10年前のちょうど今頃は、微熱が続いてていたり・術前検査で[要再検査]で急遽病院から呼び出しされたり...と通院に忙しい日々を送ってました。
→ 自分の職場か?って錯覚する程の出現率でしたので
この頃からある程度の覚悟は始めていましたが、私ざきは
《 一般的なお母さん方と、子供の対する考えが違う...カモ》
と感じて始めていました。
もちろん『この子達を置いて死ぬわけにはいかない』
「私がいなくなったら、この子たちはどうなっちゃうの」
との不安感はもくもくと湧き上がって、抑えようとしてもムリでした。
が、私はバッサリと妥協点を見つけた様に思います。
(術後、そのまま化学療法突入したので...緊迫感が強かったのです。)
自分で整理してみたトコロ、
娘壱号が誕生の時に、すでに準備の前段階を踏んでいた様です。
→と勝手に決めました。
本日はこの〈 誕生秘話〉のお話です。
お付き合い下さい。
...娘壱号へ。
先に謝っておくね、ゴメンこんな母で
199×年12月22日に「ざきの子壱号」生まれました。
寒かった雪のチラつく日でした。
お隣の国で産んだので、特に誰がお見舞いに来るでもなくノンビリ〜っとベットで寝てました。
日本からわざわざ来る家族もいません。
だって年末ですから忙しいのです
ソコは大きな大学病院。
当時『完全母子別』で、『産母は、とにかく寝てろ。今だけだからたくさん寝とけ』みたいだった記憶があります。
一度も子どもに会いませんで、寝とりました
子の父は、赤ちゃんが生まれて別室にて手続きしたら「もうする事ないし、年末で忙しいから」とっサッサと帰社してましたしネww
午前10:30頃産んだので、午後出社にはちょうど良い時間になっていたのです。
年末ですから忙しいのです
こんな年末・冬至の日に生まれた壱号は、退院するまでの3目日間看護師さん以外の誰からも、一度も抱っこされませんでした
ナニセ異国の地です。
仕組みがよく分かってなかったので、赤ちゃんに面会に行く方法を知らなかっただけかも知れません。
が、正直に告白します。
「子どもを産んだ事を忘たように、ゆっくりくつろいでマシタ」
3日目の朝に に気づきました。
やばっ
私今日から赤ちゃんと生活するんだった〜〜
このまま忘れて、一人で退院しそうだったじゃんかぁ。イカンいかんわ〜〜。
とアセった記憶がハッキリと有ります
忘れた自分にも呆れましたが、この時に悟ったコトも有りました。
子は、私の分身ではない
(分身なら、忘れないでしょう...きっと)
別な人間を、新しくこの世に誕生させただけ
→ この子が成長するにあたって「親」と名の付く責任と義務があるのが私の役目なんだなぁ〜
と、本能を忘れ冷静になった瞬間があったのです。
もし今赤ちゃんと別れたら“ キレイさっぱり” 忘れてしまうワ、わ・た・し
本当に心の底から思ったんです!
この湧き上がった《子供 と 私 は別モノ》との感情は、私ががん患者となった時に
あれ?もしかして
少し違うかも、わ・た・し・の母としての気持ち
と感じた一因のように思います。
...つづく