キングヘイローは坂口正大厩舎に入った。坂口正大調教師(今は引退)はマヤノトップガンなどを管理しており詳細はその解説に回したいと思う。…やけに気性難を扱うことの多い人物としても知られる。

元々デビュー戦で騎乗予定だったのは一流騎手・武豊だったのだが、10月5日の毎日王冠にG1馬ジェニュインの騎乗依頼を受けていたため騎乗できず、坂口に断りの電話をかけた際、その場にたまたまデビュー2年福永祐一が出くわし、「乗る?」という一言で騎乗が決まったといわれている。(ちなみにジェニュインはバブルガムフェローに敗れ5着である)

 

さて福永祐一は96年にデビューし、史上2人目のデビュー2連勝を飾る好スタートを切ると、11月には87年の武豊以来となる新人50勝を達成、12月には香港国際カップに騎乗しJRA賞最多勝利新人騎手という期待の逸材だった。

97年7月22日のエンプレス杯シルクフェニックスに騎乗し重賞初制覇、その勢いの状態でキングヘイローと出会ったのだった。

 

デビュー戦・黄菊賞と2連勝の勢いで東京スポーツ3歳Sに挑み、上り最速で人馬ともに中央重賞初制覇を飾った。2着にはこの年の朝日杯2着(そして後に大金星を挙げる)のマイネルラヴがおり優れた能力に間違いはなかった。12月20日のラジオたんぱ杯3歳S(今のホープフルS)では1人気ながらもベテラン岡部幸雄騎乗のロードアックスに差し切られ初の黒星となった。

 

それでも上りのよいキングヘイローはクラシック有望だろう…と思われたがもっと人気を集めるような馬が目白押しだった。

マル外(輸入)のクラシック規制があったため出走こそかなわないが、マイネルラヴを相手にせず無敗で朝日杯をレコード勝ちした「栗毛の怪物」グラスワンダー、ダートレースでぶっちぎりを見せるエルコンドルパサー、内国産を見れば三冠馬ナリタブライアンと4分の3同血で新馬戦レコード勝ちのファレノプシス、武豊が期待する才能とグッドルッキングの裏に母を失い乳母に育てられた背景があるスペシャルウィークデビューした時には父が廃用しかし逃げの実力抜群のセイウンスカイ…記述しきれないほど数多のスター候補がいたのだ。

端的に言おう、ライバルを黙らせる圧倒的実力を持つ未知の血統陰を背負った日本人好みの生い立ちを持つ内国産、馴染み深い馬の血統…それに対して元来グッバイヘイローの繫殖成績は悪く、良血のあまりに「エリート」「どうもいけ好かないお坊ちゃん」「こんな海外良血がどうして日本なんかにいるの?」とあまり好感を持たれなかったのである。テイエムオペラオーも類似しますね、そしてこういう風に僻むのは筆者みたいなやつですすみません。

 

さらに言えばうなぎ登りの鞍上・福永祐一騎手への僻みもあっただろう。

なぜなら彼の父は「馬事公苑花の15期生」出身の日本競馬屈指の天才と謳われ、武豊や的場均、田原成貴でさえも目標にする不出世の天才・福永洋一だったからだ。

以降福永祐一ないし福永洋一について語っていきたいと思う。

ヘイロー系がダラダラとなり申し訳ありません

 

引退式で日本に輸出される旨が伝えられるとブーイングが起こったとの風説もあるが、日本行きが決まったのは引退レースとなるBCディスタフの二ケ月後のキーンランド1月セールである…などまぁアメリカ競馬関係者が手放したくなかったグッバイヘイローが日本でどうなったのかをまずは見ましょう。

 

さてグッバイヘイローの1995に至るまで、グッバイヘイローナスルエルアラブ(ノーザンダンサーの3×4のインブリードを持つ良血馬で10億円のシンジケート)という新型種牡馬と3回交配するも死亡・地方でも苦戦・不出走と散々な結果。ナスルエルアラブ自身も成功せず最後は行方不明になりました。

 

そんな中付けられたのがダンシングブレーヴです。

ダンシングブレーヴ

躍動する勇者」という意味で名付けられ、ノーザンダンサー系の後継と期待されたダンシングブレーヴでしたが当初は「顎の噛み合わせがオウムのように悪く、両目は小さく、前脚は不完全で、前のめりになって歩いていた」と見栄えの悪い馬だった。

