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自民黨が憲法改正案を發表した。http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf



前文に「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権に基づいて統治される」とある。


私は拙ブログで「國民主權」を批判して來た。

「主權」とは「国政のあり方を最終的に決定することを意味」し、「国民主権とは、全国民が国家権力を究極的に根拠づけ正当化する権威を有すること(正当性の契機)に尽きる」(「」内はwikipedia 国民主権からの引用)。


すなはち、「主權」とは政治上の決定權としては最も重く、國民がそれを擔ふ事によつて國家權力は有効であると云ふ事である。


私は大日本帝國憲法復活論者である。その大日本帝國憲法では第一條で、「大日本帝國ハ、萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定めてゐるが、この根據は『日本書記』の「葦原千五百秋瑞穂の國は、是、吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地なり」にある。明治憲法のコメンタリーである伊藤博文の『憲法義解』もこれを根據にしてゐる。

我が國の統治の權威は「吾(天照大神)が子孫の王たるべき」事にある。私が明治憲法を正統と思ふのもこれによる。明治憲法こそ國體の明徴である。

さて、とすれば、當然のことながら上記國民主權の定義、「全国民が国家権力を究極的に根拠づけ正当化する権威を有すること」はおかしいと云ふことになる。統治權をはじめ日本の國家權力の權威は 天皇に因るのであるから當然である。

この事からも、我が國が「國民主權」をとる事は國體に悖るばかりでなく傳統破壞であり、改正案で「國民主權」をとりつつ「長い歴史と固有の文化を戴く」と表記する事は矛盾する。歴史と文化とは國家無しには成立し得ず、國家の統治システム自體、國家の在り方自體を否定すればさうなる。


また、國民主權をとれば立法で「長い歴史と固有の文化」の切斷だつて出來る。畏れながら我が國國體の「天皇による統治權の正統性」の否定、すなはち「天皇制廢止」だつて可能になる。國家内で歴史・文化が分斷されれば、その國家は生命を失ひ暗黒の體制と化す。そしてかつてそれを爲した國家が革命フランスである。或るひは支那の各王朝とも云へるかも知れない。


そもそも、國民主權を定めておきながら「三權分立」と云ふのは矛盾しないのだらうか。その主權は政治における最高決定權なのだから、ややもすれば立法と行政が權力を欲しいままにして(司法までをも合併して)專制體制に陷る。北朝鮮や共産中國の如くになる。


國民が爲した乃至は決定した結果について、もし國民自身が責任をとれると思ふのであればそれは妄想と云ふ他はない。そんな國民は存在しない。國民とはしばしば無責任であり、時勢に流れ、責任轉嫁する。

國民が政治の結果について責任をとつたことなどなければ、今後もとることは有り得ない。大衆による國民とはさう云ふものであらう。

そして何より、假に國民に責任をとる責任があると妄想しその結果について責任をとるとしても、「責任さへとれば何をしてもいい」と考へるのであれば、結局無責任と云ふ他はないであらう。


以上を踏まへれば、その國民に道徳と云ふものがあるとすれば國民主權などは斷固否定されねばならない。過去との切斷も可能にせしめるその語を標榜する事は、恥知らずである。



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