猛烈な勢いで上り詰めるタマモクロスと、最後までしっかりと追う南井のパワースタイルのコンビは「遅れてきた大輪」「白い猟犬」と人気を博し、果ては日本一のコンビとなった。

タマモクロスの引退後はかつてのライバル・オグリキャップとコンビを組み、数々の熱戦を乗り越えた。

バンブービギンとのコンビで89年菊花賞を制し、クラシック初制覇を成し遂げた。バンブーメモリーとの激闘で知られるバンブー牧場にとっては、82年ダービー馬バンブーアトラス(鞍上はテイエムオペラオー管理の岩元市三)の叶わなかった偉業を成し遂げる形となった。翌年には代打騎乗ながらハクタイセイ皐月賞を制し、ハイセイコーとの親子制覇に貢献した。

 

シンウインドで京王杯スプリングC、ファンドリポポで朝日チャレンジCを制し、翌年にはシンホリスキーできさらぎ賞を、トウカイテイオーのライバルと目されたイブキマイカグラ阪神3歳SからNHK杯を、ケイエスミラクルでスワンS含むレコード勝ち3回を上げた。

 

90年阪神牝馬特別をメインキャスターで制し、宇田明彦とのコンビによる最後の重賞制覇を収めた。宇田との競馬人生最後の逸話がある。武豊と中日スポーツ賞4歳Sを制することになるロングアーチ、この時日本ダービーの予想では皐月賞を制したハクタイセイで続行すると思われていたが、南井は宇田の馬に乗ってダービーを走りたいとし、結果こそ6着(ハクタイセイは武豊で5着)だったが、G1馬を蹴ってでも恩師に報いたいという南井の人間味を示すものだ。

92年、京都市内の病院で人間ドックを受診した宇田は食道にポリープができているのが発見され、摘出手術を受けるも衰弱し、更には肝癌が発見され、京都市内の病院に入院、1994年1月19日に肝不全のため63歳で現役調教師のまま死去した。

宇田厩舎は解散したが、門下生から南部杯ニホンピロジュピタなどを管理した目野哲也やメイショウドトウ主戦の安田康彦、藤岡佑介・康太兄弟の父・藤岡健一調教師が巣立った。

南井は宇田の死後もフリー騎手ながら宇田厩舎の調教服を着て調教に臨み、生涯恩義に報い続けた。

 

工藤嘉見管理のカミノクレッセとはダート不遇時代において重賞2勝し、安田記念と宝塚記念連続2着と健闘した。

ナリタタイセイでNHK杯、マイスーパーマンでセントウルS(当時1400mG3だった)を制し、代打騎乗のエルウェーウィンでビワハヤヒデを破り朝日杯を制する活躍を見せ、

 

日本ダービーにてマルチマックスの落馬事故により負傷した「気が付いたら空が見えた」後、ネオアイクで今はなきタマツバキ記念を制覇。

そして更なる運命の出会いがあった。大久保正陽の勧めで出会ったナリタブライアンである。朝日杯からクラシック三冠・3歳四冠まで南井の手腕とブライアンの豪脚で見事に偉業を成し遂げるに至った。

この勢いのままにナムラコクオーでNHK杯を、マーベラスクラウンで重賞2勝上げたのちコタシャーンやパラダイスクリークといった世界の強豪を抑えジャパンCを制する好成績をたたき出した。年間GⅠ4勝は当時の最高記録、94年は南井の天下であった。

 

クイーンC・アーリントンCをエイシンバーリンで、共同通信杯4歳S・スプリングSをナリタキングオーで、阪神大賞典をナリタブライアンで、小倉3歳Sをエイシンイットオーで制し順調だった中、95年10月14日に京都第4競走・4歳以上500万下でタイロレンスに騎乗した際、発走前にゲート内での落馬により右足関節脱臼骨折し、全治4か月の重症を負ってしまった。

 

96年のアルゼンチン共和国杯をエルウェーウィンで優勝、馬にとっては4年ぶりの重賞制覇、自身にとっても復活優勝であった。

 

翌97年にエイシンバーリンで京都牝馬特別とシルクロードSを制覇、特にシルクロードS日本競馬史上初めて芝1200メートルで1分7秒の壁を破る1分6秒9の日本レコードタイムで勝利する記録であり、葦毛のバーリンとのコンビは人気であった。