父・リファールは36歳という長寿をまっとうし、その生涯で20頭ものG1馬を輩出した。武豊騎乗でムーラン・ド・ロンシャン賞を制したスキーパラダイス(皐月賞馬キャプテントゥーレの祖母)やフィリーサイアー(牝馬特化型種牡馬)のアルザオ(ディープインパクトの母父)、モガミ(ダービー馬シリウスシンボリやジャパンC王者レガシーワールド等、主に障害重賞馬を多数輩出)が代表産駒としてがあげられよう。

 

しかしレースを重ねるにつれて「三冠馬ニジンスキーの再来」と呼ばれる能力が開花し、英ダービーでは12馬身最後方から1ハロン10秒3という電撃の末脚で重いエプソムの丘を切り裂き半馬身差に迫る2着と意味の分からぬ健闘をしたのだまぁ騎手は位置取りが無茶だ!勝つ気があるのか!とフルボッコにされてしまったがね

その後騎手のせいで負けた因縁の英国ダービー馬シャーラスタニや愛2000ギニーを牝馬で唯一制した”鉄の女”トリプティク、5連勝中の仏ダービー馬ベーリング、12連勝中の独ダービー馬アカテナンゴ、チリのオークス馬マリアフマタ、日本ダービー馬シリウスシンボリといった出走15頭中11頭までがG1競走優勝超豪華メンバーの揃った凱旋門賞を、ダンシングブレーヴは英2000ギニー、エクリプスS、KGVI & QEDSを勝ち抜いた身で挑み、最終コーナー辺り最後方で大外ぶん回し、「もう勝てないな…」そんな状況から200mは10秒8とも言われる異次元・桁違い・問答無用・唖然呆然でターフもろともライバルを切り裂いて優勝。

2分27秒7のレースレコードでベーリングに1 1/2馬身差をつけてのもの、正直今でも苦しいロンシャン競馬場、20世紀で映像を見ればわかるように後方から仕掛けて届くはずのないレースを圧勝したのだからとんだ化物である。

ダンシングブレーヴ:凱旋門賞 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)

BCターフではアメリカ芝の強豪で同じリファール産駒のマニラに惨敗こそしたが最強の座は揺るがず、レーティング見直し+フランケル登場まで世界一の最強馬となった。このレーティング見直しは「フランケルが上位ならダンシングブレーヴより高い数値にすればいいだけであって、わざわざ数値を下げるというのは意味が分からない」「数十年も世代が違う馬は比較しようがないから、ダンシングブレーヴが最高なのは変わりない」と大バッシングが欧州にて今でもバチバチ、まぁ主戦場が違うわけであり、やはり時代を超えて最強馬のトップにいるのは間違いないだろう。

 

日本円換算で総額約33億円の大型シンジケートが組まれて種牡馬入りしたが、不治の病で奇病とも言われるマリー病(鳥の結核の一種で馬が罹るのは極めて珍しい。骨が肥大化したり、関節が腫れたり、発熱、むくみ、激痛が身体中を苛み、助かったとしても受胎率は下がる)を発症しご破算となった。

初年度産駒はまったくだめ、安楽死か売却かで割れていた欧州の情報を聞き入れたJRAは購入の討論会を開く。

日本競馬界では「このような名馬を格安で購入できるチャンスを逃すべきではない」という意見と「そんな病気の馬を何億円も出して買ってきて、すぐに死んだらどうするんだ」という意見が真っ二つに対立、JRAの半ば強引な決断によって91年に約8億2千万円で輸入されたのだった。

とはいえ、病気持ちのダンシングブレーヴは非常に見栄えが悪く、病気遺伝のデマによって優秀な牝馬はオークス馬のマックスビューティとエイシンサニーほどという大金はたいた種牡馬としては寂しいものだった。

 

欧州は「ダンシングブレーヴはだめだったな、もう忘れよう」としていた1993年、ダンシングブレーヴ産駒が大暴れしてしまうのだ。英・愛ダービーを制したコマンダーインチーフホワイトマズルが伊ダービー、ウィームズバイトが愛オークスを勝利。世代の39頭中8頭がステークスウィナーとなりダンシングブレーヴはサイアーランキングは2位になったのだ。

