「悔しさ一生続く」傍聴した遺族 カレー事件最高裁判決


1審、2審を維持した形になりました。

裁判自体は一応の終結を迎えたわけですが、被害に遭われた方々は一生事件は終わらないのでしょう。こういったケアをどうしていくのか、どうなされるべきなのか、これは真剣に国を挙げて考えていくべきでしょうね。

こういった無差別テロ的な事件は誰が被害者になっても不思議ではなく、たまたま犠牲者の方が我々の身代わりになってしまったという意識を我々全員が認識して社会全体でケアしていかなければいけないという気持ちを持たなければ、犠牲になってしまった方々も浮かばれないと思うのです。


ところで、こういった事件でとかくメディアは動機については結局明らかにならなかったと、裁判自体に不備があるかのように伝えるのですが、そもそも刑事裁判は動機の解明そのものが目的なわけではありませんし、それに尽きるわけでもありません。

刑事裁判の目的は、法に触れる行為を認定し、それに見合った刑罰を決定することです。刑罰を決めるにあたって確かに犯行に至った経緯や動機について検討することは必要ではありますが、それは数多くの検討すべき要因のひとつでしかありません。


ちょっと話が逸れますが、よく死刑かどうかの判断基準が被害者の数で決まるかのような報道がされますが、まったくもってこれは誤りです。最高裁が死刑相当とみなす基準としてしめしたメルクマール、被告人の名をとって永山基準とか言われたりしますが、これは確かに被害者の数も検討する一要因としながらも、動機や計画性、犯行の態様、被告人の年齢、性向、事件が社会に及ぼす影響など諸般の事情を総合考慮して判断するわけで一義的に被害者が一人だから死刑は回避などという単純な思考回路ではないのです。

事実、被害者一人であっても死刑判決が出たこともあります。


見識ある皆さんは、その点をご留意の上、裁判報道について聞いてください。