のピクニック」「夜になってから花は咲く(thee michelle gun elephant「エレクトリック・サーカス」)」位のもので、これらはどれもイメージとして「夜」を貼り付けているだけである(夜のピクニックは単に夜に歩いているだけなのだが)。

ただ、「夜」とつけることにより、昼間の明るい世界ではあまり輝けなかったものが、夜、暗闇、なにか一種呪術めいたイメージを伴って現れ、結果としてその世界においては誰の手にも負えない、といった強烈な印象を与えることに結びつく。

そして、そのイメージは、どちらかというと主流よりはアウトローな、ダーティなものである。快活に笑うのでなく、口の端を無理矢理捻じ曲げて、皮肉めいた笑みを浮かべるような。メインにはなれない、いやいっそのことメインになんてなりたくない、奴らのどこが偉いのだ、と。そんな端くれ者の印象である。


いったい何をダラダラと書いているのか。元はといえば、やっぱり今日誕生日のお嬢さんに起因するのだ。「純情主義」時の、怪しく輝く紅の衣装。その姿を見たとき、俺の中で一つの言葉が浮かんだ。

「雨に咲く薔薇」

この場合も、実力云々というよりはイメージ的な話だろう。とすれば、俺は勝手に彼女にアウトローのイメージを貼り付けていることになる。何と失礼な。

ただ、だからといって彼女が正統派の、いかにもアイドルアイドルしたようなイメージ(例えばまゆゆの如く)で出てきても、おそらくまゆゆには負けてしまうだろう。

だからこそ、「雨」という枕詞をつけることによって、なにか影のあるイメージを貼り付け、彼女独特の、無二の存在としての像を作り上げる。そして「片山陽加像」として俺の中に勝手に建立される。それと現実の彼女を見合わせ、勝手にうなずいてみたり、首を傾げてみたりする。つくづく勝手な話だ。


要はただの妄想なのである。ただ、こちらはどうせ客なんだから、どのような楽しみ方をしたっていいじゃないか、という開き直り。

なら公共の場で書くな、と。ごもっともだ。


きっと、上位2球団にまるっきり勝つ気の見えない巨人と、この陰鬱な空が悪いのだ。