これには欧州の競馬ファンがブちぎれて、「早計な判断から起きた国家的な損失」と紙面に書き出される有様だった。

 

ダンシングブレーヴの輸入前に出た外国産駒ダンシングサーパスが94年の宝塚記念で3着に入ったこともあって日本競馬界は歓喜歓喜!!ダンシングブレーヴには良血牝馬との交配依頼、ホワイトマズル・コマンダーインチーフも輸入され国内はダンシングブレーヴブームとなった。…しかし195年マリー病が再発。懸命な治療で一命は取り留めるも、馬房に空調を付ける、スタッフが24時間付きっ切りで看病するなど種付けなんてできなくなった。

種付けも20頭制限に落ち込んだが、97年桜花賞優勝のキョウエイマーチが長期的活躍を、同年のエリザベス女王杯をエリモシックが制覇、テイエムオーシャンが01年牝馬二冠達成と確実に成績をたたき出し、SS旋風の中サイアーランキングは最高5位を記録した。

従順な我慢強い性格のダンシングブレーヴはマリー病を何度も耐えてきたが、1999年8月2日についに絶命。痛みに耐え、死してなお脚を屈することなく仁王立ちでこの世を去った。

 

後継は充実し、コマンダーインチーフからはアインブライド(阪神3歳牝馬S)・レギュラーメンバー(川崎記念、JBCクラシック、ダービーグランプリ)・マイネルコンバット(ジャパンダートダービー)らを輩出、スエヒロコマンダーらの種牡馬入りで母系が存続している。

ホワイトマズルからはイングランディーレ(天皇賞・春)・スマイルトゥモロー(優駿牝馬)・シャドウゲイト(シンガポール航空インターナショナルカップ)・アサクサキングス(菊花賞)・ニホンピロアワーズ(ジャパンカップダート)らを輩出、ファイナルマズルの22年地方移籍まで中央で活躍多数の他、地方重賞馬も多く今後の系統が期待される。

母父としてはオアシスドリームなどの欧州G1馬が登場、日本ではスイープトウショウ(宝塚記念、エリザベス女王杯、秋華賞)・メイショウサムソン(二冠・春秋天皇賞制覇)・ビッグロマンス(全日本2歳優駿)やネコパンチ(日経賞)などが活躍、現役でいえばホッコーメヴィウスが22年に障害重賞3勝を挙げている。

また21年、ダンシングブレーヴが病により追われた欧州に曾孫のディープボンドが参戦し、フォワ賞を優勝するに至った。勇者の勇躍はまだまだ止まらないんだ。

 

以上のように、偉大なる両親から生まれた鹿毛の牡馬。グッバイヘイローにとっては生涯唯一の重賞・G1馬となるその馬は「アサカヘイロー」で登録されていたが、キョウエイマーチらの活躍から代表・浅川吉男が貪欲に期待しようと1番の馬!という意味を込めて「キングヘイロー」に改名され、ターフに出るのだった。

 

時は黄金時代と呼ばれる多種多様な血統・様々なスペシャリスト・猛者が集まる時代。同じく偉大な先代を持つ若き騎手と共に苦難のターフをキングヘイローは駆けていく。

 

 

◆JRA非売品ポスター◆ジョッキー列伝 No.38 福永祐一 B3サイズ◆キングヘイロー 未使用品◆_1

5回目は来年2月末に引退される福永祐一騎手とキングヘイローについてのにわか解説です。

 

1995年4月28日に「グッバイヘイローの1995(第4仔)」が協和牧場で生産されました。

協和牧場は1973年設立、84年にキョウワサンダーがエリザベス女王杯を制し、初重賞&初GⅠ制覇となります。これはタマモクロスの解説にて話した南井克巳キクノペガサスの2着となったレースです。

こちらの牧場からはトウカイトリックが記録を破るまで、中央競馬の平地競走および平地重賞競走の最高齢勝ち馬だったアサカディフィート(10歳で小倉大賞典優勝)などが輩出されることとなる。

 

