引退後はシンボリルドルフと同額の10億円(2000万円×50株)のシンジゲートが組まれ、北海道静内町のアロースタッドに繋養された。連勝開始後「何処までも頑張り抜く闘争心」を持つようになったタマモクロスは気性が悪化し、見学者に突然噛みつくに至ったため放牧地の柵には赤ペンキで「チカヨルナ」と書かれた板が貼られた。種牡馬になると比較的落ち着く馬というものだが、最後まで治らなかったという。

引退してから数年後の91年4月17日、父シービークロスが脳および内臓全体が黒色腫に冒され腫瘍破裂のため17歳で死去、例外的に内臓のみに症状が広がり、発見することができなかった不慮の死である。

同じシービークロス産駒のホワイトストーンは98年に12歳で死去、シービークロス血統はタマモクロスに託されることになった。

1992年から産駒を出すようになったが、その時には三野オーナーは亡くなっていた。「早く産駒が観たい」という夢は叶わなかったのだ…。

タマモクロスが種牡馬入りした時代はノーザンテーストやリアルシャダイ、トニービン、ブライアンズタイム、そしてサンデーサイレンスの輸入種牡馬時代であり、オグリキャップをはじめ内国産種牡馬が成績を出せない中奮闘することとなる。

1994年にデビューしたカネツクロスは遅咲きながらオークス馬ダンスパートナーを破ったAJCCをはじめ重賞3勝し、父の歩んだ秋古馬三冠や宝塚記念に出走し、逃げ馬の個性派としてターフを盛り上げた…が種牡馬入りはできなかった。

1997年デビューのダンツシリウスはアグネスワールドをシンザン記念で破り重賞2勝するも使い詰めのため早期引退した。産駒は繫殖入りできず断絶である。

2001年デビューのマイソールサウンドはマイル路線から中長距離路線、果てはダートで活躍し、阪神大賞典など重賞5勝を挙げるが引退後はSSを母父に持つため種牡馬入りできず誘導馬となった。

最後の重賞勝ち産駒は津村明秀に初重賞制覇をもたらし、2009年に京都金杯を制したタマモサポートである。乗馬になったため血統は存続していない。

日経賞でゼンノロブロイを破ったウインジェネラーレは種牡馬入りするも、園田の3歳C2戦を制したベビークイーンが代表産駒にとどまり、その後死亡している。

地方ではブラッククロスが94年のNARグランプリサラブレッド系4歳最優秀馬に選出される活躍を見せるも、代表産駒にG1馬輩出出来ず、直系は途絶えた。

後継こそ残せなかったが中央重賞勝ち9頭を輩出したタマモクロスは内国産種牡馬で好成績を残したといってもよいだろう。

 

2003年4月10日、腸捻転のため19歳でこの世を去った。新ひだか町の桜舞馬公園にタマモクロスの墓碑が建てられ、翌年の2004年10月にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」の一環として「タマモクロスメモリアル」が同年の天皇賞(秋)施行日の東京競馬場にて行われた。

 

ブルードメアサイアーとして同じフォルティノ系のヤマニンアラバスタや重賞4勝ヒットザターゲットを輩出、そして2022年に彼を母母父にもつナランフレグが高松宮記念を制した。今後も彼の血統を見れる可能性は十分にあるのだ。