ロイヤルスズカでダービー卿チャレンジT、シンカイウンで朝日杯チャレンジCを制する中、はたまた偉業を成すことになる。

シンウインド以降縁のある二分久男調教師からマチカネフクキタルを預かり、秋の神戸新聞杯・京都新聞杯・菊花賞を怒涛の勢いで制覇、フクキタルの鬼脚と南井の手腕がかみ合い称賛されている。

翌98年に目黒記念をゴーイングスズカで制した後、武豊の代打騎乗でサイレンススズカ宝塚記念に挑んだ。代打と距離不安から抑えの逃げながらも見事に優勝し、結果として人馬共に最後のGⅠ制覇となった。

 

工藤厩舎のウイングアローでスーパーダートダービーなど重賞4勝し、後に朝日杯を勝つアドマイヤコジーンで東京スポーツ杯3歳Sを制したのが最後の重賞制覇である。

 

ラストライドとなる99年2月28日の白川郷S(1600万下)にて、リキアイワカタカを勝利に導き有終の美を飾った。

逸話として戦友の土肥幸広(17年に55歳で没)から鞭を借りて騎乗、南井の押切に迫った2着ケイエスグットワンの鞍上が土肥であった。土肥は引退後は南井克巳厩舎の調教助手に転身していた。

レースを中継した東海テレビでは、最後の直線で実況アナウンサーである吉村功が「ここでは他の馬には失礼して」と断ってから、カメラを鞍上の南井の姿をクローズアップにして実況を行われた。

南井 克己騎手 引退レース 白川郷ステークス リキアイワカタカ - YouTube

 

通算勝利13120戦1527勝、重賞勝利77勝、G1級勝利16勝である。グローバルダイナやキクノペガサスといった名牝との出会いはあったが牝馬GⅠには手が届かなかった(イブキマイカグラの阪神3歳ステークスが最後の牡馬限定戦だった)。

2000年に工藤嘉見厩舎を引き継ぎ、かつて騎乗したウイングアロー第1回ジャパンカップダートを制し1年目でG1制覇を飾った。縁の深いタマモホットプレイやタマモベストプレイなど2022年現在重賞馬10頭を送り出している。

2021年1月16日、小倉競馬第2Rをタマモティータイムで勝利し、調教師としてJRA通算400勝を達成した。

2023年2月で調教師を引退することになる彼は、調教師時代もタマモ冠名に報い続ける、まさに仁義の男である。

 

ナリタブライアン全盛期の第45回NHK紅白歌合戦で審査員として出演したり、94年末のフジテレビの競馬特番でゲストに呼ばれた時に酔っぱらって徳利をマイク代わりにして「おふくろさん」を熱唱するなど風流な一面もあった。

 

息子の南井大志は騎手になるも体重管理に苦しみ、2012年3月をもって現役を引退、父・克巳のもとで調教助手に転身した。

 

南井にはハッキリ言って優れた技術はない。ただただ「豪腕」「ファイター」と評される不器用ながらも、根性のある馬に活を入れる名手であった。

騎手として大成するまでに17年かかり、そこからは多くのG1タイトルを獲得するようになった南井の騎手人生を「タマモクロスのような騎手人生だ」と表記する本は多く、そのことに対して質問された時以下のように答えた。

 

GIで勝ったからとか、リーディングを獲ったからといって、人間としてどれだけの価値があるというんですか?(自分がGI未勝利だったのは)GIで本命になる馬に乗っていなかっただけの話じゃないですか。(GI勝利の)チャンスのある馬に何回か乗れば、誰でも勝てるのがGIですよ。

 

最後にタマモクロスに対する南井のコメントを載せておく。

なぜ急に強くなったって聞かれてもわからないけど、僕は最初から能力あるなって感じてましたよ。ただあの馬は凄く繊細で、いつもビクビク周囲を気にするようなところがありましたから。とても賢かったんですよ。少なくとも僕よりは全然頭が良かった(笑) きっと自分で勝つ喜びを覚えちゃったんじゃないかな。あそこまで出世するとは思わなかったけどね。オグリより強かったか? そんな比較はしたくないよ。でも最後の有馬記念は体調さえ万全だったら、絶対勝っていたと思います。あ、比較してしまった(笑)。

 

15年6月サラブレのインタビューにて最強馬はタマモクロスとコメントした南井。競馬人生の終わりを迎える彼の心には白き稲妻が走り続けているのだろうか。