牧場は1990年1月にケンタッキーオークスなどG1競走を7勝(88'BCディスタフでのパーソナルエンスン・ウイニングカラーズとの三つ巴決戦で有名、なお結果は3着)した名牝グッバイヘイローを210万ドルで落札・輸入し、繫殖入りさせた。

ただし、当時は円レートが$1=90円台で、「ひまわり」や「エンパイアステートビル」といった「アメリカの国民的な魂の象徴」を日本人が買いあさる真っ只中であり、「日本人はアメリカの魂の全てを買いあさるのか!!」と猛抗議が起こる時代だった。競馬会もサンデーサイレンスなどが成功する前であり「競走馬の墓場」と蔑まれていた日本に売却することは非常につらい決断でありブラッド・ホース誌に「Sayonara, Goodbye Halo」と悲しまれる有様だったということを忘れてはならない。

※余談ですがグッバイヘイロー、さよならヘイローという解釈は「亡きグッバイヘイローの父・ヘイローにさようなら」なんて意味ではありません!グッバイヘイローは1985年生まれ、ヘイローは2000年死去なので元気でしたよ!

 

ヘイロー系」の簡単な説明

さてグッバイヘイローの父・ヘイローは偉大なるアメリカないし世界の種牡馬である。何を言っても代表産駒はサンデーサイレンスである。彼がどれほどのものかはフジキセキで語るにしても、競馬・ウマ娘を知っている人には教養レベルな馬だ。

 

他に80年エクリプス賞最優秀古馬牝馬となったグローリアスソングのラインが素晴らしい。

シングスピール(96'ジャパンカップなど制覇)からはローエングリン‐ロゴタイプ親子やアサクサデンエン(安田記念)などG1級多数

ラーイ(ベルエアハンデキャップ米G2を10馬身差の圧勝)からはマライアズストーム‐ジャイアンツコーズウェイ母子、ファンタスティックライト(GⅠ6勝、テイエムオペラオーらとの対戦で有名)、セレナーズソング(アメリカ競馬殿堂)など

グランドオペラ(現役時1戦のみ)からメイセイオペラ(日本競馬史上唯一、地方競馬所属にして中央競馬のGI競走・フェブラリーS制覇)など地方種牡馬で活躍

・繫殖牝馬シャンソネットからはNHKマイルカップ勝ち馬ダノンシャンティ

というほどの名繫殖牝馬である。ヴィルシーナヴィブロスシュヴァルグランらはこれに属する。

 

デヴィルズバッグ(エクリプス賞最優秀2歳牡馬)からは

デヴィルヒズデュー(サバーバンハンデキャップ連覇などG1競走5勝)‐ロージズインメイ(ドバイワールドカップ)

ディアブロ(G2馬)‐ナイキアディライト(かしわ記念など地方重賞多数)

タイキシャトル(1998年年度代表馬)‐メイショウボーラー(フェブラリーS)

などの名馬が輩出

 

他、サザンヘイローアルゼンチンリーディングサイアー9回サトノダイヤモンドの母母父)やセイントバラード(2005年アメリカリーディングサイアー)など現代に至るまで切っては話せない存在であるが…問題は気性難である。サンデーサイレンスなどから十分にわかることだが、大変難儀な気性の持ち主である。ヘイロー父のヘイルトゥリーズンこそ「ヘイローも父と比べれば並みの馬に見える程であった」と本当にヤバかったらしい言われるが、気性は荒く、よく人間に噛みつくためいつも口籠を装着されていたヘイロー、子どもたちにも当然遺伝する場合があり、グッバイヘイローの1995はこれを引き継いでしまうが…それはまた後述する。

 

グッバイヘイローの血統で重要な要素は母父・サーアイヴァーはヘイローと同じくターントゥ系で母方血統も類似性があり、ニアリークロスと表現される関係にある。ワシントンDCインターナショナルなどG1複数優勝や凱旋門賞2着という高い競走成績と共に、「南半球のノーザンダンサー」の異名をもつオセアニアの大種牡馬・サートリストラム(02年に外国馬として初めて中山グランドジャンプを制したセントスティーヴンの父父)以下多数のラインを残している。

