東屋旅館
【 鵠沼の地名の由来 】
鵠沼は湿地が多く、そこに鵠(クグヒ)(白鳥の古名)が多く飛来していたことが鵠沼(クゲヌマ)という地名の由来だといわれています。
鵠沼海岸の開発と「旅館東屋」
明治20年当時、宮内省で御用邸建設が検討され、
その候補地として葉山と鵠沼が選ばれました。
結果、御用邸は葉山に建設されたため、
それ以後、鵠沼海岸では別荘地としての開発が進められました。
また、別荘のほかに数件の旅館も建てられましたが、
中でも有名なのが旅館東屋です。
東屋は、鵠沼海岸開拓の祖といわれる伊東将行が開業した旅館であり、
広大な敷地を有していました。
久米正雄、武者小路実篤、芥川龍之介、菊池寛など、
大正ロマン時代の多くの文人が逗留し創作活動に取り組みました。
※ 芥川龍之介は短篇小説『蜃気楼』の冒頭を、次のように書いています。
ある秋の午(ひる)ごろ、僕(ぼく)は東京から遊びに来た大学生のK君と一しょに
蜃気楼(しんきろう)を見に出かけて行った。
鵠沼(くげぬま)の海岸に蜃気楼の見えることはたれでももう知っているであろう。
現に僕の家(うち)の女中などは逆さまに舟の映ったのを見、「この間の新聞に出ていた写真とそっくりですよ。」などと感心していた。
僕らは東家(あずまや)の横を曲がり、ついでにO君も誘うことにした。(以下略)
ここに出てくる「東家」は「東屋」のことで、明治・大正と昭和初期の多くの文人たちが逗留した鵠沼海岸の割烹旅館「東屋」のことです。
大正11年の関東大震災で東屋は壊滅的な被害を受け、翌年再建されたものの
以前の重厚感はなくなってしまったといわれています。
昭和14年に旅館としての歴史は閉じられ、その後は料亭として営業を続け
平成7年に閉店しました。
下の写真はテニスコートと松林がありますが、
大震災後に再建した東屋の敷地風景と考えられます。
◆関東大震災前の「東屋」(池から本館を望む) ⇓
現在の鵠沼海岸には東屋の名残は見られませんが、
唯一、路地の一画に「旅館東屋」の碑が建てられています。
鵠沼海岸は明治の中頃から海水浴場として知られるようになりました。
明治35年に藤沢駅から片瀬駅(現在の江ノ島駅)まで江ノ島電鉄線が開通し、また昭和4年に小田急江ノ島線が開通したことにより海水浴客も急速に増えました。
夏には海水浴やマリンスポーツを楽しむ人々でにぎわっています。
時には文人たちに思いをはせてみると
鵠沼の海もまた違って見えるかもしれません。