台湾出身の評論家である黄文雄氏は昨年『儒禍』(光文社)を出版された。
 この中に黄氏が述べる中国学に関する認識について意見を述べたい。問題点は①②③で示し、一行あけて私の意見を述べた。意見と問題点との間は二行あけとした。③に関しては長くなったので読むやすさを考えて、適宜一行あけた。

 
 ①「朱子は、『書、詩、礼、易、春秋』の五経のかわりに『論語、孟子、大学、中庸』を四書と称して、五経をないがしろにしようとした」(137頁)。
 
 朱子が『大学』『論語』『孟子』『中庸』を四書と称したことは事実であるが、従来から経書の中心と目されてきた『易』『書』『詩』『礼』『春秋』をないがしろにしようとしたという事実はない。それは朱子が『詩』と『易』とに注釈を書いていることから分かる(『詩経集伝』『周易本義』)。


 ②「王陽明という人は普通の学者ではなく、官僚にもなった。王陽明は、南京兵部尚書(国防省長官)までなった人で……彼は朱子とまったく同じように、非常に極端な、非漢族を禽獣、けだものとして見なす大中華主義者だ。ある面では哲学を持っているが、大中華主義思想も持っていた。だから、彼が福建省のほうで仕官する間、少数民族の大虐殺を徹底的に断行した。王陽明は、思想家であるとともに、夷狄大虐殺で『四大軍功』を持つ殺人鬼でもある」(145頁)。

 科挙が確立する唐から宋以降の中国の知識人を考えたとき、その人が政治家であり思想家であり詩人であり、というのは中国学では当たり前の話に属する。「士大夫」と呼ばれる人たちがそれである。
 さて、王陽明が福建省を鎮撫したのは事実である。1516(正徳11)年からである。このときの陽明の役職は右僉都御史。
 王陽明の伝記『明史』を読むと「賊」「山賊」を「鎮」めたとか、「討」ったとは書いてあっても、虐殺に類した表現は使われていない。黄氏がいずれの資料に基づいてかようなことを述べたのか分からない。福建省は北京から離れているから当然「夷狄」と呼ばれる者もいたであろうが、それらのものを掃討したのは「賊」であったからであって、「夷狄」故ではない(ただ私は王陽明が中華思想を持っていたことは否定しない)。
 黄氏は上記に続けて次のようにも言う。「王陽明にいわせると、『蛮夷の性はなおも禽獣野鹿のようなもの」で、彼等が教化を拒み、反乱するのは天理に反するものだと唱えた。だから、『わしが彼らを殺すのは、わしが虐殺好きなのではなく、天が彼らを殺す天殺だ』と弁じている」(146頁)。
 しかし黄氏のこの言い方は非常に恣意的である。陽明が「蛮夷の性は~」と述べたのは嘉靖七年陽明晩年の頃の「処置平復地方以図久安疏」に於いてであり、先の陽明の言葉をこの文章の文脈に即して理解するならば、中国が広大な版図を有する以上、蛮族の住む土地にはその蛮族に官職を授けて治めさせたほうがよく、 それこそが蛮夷の性に適っている。そういうことを言う前提として「蓋し蛮夷の性は~」と陽明は述べているのである。であるから当然「彼等が教化を拒み」云々は関係ない。しかもこれは「処置平復地方以図久安疏」にはない文章である。
 陽明が「わしが彼らを殺すのは」云々と述べるのは、これは1517(正徳12))年の「告諭浰頭巣賊」中に於いてであり、そこには以下のようにある。「お前たちは頑迷で変わろうとしなかった。こうした状況をみて我々はやむなく兵を出したのであって、これは私が殺すのではなく、天が殺すのである。いま私にお前たちを殺す心が全くないかといったら、それは嘘になる。しかし私にどうしてでもお前たちを殺したい心があると言えば、それも私の本心ではない。お前たちは今は悪事に手を染めているが、もとはといえば皆同じ皇帝陛下の子供である」。こういった告諭をする官僚を「殺人鬼」と呼ぶのが妥当であるか、私には疑問である。