※ニジンスキーで英国三冠やアレッジドで凱旋門賞連覇、エプソムダービー9勝の偉業を成し遂げた世界的名手・レスター・ピゴットがサーアイヴァーの主戦であったが、ピゴットは「他の馬と違って、彼と私は特別な関係にあった。とても賢い馬で、レースの経験を重ねる毎に、どんどんプロフェッショナルらしく育っていった」と語るほどの文武両道型でヘイローみたいな問題児ではなかった。

 

大変長々となったので父系は次回にしたい。ごめんなさい

猛烈な勢いで上り詰めるタマモクロスと、最後までしっかりと追う南井のパワースタイルのコンビは「遅れてきた大輪」「白い猟犬」と人気を博し、果ては日本一のコンビとなった。

タマモクロスの引退後はかつてのライバル・オグリキャップとコンビを組み、数々の熱戦を乗り越えた。

バンブービギンとのコンビで89年菊花賞を制し、クラシック初制覇を成し遂げた。バンブーメモリーとの激闘で知られるバンブー牧場にとっては、82年ダービー馬バンブーアトラス(鞍上はテイエムオペラオー管理の岩元市三)の叶わなかった偉業を成し遂げる形となった。翌年には代打騎乗ながらハクタイセイ皐月賞を制し、ハイセイコーとの親子制覇に貢献した。

 

シンウインドで京王杯スプリングC、ファンドリポポで朝日チャレンジCを制し、翌年にはシンホリスキーできさらぎ賞を、トウカイテイオーのライバルと目されたイブキマイカグラ阪神3歳SからNHK杯を、ケイエスミラクルでスワンS含むレコード勝ち3回を上げた。

 

90年阪神牝馬特別をメインキャスターで制し、宇田明彦とのコンビによる最後の重賞制覇を収めた。宇田との競馬人生最後の逸話がある。武豊と中日スポーツ賞4歳Sを制することになるロングアーチ、この時日本ダービーの予想では皐月賞を制したハクタイセイで続行すると思われていたが、南井は宇田の馬に乗ってダービーを走りたいとし、結果こそ6着(ハクタイセイは武豊で5着)だったが、G1馬を蹴ってでも恩師に報いたいという南井の人間味を示すものだ。

92年、京都市内の病院で人間ドックを受診した宇田は食道にポリープができているのが発見され、摘出手術を受けるも衰弱し、更には肝癌が発見され、京都市内の病院に入院、1994年1月19日に肝不全のため63歳で現役調教師のまま死去した。

宇田厩舎は解散したが、門下生から南部杯ニホンピロジュピタなどを管理した目野哲也やメイショウドトウ主戦の安田康彦、藤岡佑介・康太兄弟の父・藤岡健一調教師が巣立った。

南井は宇田の死後もフリー騎手ながら宇田厩舎の調教服を着て調教に臨み、生涯恩義に報い続けた。

 

工藤嘉見管理のカミノクレッセとはダート不遇時代において重賞2勝し、安田記念と宝塚記念連続2着と健闘した。

ナリタタイセイでNHK杯、マイスーパーマンでセントウルS(当時1400mG3だった)を制し、代打騎乗のエルウェーウィンでビワハヤヒデを破り朝日杯を制する活躍を見せ、

 

日本ダービーにてマルチマックスの落馬事故により負傷した「気が付いたら空が見えた」後、ネオアイクで今はなきタマツバキ記念を制覇。

そして更なる運命の出会いがあった。大久保正陽の勧めで出会ったナリタブライアンである。朝日杯からクラシック三冠・3歳四冠まで南井の手腕とブライアンの豪脚で見事に偉業を成し遂げるに至った。

この勢いのままにナムラコクオーでNHK杯を、マーベラスクラウンで重賞2勝上げたのちコタシャーンやパラダイスクリークといった世界の強豪を抑えジャパンCを制する好成績をたたき出した。年間GⅠ4勝は当時の最高記録、94年は南井の天下であった。

 

クイーンC・アーリントンCをエイシンバーリンで、共同通信杯4歳S・スプリングSをナリタキングオーで、阪神大賞典をナリタブライアンで、小倉3歳Sをエイシンイットオーで制し順調だった中、95年10月14日に京都第4競走・4歳以上500万下でタイロレンスに騎乗した際、発走前にゲート内での落馬により右足関節脱臼骨折し、全治4か月の重症を負ってしまった。

