「大河見て鎌倉見れば納得し」
昨日は晴天、家にいても大掃除はまだ?邪魔なので外へ・・
今年話題になったNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も終わり、年の締めくくりとして、鎌倉で開催中の大河ドラマ館を見学に行った。
かなり混みそうだし、時間制限もあり、事前にネット予約で行った。
鎌倉は何度も行ってるが、恥ずかしながら、まだ頼朝の墓も行ってない。今回の目的は、ドラマ館見学と頼朝の墓の参拝とした。
ルートは、鎌倉駅→段葛→大河ドラマ館→法華堂跡(頼朝の墓)→法華堂跡(北条義時の墓)→大蔵幕府跡→来迎寺(西後門)→鶴岡八幡宮→小町通り→鎌倉駅
■段葛(だんかづら)
鶴岡八幡宮の参道である若宮大路の中央に、盛り土された参道があります。この参道が段葛と呼ばれています。若宮大路は、1182年(養和2年)、源頼朝が妻政子が長男であるの頼家の誕生の際に、安産祈願のために造られたと言われています。
■大河ドラマ館
予約時間より30分早く入れた。さすが人気のドラマ、多くの人が次々並びましたよ。
■TVの主要俳優の等身大のパネル、皆さん並んで写真ですね。
■北条義時の甲冑、着るだけでも大変そう。
■次は、法華堂跡で頼朝の墓および義時の墓へ。
■階段を登ると源頼朝墓とされる石造りの層塔があります。かつて、源頼朝の墳墓堂である法華堂があった場所とも推定されています。安永8年(1779年)に島津重豪により頼朝墓の整備が行われ、現在も墓所内に残る碑文から当時、玉垣、灯篭、水盤等が寄贈されたことがわかっています。なお、現在の層塔は平成元年(1989年)に塔身と第1層の蓋石を残しき損されたものを翌年修理・再建したものです。
■北条義時の墓
16m程度の石段を上がった先にある770平方メートル程度の平場。2005年の発掘調査で、この平場の地下から墳墓堂(法華堂)の遺構が発見されました。発見された遺構の位置が、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記載された頼朝墓からの方位と地形と一致したことから、遺構は北条義時が祀られていた北条義時法華堂の跡であると推定されています。遺構は現在の地表より下にあるため、保護するために調査後は埋め戻しを行い、草地として維持管理しています。
■まだ、紅葉が一部残ってました。
■三浦氏
平場の左手には北条氏によって滅ぼされた三浦泰村一族の墓があります。宝治合戦で泰村と三浦一族など500余名は源頼朝の墓所である法華堂おいて自害しました。これにより北条氏と比肩し得る唯一の勢力であった三浦氏は滅亡し、北条得宗家による専制体制が確立することになります。
■大江広元、島津忠久、毛利季光の墓
平場の奥、鳥居をくぐって急勾配の階段を登るとやぐらが3つ並んでいます。左から、大江広元、島津忠久、毛利季光の墓となっています。
広元の兄である中原親能が源頼朝と親交があり早くから頼朝の臣下となった縁で京都より招かれました。
■来迎寺(らいこうじ)
当寺の本尊は阿弥陀如来である。客仏として如意輪観音・地蔵菩薩・跋陀婆羅尊者がある。この3体の像は源頼朝を葬った法華堂(現・白旗神社)にあったものだが、明治の神仏分離により法華堂が神社となったため、当寺に移されたものである。
■「筋違橋」(すじかえばし)
鎌倉十橋の一つ「筋違橋」(すじかえばし)は、六浦(金沢)から鎌倉へ向かう六浦道(金沢街道)の突き当りあった。 筋違橋からは、若宮大路と並行する小町大路が走り、宝戒寺前からは鶴岡八幡宮の南を走る横大路に接している。 名の由来は、「く」の字に架かっていたためといわれる。
■人力車っもかなり走っており、景気も回復?
■建保7年1月27日(1219年2月13日)、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が、鶴岡八幡宮で暗殺されました。左の 大銀杏 は, か つ て 鎌倉時代 に 源実 朝 が甥 の 公 暁 に よ っ て 殺害 され た時、 公 暁 は こ の 石の 階段脇 に あ る 大 銀杏の 陰に 隠 れ て , 階段 を下 りて くる 実 朝 を待 ち構 え, 目的 を 遂 げ た と さ れ て お り, 隠 れ 銀 杏 と もよ ば れ ,ました。犯人は兄・頼家の遺児・公暁でした。
■小町通りも、若者中心に多くの観光客で賑わっていました。
■13,000歩の散策でした。鎌倉は見どころ満載ですね。