 ③「孔子に美化礼賛された周公は果たして「聖王」たりうる人物なのだろうか。司馬遷の『史記』魯周公世家では、周王王位簒奪の陰謀を讒言され、楚い出奔したと記されている。『荀子』儒効篇は、「武王崩ずるも成王幼ければ、周公は成王をしりぞけて武王につぐ、天子の籍を踐み、ついたてを負いて立ち、諸侯は堂下に趨走す」と記している。周公旦は実際儒者の創り話にあるように兄武王の後兄の子、成王を輔弼したのではなく、王位を簒奪したのだった。『礼記』明堂位は、はっきりと「周公は天子の位を踐み、以って天下を治む」と述べている。同『礼記』文王世子には「仲尼(孔子)曰く、周公は政をとり、阼を踐み、治む」となっている」(259頁)。

 長い引用の内、ほとんどが引用なので尻込みしてしまいそうであるが、一つずつ検証してみたい。

 黄氏は、儒家が周公という人物を聖人となみなして理想とすることに疑義を呈し、周公が実は王位を簒奪したものだったと述べて、以上の書物を引用する。しかしここにあるもの全ては、周公が王位を簒奪したという趣旨の記述ではない。
 まずは『礼記』からみていこう。黄氏は『礼記』の篇を明堂位、文王世子の順に挙げるが、本来の順序としては文王世子の方が先にあるのだからこれから見て行くほうがよい。黄氏の引用箇所に即して文王世子からその箇所を探すと次のようにある。「仲尼曰、昔者周公摂政、践阼而治」。しかしこれは『礼記』の正義が疏で「此の一節は是れ第三節中に……覆説す。」というように、この篇にすでに出ている。従って今はそこを見ていく。唐代に編纂された権威ある注釈書である『礼記正義』の疏に所謂「第三節」本文にはこうある。「成王幼く、阼を涖(み)ること能はず。周公相(たす)け、踐みて治む」。これに対する鄭玄の注は「践は履也。成王に代はりて阼階を履み、王位を摂り、天下を治むる也。」という。『正義』の疏は本文に対して「武王既に終り、成王 幼弱なれば、阼階を涖て人君の事を行ふこと能はず。周公は乃ち成王を輔相す。」という。明堂位の文章も同じことで、『正義』は「武王崩、成王幼弱、周公践天子之位、以治天下。」という本文に対して「此の一節、周公に勲労の事有るを明らかにす。」と述べており、周公簒奪どころか勲労だと言っている。
 要するにどういうことかと言えば、周公が成王に代わって王位についたのは、成王が幼く、政務を務められないからに他ならない。
 だからこそ『史記』魯周公世家に「其の後武王既に崩じ、成王少くして、強葆の中に在り。周公 天下の武王崩ぜしを聞きて畔かんことを恐る。周公乃ち阼を踐み成王に代はりて政を摂行して国に当たる。」とあるのであり、この『史記』の文章中重要なのは、「周公」が「天下の者が、武王が亡くなったことを聞いて周からそむく」ことだったのである。だからまだ幼く、政治のできない成王に代わって周公が政務を摂り行ったのである。このことを同母兄の管叔が、周公に王位簒奪のもくろみありとして、殷の紂王の子を担いで反乱を起こすのである。周公はこれを鎮圧する。
 そして、成王が成長して、政治のあれこれについて判断ができるようになると、「是に於いて周公は乃ち政を成王に還す。」(『史記』)とするのである。黄氏がここを引用しない理由を知りたい。