 

96年のアルゼンチン共和国杯をエルウェーウィンで優勝、馬にとっては4年ぶりの重賞制覇、自身にとっても復活優勝であった。

 

翌97年にエイシンバーリンで京都牝馬特別とシルクロードSを制覇、特にシルクロードS日本競馬史上初めて芝1200メートルで1分7秒の壁を破る1分6秒9の日本レコードタイムで勝利する記録であり、葦毛のバーリンとのコンビは人気であった。

ロイヤルスズカでダービー卿チャレンジT、シンカイウンで朝日杯チャレンジCを制する中、はたまた偉業を成すことになる。

シンウインド以降縁のある二分久男調教師からマチカネフクキタルを預かり、秋の神戸新聞杯・京都新聞杯・菊花賞を怒涛の勢いで制覇、フクキタルの鬼脚と南井の手腕がかみ合い称賛されている。

翌98年に目黒記念をゴーイングスズカで制した後、武豊の代打騎乗でサイレンススズカ宝塚記念に挑んだ。代打と距離不安から抑えの逃げながらも見事に優勝し、結果として人馬共に最後のGⅠ制覇となった。

 

工藤厩舎のウイングアローでスーパーダートダービーなど重賞4勝し、後に朝日杯を勝つアドマイヤコジーンで東京スポーツ杯3歳Sを制したのが最後の重賞制覇である。

 

ラストライドとなる99年2月28日の白川郷S(1600万下)にて、リキアイワカタカを勝利に導き有終の美を飾った。

逸話として戦友の土肥幸広(17年に55歳で没)から鞭を借りて騎乗、南井の押切に迫った2着ケイエスグットワンの鞍上が土肥であった。土肥は引退後は南井克巳厩舎の調教助手に転身していた。

レースを中継した東海テレビでは、最後の直線で実況アナウンサーである吉村功が「ここでは他の馬には失礼して」と断ってから、カメラを鞍上の南井の姿をクローズアップにして実況を行われた。

南井 克己騎手 引退レース 白川郷ステークス リキアイワカタカ - YouTube

 

通算勝利13120戦1527勝、重賞勝利77勝、G1級勝利16勝である。グローバルダイナやキクノペガサスといった名牝との出会いはあったが牝馬GⅠには手が届かなかった(イブキマイカグラの阪神3歳ステークスが最後の牡馬限定戦だった)。

2000年に工藤嘉見厩舎を引き継ぎ、かつて騎乗したウイングアロー第1回ジャパンカップダートを制し1年目でG1制覇を飾った。縁の深いタマモホットプレイやタマモベストプレイなど2022年現在重賞馬10頭を送り出している。

2021年1月16日、小倉競馬第2Rをタマモティータイムで勝利し、調教師としてJRA通算400勝を達成した。

2023年2月で調教師を引退することになる彼は、調教師時代もタマモ冠名に報い続ける、まさに仁義の男である。

 

ナリタブライアン全盛期の第45回NHK紅白歌合戦で審査員として出演したり、94年末のフジテレビの競馬特番でゲストに呼ばれた時に酔っぱらって徳利をマイク代わりにして「おふくろさん」を熱唱するなど風流な一面もあった。

 

息子の南井大志は騎手になるも体重管理に苦しみ、2012年3月をもって現役を引退、父・克巳のもとで調教助手に転身した。

 

南井にはハッキリ言って優れた技術はない。ただただ「豪腕」「ファイター」と評される不器用ながらも、根性のある馬に活を入れる名手であった。

騎手として大成するまでに17年かかり、そこからは多くのG1タイトルを獲得するようになった南井の騎手人生を「タマモクロスのような騎手人生だ」と表記する本は多く、そのことに対して質問された時以下のように答えた。

 

GIで勝ったからとか、リーディングを獲ったからといって、人間としてどれだけの価値があるというんですか?(自分がGI未勝利だったのは)GIで本命になる馬に乗っていなかっただけの話じゃないですか。(GI勝利の)チャンスのある馬に何回か乗れば、誰でも勝てるのがGIですよ。

 

