私は司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く』が大好きである。文庫本はもちろんであるが、1991年だつたかにNHK大河ドラマとなつたものは甚だよい。
「草食男子」などといふ不名譽極まる名で男子一般をが規定される樣な現代日本男子は、かういふものに觸れるのがよろしからう。テレビに同性愛者や女装家が多く時代になつたからと云つて吾が意を強くしてゐる場合ではない。男性は男性性を持ち、女性は女性性を持つこと。これが道理である。
私が好きな「翔ぶが如く」のシーンがある。二つ擧げるが、二つとも同一の原理のものである。
一つ目は第13回目の後半にあるシーン。脱藩覺悟で尊王運動に突出する西郷を首領とする(しかしこの時西郷は事實上の島流し)精忠組が、藩主名義の諭告書で、脱藩突出の是非を論じるシーンである。その中で突出を唱へる佐野史郎氏演じる有馬俊齋(後の海江田信義)が、藩主の諭告が下つた以上それに從ふべきとする蟹江敬三氏演じる大山格之助に對して、
「臆したか、大山さあ」と云ふ。
薩摩隼人の間では「臆した」「卑怯者」「臆病」といふ言葉を恥とし、その自分の名譽に對する侮辱には命をかけてでも守らねばならない。大山は、
「俊齋、もう一度云つてみりやえい」と答へ、刀に手をかける。大久保利通がこれを抑える。さういふシーンである。
もう一つはこれまた有村俊齋が關係してくる話である。第22回京都寺田屋において、伊地知正治に對して有村俊齋があらうことか、
「伊地知どんな、臆病風に吹かれたやつたとか」と云つてしまふ。
もちろん伊地知正治は刀に手をかける。
日本は物質的な面に於いては豐かになつた。しかし精神的な面では間違ひなく中身のないものとなつた。