 残るは『荀子』儒効篇に対する黄氏の認識であるが、黄氏の『荀子』の引用の仕方は、つまみ食いといってよい。当然であるが、『荀子』の中の文章も上記『史記』中の趣旨と同じである。黄氏は『荀子』の文章として次のように引用した。「武王崩ずるも成王幼ければ、周公は成王をしりぞけて武王につぐ、天子の籍を踐み、ついたてを負いて立ち、諸侯は堂下に趨走す」。
 ここに該当する『荀子』の本文を引くと次のようになる。
「客有道、曰、孔子曰、周公其盛乎。身貴而愈恭、家富而愈倹。勝敵而愈戒。応之曰、是殆非周公之行、非孔子之言。武王崩、成王幼。周公屏成王而及武王、履天子之籍、負扆而坐。諸侯趨走堂下。当是時也、夫又誰為恭矣哉」。
 これをみると、確かに荀子は、下線の箇所にあるように「いったい誰が周公を恭敬だといおうか」と、周公に否定的なことを言っているかのように見える。
 ところが、『荀子』儒効篇には、その冒頭に「武王崩、成王幼。周公屏成王而及武王、履天子之籍」に近い表現が既に載っており、むしろこちらの方が重要である。該当箇所を、非常に長文であるが引用すると、
「大儒之効。武王崩、成王幼。周公屏成王而及武王、以属天下、悪天下之倍周也。履天子之籍、聴天下之断、偃然如固有之、而天下不称貪焉。殺管叔、虚殷国、而天下不称戻焉。兼制天下、立七十一国、姫性独居五十三人、而天下不称偏焉。教誨開導成王、使諭於道而能揜迹於文武。周公帰周、反籍於成王而天下不輟事周。然而周公北面而朝之。天子也者不可以少当也。不可以仮摂為也。能則天下帰之、不能則天下去之。是以周公屏成王而及武王、以属天下、悪天下之離周也。成王冠成人、周公帰周反籍焉。明不滅主之義也。周公(無天下矣)郷有天下、今無天下、非擅也。成王郷無天下、今有天下、非奪也。変埶次節然也。故以枝代主而非越也」。

 重要な箇所に下線を引いておいたが、最初の下線は「武王崩~属天下」までは黄氏引用の箇所とほぼ同じである。『荀子』ではそのすぐ後に、周公が成王に代わって王位を継いだ理由を述べて「天下の周に倍(そむ)くを悪(にく)めば也」と言っている。これが既出の『史記』魯周公世家の「周公恐天下聞武王崩而畔」と同じであることは明白である。
 そして、二つ目の下線部の最初にあるように「周公は周の国を成王に返し、天子の位を成王に返しても、天下の者が周に仕えることをやめることはな」く、周公が成王に代わって踐んだことの目的は達せられた。だから「周公 北面して之に朝」して臣下となったのである。
 荀子は「天子」という位は「少を以て当たる可からざる也」で、幼い成王がその位に即くのはまだ相応しくないとし、その上で前述と同じ内容である「能則~」を述べる。そして「成王が成人したので、二番目の下線部冒頭と同じことを繰り返して「周公は周という国を返して王位も成王に返した。これは『主』つまり成王を蔑ろにしないということである」とする。『荀子』のこの箇所を読む限り、周公が成王の王位を簒奪したとは読めまい。

 この時期になると、さきの戰爭をメディアが取り上げることが多くなる。大東亞戰爭に限らず戰爭の話になると、所謂平和主義者が持ち出す言葉がある。すなはち「義戰無し」である。以下にそれを象徴するURLを貼り、内容を引用する。原文の段落などは適宜改めた。
===
 【春秋に義戦無し】(しゅんじゅうに ぎせんなし)
 春秋に義戦無し。彼(かれ)、此(これ)より善きは、則(すなわ)ち之有り  《孟子 人心・下》
 「春秋」の書には真の意味の義戦はない。ただ、あの戦いよりこの戦いのほうが義にあっているという程度のものが指摘できるだけである。「春秋」には天子の命によって討伐するいわゆる義戦はほとんど見られない。《諸橋轍次著 中国古典名言辞典》
 戦争は、相対する国それぞれが大義を掲げてこれを始めます。それぞれにこの戦いは義戦であると言って戦いを始めます。大義とは人のふみ行うべき重大な道義。それぞれにそれを掲げて戦いを始めます。
  しかしそうして始められた戦争も、時をおいて冷静な目で点検すればそこには、当事者たちの言うところの義戦の姿を見つけることは出来ません。孟子の言うとおり、あの戦争を始めた理由は酷い、それに比べたらこっちはまだましだと言う程度の差がある程度。
 一つの戦いにおいても相対する国の一方が完全に善で、もう一方が完全に悪であるようなこともありません。一方が、他方よりいくらかましと言う程度の差なのです。
 孟子の言う「春秋」は孔子が書いたと言う歴史書、春秋に記された時代を指していますが、春秋という言葉には歴史という意味もあります。歴史という意味で春秋を捉えれば、孟子の言葉は現代までも含んだ長い歴史を指していった言葉とも解せます。歴史上に義戦は無いと。