最後にタマモクロスに対する南井のコメントを載せておく。

なぜ急に強くなったって聞かれてもわからないけど、僕は最初から能力あるなって感じてましたよ。ただあの馬は凄く繊細で、いつもビクビク周囲を気にするようなところがありましたから。とても賢かったんですよ。少なくとも僕よりは全然頭が良かった(笑) きっと自分で勝つ喜びを覚えちゃったんじゃないかな。あそこまで出世するとは思わなかったけどね。オグリより強かったか? そんな比較はしたくないよ。でも最後の有馬記念は体調さえ万全だったら、絶対勝っていたと思います。あ、比較してしまった(笑)。

 

15年6月サラブレのインタビューにて最強馬はタマモクロスとコメントした南井。競馬人生の終わりを迎える彼の心には白き稲妻が走り続けているのだろうか。

 

ほぼコピペ引用ばかりなので流し読みしてください。

 

タマモクロスVSオグリキャップに関しては以下が興味深いです↓

常識を遥かに超えた名馬タマモクロス≪3≫ | 小原伊佐美の馬路走論 | 競馬ラボ (keibalab.jp)

追加余談:ぶっつけでの状態面と追い込み一手の脚質が懸念されており、一方のオグリキャップは毎日王冠を叩いて状態は万全、展開を問わないレースぶりについても高い評価を得ていた。ステップレースを使わないタマモクロスのローテーションを疑問視する声は少なくなく、小原調教師は心労で円形脱毛症となってしまった。

 

芦毛対決はどっちが強いか?

中村均(天皇賞馬ビートブラックなどを管理)「1800m以下ならオグリ、2000mを超える距離ならクロスとみるのが妥当だろうが、その境となる2000mの勝負。これはやってみなければ答えが出ない

小林稔(天皇賞騎手、フサイチコンコルドなどを管理)「互角かつオグリキャップは外から追い出すスタイルを確立している」「レースパターンが決まっていないタマモには、まだ引き出されていない面が隠されているような気がする

武豊(スーパークリーク主戦)「自分で手綱を取ったことがないので軽率なことはいえないけど、総合力はタマモクロスの方が上だと思う。ただ、今回に限っては宝塚記念以来レースに出ていないのが微妙に響くような気がします。どちらに乗ってみたいと問われれば、それはタマモクロスですね。乗り方が難しそうだし、それだけに注文が付くタイプ。乗り甲斐がある馬だからです。」

田原成貴(マックスビューティーで牝馬二冠)「オグリキャップの毎日王冠での強さを見せつけられると、天皇賞も仕方がないという気はするね。確かに破るとすればタマモクロスしかいないだろう。クロスの良さは強じんな末脚にある。力を発揮できる状態であるならば直線の長い東京は、この馬にとってプラス・アルファとなって働くことは間違いない。騎手としてはクロスで、という気はしないでもない。」

村本善之(メジロデュレン主戦)「乗りやすいということでは、オグリキャップかもしれませんね。気性が素直そうで、どんなレースも出来そうに思えるからです。それでもタマモクロスの追われてからの息の長い末脚は驚異的。乗れるという仮定なら私はクロスに乗ってみたい気がします。」

岡部幸雄(シンボリルドルフで無敗三冠)「どこからも行けるという点オグリキャップに魅力を感じる。どのようなレースにも対応できるのが本当に強い馬なんだ。」

野平祐二(戦後の代表的騎手、シンボリルドルフなど管理)「そばでじっくり観察したことがないので軽率な判断は出来ませんが、こと好き嫌いでどちらかを選べといったらオグリキャップですね。馬体がしなやかで、いかにもバネがありそうです。タマモクロスにしてもあまり見ばえしないのにあれだけ強いということは、それ相応にいいところがあるわけで、察するに、内臓、とりわけ心臓が群を抜いていいのでしょう。いずれにせよ、総合点でオグリキャップに素晴らしさを感じますね。」

境勝太郎(天皇賞騎手、サクラ軍団担当調教師)「脚質を見るとタマモは追い込み一手で展開に注文がつくし、夏を函館で調整しながら毎日王冠を使わなかったのが気になる。その点、オグリはどこからでも行ける脚質であり、一度叩いたのも好材料だ。」

瀬戸口調教師(オグリキャップ担当調教師)「私がオグリのライバルだと思ったのはタマモクロスだけです。それだけに最後に勝てたことは本当に嬉しかった

 

能力は?

