前回続き。URLは前記事を参照されたい。
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吉田松陰の有名な句、
「かくすればかくなるものと知りながら止むに止まれぬ大和魂」
は、「知行一致知行合一(*1)」を説いていて陽明学者っぽい変革を望む愛国者と読めます。「負ける戦いもやるしかないのが大和魂」。聞いたことがあります。こんな精神主義がかつて日本を壊しました。失敗を知っていながら行動を起こすことが果たして「知行一致知行合一(*1)」だろうかと疑います。
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 >陽明学者っぽい変革を望む愛国者
 
 意味不明である。陽明学に対して変な先入観を持つてゐるからかういふ記述になる。
 
 >「負ける戦いもやるしかないのが大和魂」。聞いたことがあります。こんな精神主義がかつて日本を壊しました。
 
 吉田松陰先生の「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂」は、松陰先生が下田から江戸へ護送される途上、品川の泉岳寺を通つた際そこに眠る赤穂義士等に寄せて作つた和歌とされてゐる。それがここでなぜ「負ける戦いもやるしかないのが大和魂」と云ふ解釈になるのか理解できない。松陰先生の和歌は自らの内なる信念との対話の産物であり、そこに「勝ち」「負け」などと云ふ基準はない。

 >失敗を知っていながら行動を起こすことが果たして「知行一致知行合一(*1)」だろうかと疑います。
 
 松陰先生は「然れども吾れ専ら陽明学のみを修むるに非ず」と言つてゐてゐる。である以上、松陰先生の行動をなにもかも陽明学の「知行合一」に引き寄せて解釈するのは検証不足であらう。陽明学が何らかの影響を与へた可能性は否定しないが、ここの可能性を導く過程は粗雑と言はざるを得ない。
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「良知」があれば「悪知(変ないいかたですが愚知)」もあります。「知行一致知行合一(*1)」とは、ただ己を基準には計れないことは誰にでもわかります。なら何を基準にするのでしょう。家族なのか、社会なのか、国家なのか。金なのか、人なのか、命なのか。信念なのか、総意なのか。隠すことなのか、明かすことなのか。閉ざすことなのか、開くことなのか。まず「知」とは何かを問うことから始めなければなりません。
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 >「良知」があれば「悪知(変ないいかたですが愚知)」もあります。
 
 開いた口がふさがらないとはこのことではなからうか。「良知」とは『孟子』の中に出てくる、れつきとした出典を持つ言葉である。「「悪知」もあります」と言ふのであれば、どこに出典があるのか示すべきであらう。
 そしてこの方が用ゐてゐる「良知」「悪知」の内の「知」は明らかに「知識」と言つたものを指してゐる。だからこそその次の文章「ただ己を基準には計れないことは誰にでもわかります。なら何を基準にするのでしょう」と云ふ事が書けるのである。その後に長々と「基準にする」ものを列挙してゐるが、何を言つてゐるのか。答へは既に出てゐる。即ち孟子の所謂「良知」である。陽明学の所謂「良知」である。

 >まず「知」とは何かを問うことから始めなければなりません。
 
 その言葉をそのままそつくり御返ししたい。