 昭和16年12月 8日に日本とアメリカの間で戦争が始まった日です(※注)。始まるにあたっても、始めてからもそれぞれに大義を掲げた戦争であったことは、長い歴史の中に記録された他の多くの戦いと同じ。
 そして、それが歴史となったときにもう一度点検すると、他の多くの戦いとおなじくどちらの国も「義」のための戦いを戦ったわけではありませんでした。
(http://koyomi8.com/doc/mlko/200712080.htm)
===
 上記引用ではしつかりと「春秋に義戰無し」と引用してゐるだけ良心的である。中には「義戦無し。彼、此より善きは、則ち之有り」だけを引く者がゐて、明らかに自分の説に都合がよい樣に解釋しようとする。
 さて、今回問題とするのも前回と同じく『孟子』中の一説である。今回も注釋などを考へながら上記引用文を考察していきたい。まづ『孟子』のこの章の全文を引用する。
 「孟子曰、春秋無義戰、彼善於此、則有之矣。征者、上伐下也、敵國不相征也。」
 
 基本的に「春秋に義戰無し」の文意は、上記引用文中に出て來る諸橋先生の解釋に盡きるのであつて、他に付け足すことなどない。が、中國古典を專攻する一人の學生として屋下に屋を架す氣持ちで記す。
 〇「戦争は、相対する国それぞれが大義を掲げてこれを始めます。それぞれにこの戦いは義戦であると言って戦いを始めます。大義とは人のふみ行うべき重大な道義。それぞれにそれを掲げて戦いを始めます。」
 
 その通りである。

 〇「しかしそうして始められた戦争も、時をおいて冷静な目で点検すればそこには、当事者たちの言うところの義戦の姿を見つけることは出来ません。孟子の言うとおり、あの戦争を始めた理由は酷い、それに比べたらこっちはまだましだと言う程度の差がある程度。」

 前半はさうかも知れないが、後半は疑問である。つまり「孟子の言うとおり、あの戦争を始めた理由は酷い、それに比べたらこっちはまだましだと言う程度の差がある程度」と言ふ意味がどう言ふ意味なのかが問題で、ここで孟子の言葉が當てはまるのかが疑問なのである。
 今回も趙岐に登場して貰ふが、趙岐は注の冒頭でかう書く。「春秋所載戰伐之事(春秋に載せる所は戰伐の事なり)」と。「伐」が『孟子』文中の「上伐下」を意識するのは言ふまでもない。ここで孟子が言はむとしてゐることは、孔子が書いたとされる『春秋』には「戰伐」の事柄が書いてあるのだが、そこに「義戰」といふものはない。何故ならそこに書かれてゐることは、敵國の諸侯同士が戰ふことであり(敵國相征)、上(天子)が下(諸侯)を伐つたと言ふことではないからである。從つて相對的にましな戰爭と言ふものがあるだけである。
 朱子が「征所以正人也。諸侯有罪、則天子討而正之。此春秋所以無義戰也。(征とは人を正す所以なり。諸侯罪有らば則ち天子討ちて之を正す。此れ春秋に義戰無き所以なり)」と言ふのはこれである。
 要は、「義戰無し」と言つた後の理由が大事なのであつて、ここを無視して一般に敷衍して「義戰」「戰爭」にまで及ぼすのは少し思慮が足りないと言はなければならないのではないか。さうすると、

 〇「孟子の言う「春秋」は孔子が書いたと言う歴史書、春秋に記された時代を指していますが、春秋という言葉には歴史という意味もあります。歴史という意味で春秋を捉えれば、孟子の言葉は現代までも含んだ長い歴史を指していった言葉とも解せます。歴史上に義戦は無いと。」