日刊スポーツによると、タマモクロスの心拍数はシンボリルドルフと同じ「26」で、かつて獣医師が「この馬の心臓はすごくいい、きっと出世するから名前を覚えておこう」と言ったほど優れた心肺能力を持っていた。

しかし小原調教師の「女の子のようだ」「とても走る感じじゃなかったね」というように期待はされていなかった。

「芝に変わってからは無駄に力を使わなくなった。利口で、それでいて闘志を感じさせる」と評されるほどの勝負根性が特筆され、マッキャロンの策略で立ち向かわなくてはならないほどだった。

本格化以降は低く沈み込むようなフットワークを身につけ、「大きな犬を思わせる走法」「猟犬」と称された。

発走直後は後方に位置取ることが多いものの、直線のみの競馬以外の4角通過順位はほぼ5番手以内と、展開に頼らず自らが動いて勝ちに行く競馬をしている。乗り難しい馬としても有名で南井をして「全然判らない馬ですよ」と言わせている。

 

JRAが配信するエンタメサイト「Umabi」で「人気漫画『みどりのマキバオー』の葦毛の主人公「ミドリマキバオー」はタマモクロスがモデルと言われています」と紹介されたが、作者のつの丸は「ほとんどのキャラクターは特定のモデルはいません」「よくネット上で諸説出ていますが、そういうわけでどれも正解で、どれも不正解、と言っていいと思います」と語っている。

97年に発行された『マキバオー大本命BOOK』の夢の対決企画では、「芦毛で、そんなに大きくない牧場の生まれと、マキバオーと境遇が似ているんですよ」との理由から、マキバオーの相手にタマモクロスを指名、21年にはヤングジャンプのウマ娘大特集において、つの丸画のミドリマキバオーと久住太陽画のタマモクロスのコラボイラストが描き下ろされたことから、大体予想はつくだろうか。

 

小さな牧場で母馬の命と引き換えに生まれ、生まれつき足に故障があるという競走馬として致命的なハンディを乗り越え、基本的に追い込み先方をとった漫画『風のシルフィード』のメイン馬シルフィードはシービークロス・タマモクロス父子の愛称「白い稲妻」が用いられている。「蒼き神話マルス」にも使われている。

 

ニコニコ大百科の筆者より引用

「バブルは楽な時代と言われる事もあるが、同時に「24時間働けますか?」なんて言われて、サラリーマンは遊ぶ暇もなく必死にがむしゃらに働いた時代でもあったのだ。潰れた牧場からやってきて、下積みの苦労も悲哀も存分に味わい、レースではがむしゃらに必死に走る。そんな浪花節溢れる姿に、主に中年以上の競馬ファンは深い共感を覚え、声援を送ったのだった。」

「オグリキャップは第二次競馬ブームの火付け役と言われているが、その人気は迎え撃つタマモクロスが厚い壁となって立ちふさがり、名勝負を重ねたからこそ高まったのだ。その意味で、タマモクロスは競馬新時代のきっかけになった名馬だったと思うのである。」

 

掲示板より

「オグリキャップは怪物。タマモクロスは化物といった形容が当てはまると思います。」

「突然覚醒したという感じでしたね。「上がり馬」自体は多かれど、ここまで頂点に登るような馬はそう現れません。血統は2流、生産牧場は無い、とにかく実力とドラマ性を兼ね備えていた。」

(ネットの不確定気性難エピソードに対して)「タマモクロスは他の話も踏まえるとアクティブに喧嘩売るような気性というより神経質なタイプだと思う。錦野さんは例外として基本的に誰とも仲良くする気はないし、大概の人や馬が敵に見えるから警戒で威嚇するし、関わってきたら全力で撃退する、そんな性格だと思う」

 

個人的にピカピカの出生よりも下から上りあがる傷だらけの馬生が好きです。トラウマや生まれ持った運命をライバルものとも追い抜いていく、短いけど果てしなく夢を見られる疎ら葦毛の馬体。オグリキャップよりも大好きですよ。