 と言ふ文章は、このままでは、私は疑問符を付けざるを得ない。當然ここに、孟子が意識してゐたであらう「(天子が諸侯を討つと言ふ)義戰」の意を付け加へなければ、不十分である。
 なほ人は言ふかも知れない。「中國古典學には『斷章取義』といふものがある。そんなことは常識である」と。確かにその樣にして古典が現代に活用されるといつた面がある。しかし、だからと言つて、それは勝手な解釋を容認することを意味しない。ここの場合で言ふなら、孟子はあくまで、「孔子が書いた『春秋』には、天子が諸侯を討つといふ『義戰』はない」と言つたのであつて、「(戰爭するに當たつて)義戰はない」と言つたのではない。從つて本來なら「歴史上に義戦は無い」とまで言つていいのかも疑問なのである。
日本ではいつからか「男兒厨房に入らず」などと稱して、男が料理をしない言い譯として使はれてゐる。個人的には別にそんなことはどつちでもよく、個人が勝手にしたらよいと思つてゐる。ところが、この言葉の出典が『孟子』の中の「君子遠庖厨也」であるとするなら話はやや異なり、ましてやこの『孟子』の言葉の解釋に疑問があるなら一言横から口を挾みたくなる。
 以下はgoogleにて「男児厨房に入らず」と検索してくると上位に出て來るブログの中の一節である。全文はURLを貼つておいたのでそれを御讀み頂きたい。
====
ところで「男子厨房に入らず」の言葉は、「孟子」の中にあり、「君子、庖厨を遠ざくる也」から来ています。この言葉を簡単に説明しますと、食肉として引かれている牛が殺されるのに抵抗している様子を君主が見て、それを憐れみ、「そんなに牛が嫌がっているのなら殺すのをやめなさい」と発言したことに対して、「国民が食べていくために動物を屠殺することは仕方のないことです」と言って、臣下が諌めた話からの由来です。
国を治めようとする君主が生きた行くために必要な家畜を殺すところをみるのは忍びがたくなります。その声を民が聞いてしまうと、食べるのに忍びなくなってしまいます。しかしそんなことでは、天下を治めることはできません。それ故に、君主たるものは、そのような気持ちになってしまわないように、調理をするために動物を殺している厨房には近づかないほうが良いのです、という意味です。(http://turumi-jinjya.blog.so-net.ne.jp/2012-09-03)
====
 以下、説明を見て行く。 問題箇所は〇で示し、それに對する私の疑問點は一行下に記す。
〇「この言葉を簡単に説明しますと、食肉として引かれている牛が殺されるのに抵抗している様子を君主が見て・・・」

 『孟子』原文は「牛何之。對曰、將以釁鐘。王曰、舍之。吾不忍其觳觫、若無罪而就死地」である。牛を牽いてゐるものは「將に以て鐘に釁らんとす(將以釁鐘)」と答へてゐるのである。何故「食肉として引かれている牛」と言ふことになつたのであらうか。
 また續けて、「牛が殺されるのに抵抗している様子」とあるが、『孟子』の代表的な注釋書『孟子章句』で趙岐は、「觳觫」に「牛の當に死地の處に到るべきの恐るるの貌なり(牛當到死地處恐貌)」としてゐる。要するに、これから儀式の爲に殺されるので、恐れてゐる樣子であると言ふのである。趙岐の古注に對する朱子の新注『孟子集註』でも「觳觫とは恐懼の貌なり(觳觫、恐懼貌)」としてゐる。「抵抗」に類する表現は見られない。

〇「「国民が食べていくために動物を屠殺することは仕方のないことです」と言って、臣下が諌めた話からの由来です。」

 前半の文章はどこから來たのかが全く分からない。上記の樣に、牛は新しく鑄られる鐘の儀式の爲に殺されるところだつた譯で、食用に供する爲ではない。後半の「臣下」と言ふのも誰のことか分からない。孟子は齊の宣王の臣下ではない。牛を牽いてゐた者は王を諌めた譯ではない。一體「臣下」とは誰のことであらうか。

 〇「国を治めようとする君主が生きた行くために必要な家畜を殺すところをみるのは忍びがたくなります。その声を民が聞いてしまうと、食べるのに忍びなくなってしまいます。しかしそんなことでは、天下を治めることはできません。」

 初めの一文に關しては既述なのでもう述べない。その後の一文、「その声を民が聞いてしまうと、食べるのに忍びなくなってしまいます」であるが、民は「以王爲愛(王を以て愛しむと爲す)」と謂つたのであつて、食べることは關係ない。

〇「しかしそんなことでは、天下を治めることはできません。」

 孟子が宣王に天下の治め方を説いたのは無論「そんなこと」によつてではない。孟子は、齊の宣王が牛に對して懷いたのと同じ気持ちを以てそれを近きより遠きに施せば、天下を治めるのは、掌に轉がす樣に簡単であり(天下可運於掌)、天下を安定させることが出來る(足以保四海)と説いたのである。


 私は全ての『孟子』の注釋書に目を通した譯ではないから、あるひは上の樣な解釋もあるのかも知れないが、通釈とは言ひ難い。